回想:独りきりの絶対性
「ほい、次はこれな」
チリ紙を渡す気安さで投げられたボロボロの文書を、デイジーは辛うじて取り落とすことなく受け止めた。何度も手中で弾ませ、滑稽な舞踊のような足取りで動き回った彼女の様子に、顔の左半分に竜が踊る少年は苦笑を浮かべる。
「パッと見ボロいが、それ写本だ。破れても問題ないぞ」
「しゃ……ほん……?」
「あーつまり俺が書き写した奴だ。中身はともかく価値は全然ない。教科書と同じぐらい雑に扱って大丈夫だ」
「教科書……私持ってない」
「……俺が悪かった」
バツが悪そうな表情に変わったユアンを見て、反射的に顔を落として身を竦めるが、予測していた『次』は来ない。『経験』が導き出した反応は目前の青年に対して不適切と、デイジーはそこで気付きに至る。
自省しながらおずおずと視線を引き上げ、強烈な生気を放つユアンに圧されないよう、歯を食い縛りながら写本を開く。
決意に満ちた幼い貌は頁を捲る度に歪み、十五ページ程捲った頃には目の端に涙を溜めていた。
「ちょっと待て。お前の歳なら、このくらいの図なら読めるだろ。学校で何……」
「先生は私に教えてくれないもん。バカで教科書も持ってこないから、もう良いやって言われた」
後ろ暗い方法で入手した写本は、低位魔術だけが記された幼年教育向けの物であり、記載されている術式も最も難易度が低い『アグリアス式』に限られている。ユアンが選んだ理由もそこにあるのだが、デイジーの放置具合は彼の想像を遥かに上回っていた。
「親は何教えてた? あんだけギャーギャー喚いてたなら、普通にここら辺は抑えているモンだろ」
「パパは魔術わからないって。元々、剣を使うお仕事みたいだし……」
当初は家庭教師も付いていたのだが、彼等はロクに成果を出せないデイジーに呆れて次々と辞めていった。その度に「救いようのない能無し」と罵られ、手酷く殴打された記憶が浮上し、無意識に体が震える。
ユアンの教えで『牽火球』を扱えるようになったが、そこからの進歩は無に等しい。机を並べる者達は皆、その先へ容易に到達している事を踏まえると、嫌でも現実が見えてしまう。
自己嫌悪が五臓六腑に染み渡り、滲み始めた視界の端でユアンの靴が別の方角へ向けられる。今度こそ見切られてしまうのか。怯えの色をさらに強めたデイジーの耳に届いた言葉は、彼女の予測を大きく裏切る物だった。
「基礎から分からないなら、俺じゃ無理だ。だから分かる奴を連れてくる……二十分で戻るから待ってろ」
言い終わると同時に公園を飛び出し、呆気に取られたデイジーが瞬きした頃には、人波に飛び込んだユアンの姿は消えていた。
かなり強引に突入した上、整った顔に刺青を刻んだ目立ち過ぎる容貌にも関わらず、道行く人々は誰も反応しない。
気配を消す術か、そもそもの体捌きが異様に高次元なのだろう。陳腐だが妥当な結論に着地したデイジーは、待ちを選んでベンチに腰を降ろす。
出会ってから既に四か月。週二回程度の指導を受ける奇妙な関係を構築した少年の素性を、デイジーは何も知らない。顔面に踊る刺青は何らかの生物を象っているが、正解をユアンは告げず、図鑑を調べても出てこなかった。
詳細を問うた時は殴打されて終わりだったが、その反応と邂逅時のあからさまな動揺から、父は彼について何か知っている。
下手なりに描いた絵を教師に見せた時にも、父と似た反応が返ってきた事実も踏まえると、ユアンの素性は真っ当な物でないのは確かだろう。付け加えると、指導を受けている時に出くわした同級生達からも、軽蔑と嘲笑の眼差しを向けられた。
提示された事実と正しさに基づいて判断するなら、早急に断ち切るべき後ろ暗い関係と、デイジーとて自覚している。
この年齢に求められる正しい関係性を、自他両面の問題から確立出来ていない彼女にとっては、土台無理な話なのだが。
――でも、皆と違ってユアンはわたしを殴らないで話してくれる。……こっちの方が楽しいもん。
何気なく放り投げたが、幼子が導き出す物として悲惨な結論を下し、投げ出した足を揺らしながら待つデイジーは、やがて沈黙に飽きを感じて小さな鼻唄を歌い始める。
音は途切れ途切れで、元の曲を知る者なら調子はずれな箇所が散見される歌は、何処か物悲しい趣を抱えて空へ乗る。
