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 家の壁に刻まれた落書きや、塗りたくられた汚物を除去することが、いつの間にか日課になっていた。

 最初は水で落ちる物だったのが、徐々に薬品を使わねばならぬ類で刻まれた物は、およそ「売国奴への鉄槌」を掲げていた。つまり、このような行為は大半のバディエイグ国民にとって正しい行為なのだろう。

 十一歳のそれとは思えぬ、薬品の多用で荒れ果てた手を眺めて、倦んだ溜息を吐く。惨状の原因となった父は、未だ帰国を許されていない。戻れば合法的に殺害される可能性がある為、喜ぶべきなのかもしれないが、元凶の彼だけがこの光景を見なくても済んでいると考えると、内心に影が差してしまう。

 優れた科学者の父は、バディエイグと他国を行き来する形で研究に励んでいた。殆ど家に帰って来なかった上、殆ど研究内容について教えてくれる事は無かったが、決して妥協することなく物事に邁進する姿勢は、誰からも尊敬を集める物だった。

 たまにしか帰って来ず、家で仕事の話をすることも皆無。そして自分に対して何か強い主張を、一例として彼のように日夜勉学に励む事も強制されることもしない人物だった。


「世の中は建前に支配されている。それは一つの正しい側面だ。ただ、それに縛られるだけでは、本当に生きているとは言えない。胸を張って自分が正しいと思えることを叫ぶ為には何をするべきか、考えて生きなさい」


 唯一、繰り返し伝えてきた言葉は単なる指針ではなく、本当に父がそれに殉じて生きていると鮮明に伝えたのは、一年前の事になる。

 遙か遠くのアメイアント大陸に拠点を置く『ティンバーズ』なる企業と組んだ父は、大気中の素粒を取り込み、自発的に魔力の生成と充填を行う画期的な素材を生み出した。

 戦闘のみならず、上手く組み合わせれば医療の場面でも多大な効果を齎すその開発は、世界から賞賛を浴び、バディエイグでもそれは同じ。

『国の英雄』『バディエイグ人の誇り』と、耳がむず痒くなる賛美の言葉は、国際的な祭典の場で父が爆弾を投下するまでだった。


「今のバディエイグは中身の無い愛国心に酔い、他所を見ずに自己の内側で完結し、ただ堕落の道を歩んでいる。技術開発にせよ、可能性ではなく如何に統治者の思想を賛美し、彼等に便宜を図ったかによって予算配分が決まる。

 私が成したのは、バディエイグに産まれたからではない。常に他者が成す事への危機感を抱き、志を同じくする者と共に切磋琢磨したからだ。我が祖国が下らない催眠から解き放たれ、真の意味で発展することを願う」


 要約すればこんな所だが、開かれた場で祖国の批判をすれば、受け手側がどう判断するかは言うまでも無い。彼の指摘通りの国民性であるならば、着地点もまた然り。

 賛美の言葉は瞬く間に消え、売国奴だの税金泥棒だの愛国心の欠落した非国民だの、多種多様な称号が新たに与えられた。

 物語の英雄が何の躊躇も無く悪と位置づけた存在を抹殺するように、父の存在はバディエイグから徹底的に抹消され、独立記念大学にあった彼の研究室は即座に解体された。

 そして、正義は家族である自分たちにも向けられて今に至る。

 虚無感に苛まれながら動いていた手が止まり、大きな溜息を吐く。

 既に個人情報はばら撒かれ、楽しい娯楽の道具として名誉は毀損され続けている。仮に訴訟を起こし、勝訴したとしても手を変え品を変え、正義を掲げた嫌がらせは国民が飽きるまで続く。飽きた頃には、最早取り返しの付かない所に辿り着いている。

 明るい未来など、自分には無いのだ。

「なるほど。君がスファルト博士の娘か」

 低い声を受け、弾かれたように振り返る。時折やってくる、憂さ晴らしに投石や暴力を仕掛ける輩を予想していたが、立っていたのは軍服に身を包んだ男だった。

 ついに殺しに来たのか。

 最悪の予想と共に、護身用に持ち歩いている料理用の短刀を構えると、男は肩を竦める。

「君を殺しに来たのではない。寧ろ、未来を持ってきた」

「未来を」

 とっくに失われた単語を発した、実直そうな男は重々しく首肯する。

「君に特別な力がないと知っている。そして、理不尽を知っていることも。バディエイグを変える試みに、乗ってみないか?」

 服装を見れば、男がその国に従属する存在であるのは今更語る余地がない。

 未来が歪められるまでの自分なら、鼻で笑ってお引き取り願っていただろう。

 そして、歪んだ今の自分には、この道が数少ない蜘蛛の糸であるとも理解に至っていた。可能性が極めて少ないのならば、乗る以外に選択肢は無い。

 伸ばされた手に、手を預ける。軍人の男は苛烈な感情を内包した、しかし高潔な笑みを浮かべる。

「まずは身体検査からだ。行こうか、アティーレ・スファルト」


                  ◆


 かくん、と頭が大きく揺れ、そこで目が覚めた。

 ズレた眼鏡を整え、何度か瞬きを繰り返す。一分程度を消費して、ベラクスの忠実なる右腕アティーレは、自分が軽食屋に入って昼食を摂り、うたた寝をしていた事実に着地する。

