10

 覚醒を始めた彼女の曖昧な視覚が柔らかな光を捉えた。

 次に、嗅覚が物の燃える匂いを捉える。

 この世界で散々堪能している、肉や皮膚が焼ける物ではないと、感覚は告げる。

 手を動かすと、何か柔らかい物に触れる。

 更に触れると、どうも触り慣れた物の感触だと気付く。

 そこで完全な覚醒を果たし、ユカリは弾かれたように身体を起こすが、足首などに残る鈍い痛みに顔を歪める。


「目が覚めたのか。安心するしてくれ、ボクは君の敵じゃない」


 若いが深い、理解の範疇を超越した何かが込められた、不思議な声が発せられた方に目を向ける。

 煙と炎をたなびかせている焚火の向こう側に、一人の男の姿があった。

 華奢な肉体を長外套マントで覆い、黒に限りなく近い暗緑色の髪の隙間から見える目の内、右目部分は無骨な眼帯で覆われて感情が読み辛い。

 死を待つだけの自分を救ったのが、眼前の存在であるのは疑い難いが、果たして彼を信用していいのか。

 疑問が露骨に出ていたのだろう、男は中性的な顔を僅かに和らげながら、火にくべられていた飯盒を取り出す。

「言いたいことが沢山あるのは分かる。でも、食べてから聞かせて貰おうかな」

 小さな器が差し出され、反射で受け取って中身を確認。器の中には白米の粥が盛られており、ユカリは思わず男の方を見た。

「君の肌や髪の色を考えて、白米にしたんだが、何か不味かったかな?」

「い、いえ……」

 この世界に来てから、白米を目にした事など無かった為、暫しの間ユカリは呆けたように器を見つめる。

 やがて顔を上げ、ユカリは男が淡々と粥を口にしている様子を確認。恐らく毒は入っていない、そんな希望的観測に基づいて、スプーンで掬って口に入れる。

 味付けは塩のみだが、久しぶりに携帯食料以外の物を、そして永らく食べていなかった元の世界での主食を食べている、感動に近い思いに押され、ユカリは黙々とスプーンを進めていく。

 短時間で器の中が空になり、ユカリは再び男を見る。死にかけていた自分を救ってくれたのはありがたい、だがそれをする理由は相手にない筈だ。

 その旨を問われた男は小さく肩を竦める。


「少しばかり仕事を頼まれて、ボクはこの山に潜っていた。頂上近辺に向かっていたら君を見つけた。助けた理由はそうだね、君の事が気になるからだよ」

「!」

「君自身に魔力はない。身体から判断すると、この山に来るべき存在ではない。けれども装備はしっかりしているし、ウラグブリッツなんて業物を持っている。色々噛み合わない存在だから、話を聞いてみたくなった」

 問いの形式を取っているが、恐らく相手は自分の事をある程度知っている。そうなるとはぐらかしは無意味だろう。

 更に、雰囲気から察するに相当な実力を有している。事情を話せば、何か得られる可能性がある。

 打算と純粋な感情を等分に抱えて、ユカリは男にここに来た理由、そして何故気絶していたのかを語り始める。

 異世界からやってきた云々については、狂人扱いを避ける為に伏せたが。

 ユカリの話を受けた男は黙したまま何度か頷いた後、右腰に差していた剣を抜き、虚空に向けて振るった。

 剣が描いた軌跡を、明滅しながら不規則に変色する光が奔り回り、扉に似た形状を形作るのを確認し、男は口を開く。

「これに入れば麓まで戻れる。君の力量を始めとした、様々な条件を組み合わせて考えれば、目的の達成はほぼ不可能だ」

 男の提示が嘘の可能性も高いが、今のユカリには実に甘美で魅力的な物に聞こえた。

 他人に指摘されるまでもなく、自分の力量を遥かに超えた厳しさが、この迷宮にあるのは痛いほど分かった。突破の見込みが限りなく薄い事もまた同じ。

 すぐに飛びつきたい気持ちは確かにある一方、安易に選択することに、疑問を呈するそれも彼女の中に等分に在った。

 ――本当に、それで良いのかな?