何気なく紡ぎ始めた歌は、父が嘗てデイジーに贈ってくれていた子守歌だ。彼女と同様上手くなかったが、それでも愛情の一端を垣間見た物として心に刻まれ、対象年齢をとっくに過ぎた今でも時折紡いでいる。
あの時は、確かにそうだった。しかし、今はどうなのか。
毎日脳裏を掠め、答えが出ぬまま消えて行く問い。また今日も巡り始めた時。
「一体なんなんだ。こんな公園に連れてきて……」
「来れば分かるって言ったっしょ? おー悪い悪い遅くなった、教師連れて来たぞ」
美しいが軽い声と共に駆けてくるユアン。彼の数歩後ろを、一人の青年が疑問符を頭の上に描きながら追従する様に、歌を止めて立ち上がったデイジーは首を傾げる。
乱雑に切られた茶髪に、整っているが何処か気苦労を感じさせ、鼻の位置を奔る横一文字の傷が目を引く顔。眼鏡も相俟って大人びて見えるが、確実に父より若い男は固まっているデイジーとユアンを交互に見比べ、怪訝な面持ちに転じた。
「この子が、お前が言っていた『教えたい奴』か。随分幼いな……君、名前は。それと何歳かな?」
膝を曲げ、視線を合わせて問うてきた男の声はやはり若い。表情こそ硬いが、打算の類が排された純粋な配慮が伺える対応に、デイジーは暫し言葉を失う。
「すまない、先に名乗るべきだった。俺はパスカ・バックホルツ。アークス王国軍に所属している。このユアンとは……ロクでもない仲間だ」
「親友って言いましょうや」
「うるさい黙れ……さて、君の名を教えて欲しい。知らずとも語れるが、ユアンが君の敵でないなら、俺もそうだ。なら、お互いに知っておいた方が良いだろう?」
「ちょっとばかし堅物だが、パスカさんなら変なこたしねぇよ。だから安心して名乗っとけ」
「この子にいつも、今のような雑な対応をしてるのか?」
「あっやっべ……」
漫談のように滑らかで、互いに遠慮のない会話は二人が対等な友人であることをデイジーに示す。ユアンの友人なら危害を及ぼすことも無いだろうと、経験で積み重ねた悲しい打算含みの判断も含め、決を出したデイジーはおずおずと口を開く。
「わたし、は。デイジー。デイジー・グレインキーです。八歳です」
「そうか、良い名前だ。これからよろしく頼む」
伸ばされた手を取り、握手を交わす。
固い感触はユアンの手にも感じたが、パスカの手は更に固い。本職の軍人ともなると、やはり武器に触れる時間は長いのだろうと感心しながら顔を上げる。
「……どうか、しましたか?」
「いや、大丈夫だ。……少し待ってくれ」
手を握った瞬間、露骨にパスカは表情を曇らせた。「大丈夫」で済ませられる変化ではなかったが、既に相手はユアンと打ち合わせを始めている。
疑問はあるが深追いはしない。相手の気分を害した時、降りかかる危険性を踏まえると出来ない。
躊躇している間に、破綻無き表情と教本を引き連れたパスカがデイジーの前で、人差し指を立てる。
「教師ってぇより、胡散臭い商材の業者みたいっすね」
「夕飯も奢れよ。魔術とは大気中から素粒を取り込み、個々が体内に持つ回路で魔力に変換する。脳内で演算を重ねて……これだと分かりにくいな。ここではない別の何処かで騙りを組み上げて、最終的に放出する。ユアンから聞いていると思うが、体内の流れをどう捉えるかで結果は大きく変わる」
「う、うん……」
淀みなく語られる言葉に、辛うじて食らい付くが、返答が鈍ったことに気付かれた。言葉が止んだパスカから、半ば条件反射でデイジーは顔を背ける。
身を硬くして備えるが、予想していた物は来ず、場に停滞の時間が流れる。
上方の太陽が若干傾く。までは行かずとも、それなりの時間を空費して相手が何もしてこない状況に気付く。
「分からない、出来ない事は俺にも山のようにある。君の年齢なら猶更だ。俺達はそこを否定しないし、君に危害を加えるつもりもない。だから楽にしてくれ」
パスカ・バックホルツと、ジャングルジムの頂点でだらしなく座り込むユアンは真剣そのもの。嘘や嘲笑の影は見当たらず、暴力が行使される気配もない。
――信じて、良いのかな。
恐怖が完全に拭い去られた訳ではない。ただ、この数か月ユアンが提示してくれた物と、彼が連れて来た人物という事実が、パスカに対する最低限の信頼をデイジーに与えた。
「ごめ……」