「……しまった」

 今は治安維持パトロールの最中。緩みを見せてはならない仕事に於いて、とんだ失態と言えるだろう。

 緩んだ髪をキツく縛り直し、装備を整えたアティーレは立ち上がり、機敏かつ流麗な所作で会計を済ませる。

「あの……」

「釣り銭は結構です……って、それじゃ駄目か。申し訳ありません」

 国民から軍人がどのように見られているか、重々承知。何気ない行為であっても、拡大解釈されると、何らかのトラブルに発生する可能性は決してゼロではない。

 非常に小さかろうが、ゼロでなければそれは立派な火種だ。

 ベラクスに徹底して叩き込まれた教えに従い、釣り銭を受け取ったアティーレは立てかけていた二輪車に跨がり、ウラプルタの町を疾走する。

 機械に明るい者ならば、発動機だけでなく生物の拍動に似た小さな音が彼女の駆る二輪車から放たれている事に気付く。

 近年コルデック合衆国のような先進国で流行し始めた、燃料電池発動車の機構を転用した物ではなく、アティーレの父が生み出した、呼吸する金属を元に作られた特殊な蓄電池を搭載しているのだ。

 あくまで予備機関であり、停滞したバディエイグでは性能の向上は不可能だが、それでも有用である事は疑いようがない。そして、ベラスクの下に就き、母や兄弟から絶縁された彼女にとって家族との繋がりを感じる唯一の物だった。

 一機だけの機体が与えられたのはベラクスの配慮だろうが、乗る度に少々複雑な物も感じているアティーレの耳に、通信音が届く。


「状況はどうだ?」

 平板な声と直截な問い。この二つを満たす通信相手など、一人しかないない。

「特に何も。継承者と異邦人の御守はどう、コルヴァン?」

「退屈。そして不愉快だ」

「あなたがハンヴィーのこと嫌いなのは知っているけれど、殺しちゃ駄目よ」

「当然だ。負ける戦いは好まん。息災なら何よりだ、死ぬなよ」

「そちらもね」


 短いやり取りを終え、通信が切れる。四つ年上の同期コルヴァン・エラビトンの仏頂面が目に浮かび、アティーレは小さな笑みを零す。

 ベラクスを上回る現実主義者のコルヴァンは、ハンヴィー・バージェスにまつわる話を極端に嫌っている。彼に加えて、異世界とやらからの来訪者を含む集団と共にファナント島へ向かう指令など、大爆発を危惧したものだ。

 ただ、ファナント島で彼等を害しても利はない。それどころか、信仰対象を害せば予想だにしない所からの一撃を被りかねない。私的な感情に基づく軽挙など、よほどのことが無い限りコルヴァンはしない筈だ。

 まぁ、何とかなるでしょう……っと。

 視界の端に見慣れた物を捉え、急制動を掛けて二輪車を停止。ヘルメットを脱いで広がった視界に、同じ制服を纏った三人組が商人と思しき男性に喚く様が映る。

 ベラクスが、否、誰が頭であろうと軍が頭に立てば、短慮な輩は必ず現れる。苛烈な試験を課して篩いに掛けても、容易に暴力を行使する存在が支配者側に回る弊害と言わんばかりに現れるそれは、当然害悪でしかない。

 ――何のために給金を受け取っているのだか。

 呆れつつ腰に差した突剣『宣剣セティアック』を抜き、安全装置を解除。柄に設けられた引き金を引き、空薬莢が排出。

「ごわッ!」

吼恐波ゲルクタン』による音の槌を浴び、不埒な軍人共は転倒。立ち上がるなり怒りの眼差しを向けてきた男達は、彼等よりも遙かに階級が上回るアティーレを視認するなり、もう一度殴られたかのように身を竦める。

「誰から指示を受けた?」

「そ、それは……」

「答えろ。誰が、貴官に、一般市民への不法行為を命じた?」

 体格で遙かに勝っているにも関わらず、男達はアティーレの放つ声に圧される。沈黙を守りたかったのだろうが、その場合に描かれる最悪の未来図が彼の中に描かれたのか。

「……独断、です」


 呻き同然の返答を受け、セティアックが振られる。


 突剣は答えた男の眼球から数ミリの地点を駆け抜け、前髪を幾本か切り飛ばしてアティーレの鞘に戻る。切断力で大きく劣る武器による曲芸は両者の実力を克明に示し、男達から反抗の意思を奪い去った。