 何のために来たのかを思い出せ、ここで逃げたら何の意味も無いだろうと呼びかける声と

 ――いいじゃない、ここを出ようよ。幾らなんでも自分の命をどうにかしてまでなんて、する必要はないよ。

 こう呼びかける声がユカリの中で絡み合う。

 現実的な問題として、戦闘以外での大きな力を振るう事は極めて困難なヒビキ達の元にいるより、何処かの権力者の庇護下にいた方が、帰還を果たす可能性は上昇するのは間違いない。

 価値がある間に限って、の注釈こそつくものの、それこそアークスやロザリスの中枢部にいる方が良いだろう。

 だからと言ってヒビキを見捨て、フリーダやライラを裏切るような真似が許される事など絶対にない。

 しかし自分の力量や、バリオクスと対峙した際に身体へと刻み込まれた、意思を完膚無きまでにへし折る恐怖や痛みに、全てを支配されている現状は、望む望まないに関係なく、その道を歩んでいるのと同じだ。

「わっ!」

 何が正解か。悩み、結論が出せぬまま時間を浪費していたユカリの眼前を、七色の光が奔り、尻餅をつく。

 物騒な真似をした男は、しかし一切の感情の変化を見せずに剣を鞘に収め、口を開く。

「逃げるか進むか迷っているんだろう。でも、そのままでは何も結論は出せない」

「……なら、私はどうすれば良いんですか?」

「今を元にして考えなければ良い」

 当然の質問が、一秒以下の時間で答えが投げ返され、ユカリは鼻白む。

「この先自分はどうするべきか。たった今この瞬間を元にして考えても話にならない。ただ迷うだけだ。なら、不変で信頼出来る過去を見ればいい。自分は何をしにここに来たか、決めた時自分はどのような感情だったか。周りの人達はどんな反応をし、また何をしてくれたのか? それを考えれば、何故今ここにいて、何をすべきか分かる筈だ」

 促された通りに、ここに来るに至った経緯を、ユカリは頭の中で振り返っていく。

 一番近い記憶では、自分は確かティナに嘲笑されて激昂した筈だ。よくよく振り返れば、彼女の指摘はある程度マトモな物も含まれており、絶対に登頂は不可能という指摘も正しかった。

 その前には、ハルクから挑戦を考え直すべきとの忠告を受けた。彼もまた、ティナと同じ意の言葉で、挑戦しようとするのを止めてくれた。

 更に遡れば、クレイにここに来る事を提示された時、フリーダが自分の代わりに挑むと言ってくれた。

 自分と比較にならないほど、ヒビキと共にいる時間を過ごしていた彼は、絶対に救ってみせるという、真摯な気持ちで危地に挑むと名乗りを挙げたのだろう。


 そのような言葉を全て蹴って、自分は今ここにいる。


 進むか逃げるか答えを出すために、ユカリはこの理由をまず考える必要があったが、思いの外早くそれは見つける事が出来た。

 この世界にやってきてから、一番長い時を共有しているヒビキの事が、何時の間にか自分の中でなくてはならない存在になったからだ。

 何故助けてくれたのか、一度問うてみた時は笑って「良心が何とやらって奴じゃね?」と返された。

 軽い言葉とは裏腹に、ヒビキは自分に対して真摯に接してくれていた。失敗はしたものの、元の世界に帰す方法を提案し、最も積極的に動いていたのは彼だったと、ライラ達から聞いている。

 試みの結果として、エトランゼの影と皆が呼んだ存在が現れた時、親しい者に対しても見せたがらなかったと言う『魔血人形』の力を晒してまで、ヒビキは戦った。

 四天王が引き起こした先日の騒動、そして『ディアブロ』との戦い。ユカリが危機に陥った時、ヒビキはいつもそこにいてスピカを振るい、守ろうとしてくれていた。

 特段、彼が何らかの主張をした訳でもないし、「他の奴で、元の世界に戻せるぞって奴が出てきたら、ソイツの所に行っていいんだぞ」と、食事の時などにもヒビキはよく口にしていたが、守る為に戦う時の彼の姿はいつも真剣で、ユカリの事を第一にしていた。

 その姿を見ていたからこそ、ヒビキを救いたいと思い、だからこそ自分はここに来る事を決意したのだ。

 絶対に変わる事の無い、過去の自分はそのような結論を出した。

 ならば今の自分と未来の自分は、これから先どうするのが正解なのか? 


「……転移の魔術を消してください。 ……先に進みます」

 答えを予想していたのか、男は表情を保ったまま口を開く。

「何度でも言うが、セマルヴェルグを打倒するのは、君の実力では不可能だ。それでも行かねばならない程、君の中にある過去の自分、そしてそこから出された理由は重いんだね?」

「先の事は分かりません。私はどうしようもなく弱く、浅ましい人間です。いつまた折れるか分かりません。……でも、過去の自分は確かに、ヒビキ君を絶対に助けたいと思った。この事実がある限り、私は進まないといけない気がするんです」