「謝罪も要らない。君は俺に、何も悪いことをしていないだろう」
「そうだそうだ、パスカさんだからもっと気楽に……ぬおっ!」
「お前はもう少し敬え。デイジーは撃たずとも、お前相手なら撃つぞ」
「撃ってから言わないで頂けますかねぇ!?」
「安心しろ、ゴム弾だ。横道に逸れたな、再開しようと思うが良いかな?」
流れるように逸れて行った言葉が、自分に戻って来る。
年齢は一目瞭然で、能力や社会的立場もまた然り。本来なら物も言わずに踏み潰してきても当然の相手が、怒りや憐みを向けずに接してくる。まるで慣れない状況は、デイジーにはとても新鮮で、心の底から歓喜を喚び起こした。
「……だい、じょうぶです。よろしくおねがいします」
「分かった。それでは再開しよう」
つかえながらの言葉に笑顔で応じ、パスカはデイジーに小さな剣を手渡す。
形状は王国軍人が携行する短剣に近いが、刃は樹脂製で柄の部分には無数の管が走る、明らかに戦闘用とは思えぬ代物。デイジーがパスカの顔と短剣を見比べていると、苦笑と共に青年は言葉を紡ぐ。
「魔術を扱う者は、最終的にそれらを全て体内で完結させる。だが、最初から出来る者など天才か気狂いだけだ。そこで、その短剣の出番だ」
「?」
「柄の回路は刃に直結し、別方向への魔力の流出を防ぐ。まずは、剣に導くことだけを意識するんだ。回路や式といった話は、これが出来てからの話だ。最初は皆、このような形で学ぶ。君が特別悪い訳ではない」
「……はい!」
本来得られるべき物が欠落しているデイジーにとって、パスカの言葉や、遠くで見守るユアンの眼差しは、自分が受け取って良いものかといった悩みも生んだ。
だがそれ以上に彼らが対等な目で見て、そして否定をしない事に対する喜びが勝った。
覚束ないながらも剣を掲げ、自身の脳内でパスカの声を反芻しながら意識を整える。
「行きます!」
宣言と共に意気揚々と始まった鍛錬は、陽が完全に沈む頃まで続いた。
紡がれた魔術の精度が多少の向上を見たものの、飛躍的な進歩とは言い難く、本来なら失敗と言って差し支えない物だ。
人生で最多となる魔術発動を試みたデイジーは肩で息をし、滝のように汗を流す。肉体は途轍もない疲労を訴え、ここが公共の場でなければ倒れ伏していただろう。
「ありがとう、ございました!」
頽れそうな体で立ち上がり、頭を下げる。疲労困憊のデイジーは、爆発しそうな程の充実感に満たされていた。
「一日では無理だ。だが、練習を重ねれば必ず辿り着ける。その短剣は預けるから、自分でも練習すると良い。次に会った時は、また別の方法を教える」
「言ったろ、信頼出来るって。この人に教われば、俺程は無理でも良い線行けるようになるさ」
二人の声を受け、デイジーは満面の笑みを浮かべ――そして刻限を示す鐘の音を聞いて、少しだけ俯いた。
幸せな時間は、日常の時間経過よりも遥かに速い。戻ればつまらない、いや苦しい現実に対面する事が確定していては、心も曇って足も鈍くなる。
価値の天秤を掛けてしまえば、パスカとユアンが自分を見る意味は本来無いと知っている。理解しながらも、デイジーは言わずにいられなかった。
「私には、なんにもないです。けれども、なりたいものはあります。……また、よろしくおねがいします!」
「勿論だ。仕事が無ければ、幾らでも付き合おう。君はユアンと違って、真面目で良い子だからね。ここから更に暗くなる、送っていこうか?」
「大丈夫です! 一人で帰るのは慣れてますから!」
相手の返答を待たず、デイジーは疲労で縺れる足に鞭打って走る。稚拙な演技など見抜かれているのは、彼女も自覚している。
無価値な能無しに手を差し伸べてくれる二人は、打算なく耳を傾けてくれる。もしかすると、現状打開の為に動いてくれるかもしれない。
だが、それは求めてはならない物と分かっていた。
幼き体に決意を宿し家路を急ぐ少女の背を、残された二人は静かに見つめる。
彼女の気配が完全に失せた頃、パスカが懐から煙草を取り出し、火を灯す。たなびく紫煙を見つめる青年の傍らに、無音で降り立ったユアンは美貌に険しさを湛えていた。
「呼ばれた時の疑問は解けた。お前にしては珍しく、遊びの成分が無いな」
「餓鬼で遊ぶ趣味はありませんよ。何も楽しかないですし、アイツはそうされるだけの事はしてないですからね。……どうでしたかね」