「今すぐ官邸に向かえ。貴君達の処分は総統が行う」

 出来損ないの敬礼を返し、転がるように逃げていった男達に一瞥を暮れ、商人に視線を戻す。アティーレに向けられる物は、確かな敵意だった。

 敵意を読み取りながらも、彼女が差し伸べた手は乱雑に払われる。

「規律は機能していると、示したつもりか? くだらねぇ××××××行為に浸ってないで、手前の大将の首を取ってから国民の事を考えてますってツラしろよ」

 高純度の侮蔑を叩きつけ、商人の男は去って行く。宙づりの右手を茫と見つめ、アティーレは町の片隅に立ち尽くす。

 確かに国民を多く殺害してきた。しかし、国としての指標や国民の生活水準は向上した。

 虚妄に浸って何もしなかった、そしてアティーレを歪める一因にもなった嘗ての政権では得られなかった成果が確かにある。だが、国民が向けるのは憎しみの方が強いだろう。

 ――いずれ、私の選択も過ちに変わる。そこから先に待っている未来に繋ぐことこそが、使命なのかもしれない。

 手を取った時にベラクスが放った言葉は、近頃彼が見せる姿と重ね合わせると妙な説得力を持って彼女の脳内を駆け巡る。

 放置された二輪車が警告音を発する時まで、彼女はそこに立ち尽くしていた。


                   ◆


 同時刻、フラヴィオ・バージェスがベラクスの執務室に配された、革張りの応接椅子に座している。

 税金で研究を行っている上、ハンヴィーに様々な便宜を図ってくれている相手からの呼び出しとなれば、彼に断る理由などない。そして、彼の中でベラクスの不興を買う真似をした記憶も無い。

 ――大丈夫だ。理を持って話せば通じる。過激な民主化運動の連中よりはマトモな相手だ。

「遅れて済まない」

 呪文のように同じ言葉を繰り返している内に扉が開かれ、バディエイグの統治者が姿を現す。立ち上がって一礼し、相手に促されて再び腰を下ろす。

 ――少し痩せたな。それに顔色も良くない。……何かあったか?

 呼吸同然に影口と罵倒。時に命を狙った襲撃を受けても揺らがない、鋼の心身の持ち主たるベラクスが、外側の存在にはっきり悟られる程に不調を来している。

 彼が抱えている不安要素に興味が生まれたが、先手を取ったのはベラクスだった。

「バージェス博士。ハンヴィー……君に貴方はとある仕掛けを施していますね」

 冷酷無比で知られる男が養子の性別に迷いを見せた。少しだけ愉快な物を感じたが、後半部分でそれは吹き飛んだ。

 ハンヴィーが装備している複雑怪奇な剣『麗睡噛牙ヴァイアー』自体は、生後間もない彼の身体に巻き付いていた、自然発生に等しい代物。

 だが、その制御機構にはフラヴィオの手が加えられている。ベラクスが突いているのは、そちらの方だろう。

「あれはハンヴィーの体調を確認する物です。貴方の望む物を実現させるには到底……」

「そこまで大それたものは望まない。ハンヴィー君がファナント島に行った今でも、それは機能している。違うか?」 

 小手先の策は、ベラクスには無意味だ。

 渋々首を縦に振ったフラヴィオに、シニカルな笑みを浮かべたベラクスは声量を絞った声で告げる。

 そして、壮年の男の両目が零れ落ちんばかりに見開かれた。

「それは……いや、不可能ではありません。ですが、貴方の描いた予測が全て的中し、仕掛けが機能すれば」

「その先も覚悟の上だ。動き出した以上、道はこの一つだけしかない」

 鋼の意思を示した男を前に、フラヴィオは息を呑む。

 男の描いた道は、彼自身に最低の結末を示す代物だ。

 死を受け入れられる人物は、極限の領域に達した戦士に一定数存在する。だが、尊厳や刻んだ道、掲げた理想といった、ヒトをヒトたらしめる物を蹂躙され、徹底的に貶められる選択は、そのような人物であっても苦悩する。

 フラヴィオ・バージェスには到底選べない。否、世界中の為政者でも選べる者は少数だろう。

「何故、貴方はそこまで自己を貶める道を選び続けるのですか? 政権の奪取やその後の統治にしても、貴方の力量ならもっと時間を使い、軟着陸する道を辿れば名声や正しい評価を得られた筈」

「時間は有限だ。そして、体制の混乱で最も影響を受けるのは、未来を担う子供達だ。拙速でも、非情でも何とでも呼べば良い。非才な私は最善を選んだ。それだけの話でしかない」

 ベラクス・シュナイダーの根底にあるのは、自己を使い捨てる美しいが危険な精神だ。

 薄々感じていた事を改めて突きつけられ、そして引き留める術もなく、彼の示した道が最良であると解したフラヴィオは項垂れる。

「内在する正義は私の生命より重い。ただ、それだけの話だ」

 フラヴィオに向けたのか、それともヒトの矮小な抵抗を嘲笑い続ける世界に向けてか。決然と放たれたベラクスの声は、何度も執務室を巡った果てに消えた。



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