「肉体的な成長は若干遅い。否定的な感情をぶつけられる事に対する、異常な恐れがそれを増幅させているが、致命的に劣っている訳ではない」
教導者の仮面を剥ぎ、一人の男に戻ったパスカの分析を受け、ユアンは小さく肩を撫で下ろす。縁もない無力な少女に、そこまで肩入れする理由に疑問を抱くが、それは表出させぬまま、パスカは低く唸る。
冷徹な答えを告げるべきか否か。青年の眼に躊躇が掠める。すぐに仕舞い込んだものの、出自と能力の関係か目敏く捉えたユアンが「話してくれ」と手ぶりで示す。
「楽しくない話になるぞ」
「構いやしませんよ。知っても何か変えるつもりはないですし、知らないままの方が間違った時の傷は深くなる。そのぐらいは俺も知ってます」
どう振る舞おうが絵になる、理不尽な美貌と戯けた言動からは想像できない程、ユアン・シェーファーの人間性は苛烈だが真摯だ。理由が何であれ首を突っ込んだ時に覚悟は完了していて、後付けで何があろうと揺らぎはしない。
今日に至るまでの交流で、それを十全に知っているパスカは首肯を返す。
それでも尚痛む心を踏みつけ、言葉を絞り出した。
「鍛錬を重ねれば、それなりの所には辿り着ける。だが、あの子の魔術回路や血流は異常に活性化していた。恐らく、家族から成長ホルモンを始めとした薬物の投与を受けている。医療用の範囲を大きく逸脱した量だ」
幼子に投与する気狂いが、合法的な物を用いているとは考えるのは楽観的に過ぎる。甘言に乗って未認可な、いや違法な代物を投与している可能性は十全に高い。
良薬も過ぎれば毒薬になる。毒が過ぎた結果は、毎年数人は現れるスポーツ選手や木端戦士の死亡事故だ。
最悪を回避しても、適切な投与が為されなければ本来の物とは異なる効果が齎されるのは周知されている。デイジーの手を触れたパスカは読み取り、彼の表情でユアンもまた理解した。
して、しまったのだ。
「家族の抱く過大な欲望を具現化させる為に、あの子は足掻いている。だが、薬物の過剰投与で壊れかけている体は、それを許さない。……何より、あの子は優しすぎる。そもそも戦いに向いていないんだ」
「……」
「それなりにはなれる。だが、望んだ姿には絶対になれない」
◆
慮ったが故に弾き出された残酷な結論を若者達が共有し、解散した頃。
重い扉を難儀して開くと、デイジーにとっての現実が待っていた。
聞くに堪えない醜悪な罵声と、食器や家具が砕ける音。
「グレインキーは由緒正しき家系」だの「没落したのは社会が間違っている」だのと、中身を解き明かせば、無駄にスケールが大きくなった愚痴でしかない。
指摘を重ねるなら、どれだけの聖人や強者でも、油断をすれば退場を余儀なくされる世界で、たかが一国の一貴族の没落などありふれた話。食い止める事も、転身を遂げて別の活路を見出す事も出来なかったのは、間違いなく父を含めた一家の責だ。
罪悪感を抱く必要など何一つないのだが、デイジーは顔から生気を消し、石膏像も同然の無表情で部屋へ向かう。
日常と照らし合わせれば、父は必ず部屋に来て「指導」するだろう。
人格否定も存分に含んだ罵詈雑言と、一般人が手に入れられる道具を用いた「指導」は、幼子の心を削り取るには過大な効果を持つ。
また何かが失われ、体の何処かが削られる。
痣に満ちた右腕を掴み、羽虫のさざめきに似た音に聴覚を苛まれながら、デイジーは目を固く瞑る。
「パパも、学校のみんなも、誰も悪くない。なんにもできなくて、ちゃんと喋れないわたしが、全部悪い。だから、もっと頑張らなきゃ。パパが言ってるみたいに、すごい軍人にならなきゃ……そうしたら、わたしも、お姉ちゃん達とおんなじ……」
不意に胸を鈍痛が襲い、閉ざされた瞼の裏に移る世界が極彩色に変じる。
「……!」
耐え難き激痛に頽れ、悶え苦しみながらもデイジーは己の拳を強く握りしめる。
爪が皮膚を食い破り、血が滴り落ちる感触に一抹の安堵を感じた彼女は、小さく呟いた。
「なれたら、わたしもだいすきって言ってくれるよね」
彼女にすら聞こえない叫びは、部屋を支配する虚無だけが認識し、やがて消えた。
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