 暫しの間、男は天を仰ぐ。それは本当に短時間の事だったのだろうが、ユカリには永遠のように思える時間だった。

 剣が再び振るわれ、光の扉が消失する。これで正真正銘の退路消失、道は一つとなった。ユカリは知らず知らずの内に、拳を握っていた。


「過去の自分を見て、君が行くと言うのならば、多少力を貸そう」

「……えっ、いつ取ったんですか!?」


 一切の気配を感じられない内に、首にかけていたネックレスが相手の手中にある事に動揺するユカリを他所に、男は先端の石に手をかざす。

 ユカリには理解出来ない、複雑な紋様が飛び回る中で男は己の剣を掲げ、石に向けて迷いなく振り下ろした。

「ちょ――」

「黙っているんだ」

 切っ先が届く寸前、ユカリがこの世界を訪れてから何度も見た紅い光が発せられ、男の剣が弾かれて天井に刺さる。


「……なるほど、やはりか」

 天井に突き刺さった得物を見たまま、男はユカリにネックレスを投げ返す。ユカリが首に付け直したのを確認してから、跳躍して剣を抜き取る。

「その石はある特定の条件下、つまり持ち主である君や石が、崩壊する危機に晒された時にだけ魔力を発揮する。後天的に魔力を付与されたせいだろうけど、随分ピーキーな発動条件だね」

「……命の危機に陥らないと、発動してくれない訳ですか?」

「そうなるね。ただ、その分いざという時の爆発力は高い筈だ」

 妙に劇的なタイミングにだけ機能するものだと、以前から薄々思ってはいたが、きちんとした形で告げられると逆に気が楽になった。

 分からないまま動くよりは、ちゃんと条件を理解していた方が、行動に格段の幅が生まれる。無理やりにでもポジティブに考え、弾丸を銃に装填していくと、また男からの声が飛んでくる。

「その銃、『ヘイデンRFV』が素体だけれど、弾丸は魔力封弾で、普通の弾丸は無いのか。……君が選んだのかい?」

「ライラちゃんが選んでくれたんです。……魔力封弾って、何ですか?」

「知らないのか!?」

 初めてみた、男の驚きの表情に気圧されながらユカリが頷くと、男は中性的な顔に渋面を浮かべて立ち上がる。

 威圧感から大きく見えていたが、自身より僅かに高い程度の身長であると、今になって気付いたユカリを他所に、男は首を少し振って口を開く。

「魔力封弾はコア部分を血晶石を始めとした、魔力を多く貯められる素材に置き換えた物だ。だから魔術を発動させないと威力は無に等しい。自分の武器について、知っておいた方が良い」

「ごめんなさい……」

 ユカリは肩を落して項垂れる。この銃については、ライラから手渡されてから、メンテナンスの方法や最低限の注意事項程度しか知らずにいた。無意識の内に、戦いから逃れようとする意思が在ったかもしれないと自戒しつつ、男の話に耳を傾ける。

 大雑把なイメージの仕方と細かい注意点を伝えた後、男は手振りでユカリに対して発砲を促し、それに従いユカリはある魔術をイメージしながら引き金を引く。


「――っ!」


 硝煙と共に薬莢が吐き出され、銃口からは小さな雷球。クレイがよく用いている『蜻雷球リンダール』は男の元へと殺到し、彼が振るった剣によって霧散して消えた。

「イメージした最初の魔術がそれって、君はなかなか素質があるね。一度じゃ意味がないから、モノに出来るまで練習しよう」

 再び剣を構えた男に対し、ユカリは再び銃を構えて撃っていく。

 およそ二十発程度を撃ったところで、男から制止のサインが出た。一応最低限の基準には達したということか。

 空になったシリンダーに弾丸を再装填し、出発の為の準備を整える。背嚢の荷物はバリオクスの一撃によって殆どが砕けている。無事だった物もあるにはあるが、様々な意味で、時間を無駄にする余裕は更に減じられた。

 準備を終え、ユカリは男に頭を下げる。そして、ある問いを投げかける。

「あの、あなたのお名前を教えて貰えませんか。助けてもらったのに、知らないままというのは……」

 男の左目に、様々な感情が流れては消えていることを察して、ユカリの口が皆まで言うより先に強制的に閉じられる。

 気まずい沈黙の時間が暫し流れ、やがて男は目を閉じて名乗る。


「…………ボクの名前はオズワルド。オズワルド・ルメイユだ」


 何処かで聞いた名前だが、正解は出てこない。

 もう一度礼の言葉を言うと、手を振って出発を促される。

「また何処かで会えたら良いですね」

 そんな言葉を残して、再び歩き始めたユカリを見送り、気配が完全に消えた事を確認してから、オズワルドは笑みを消し、壁に凭れて瞑目する。

「想像以上に無力で、そして無知な子だったな。……あんなのを切り札にしようとしていた、貴女の意図が読めない」

 眼帯を外し、見た者全てが目を背けるおぞましいケロイド状の傷と、眼窩の空洞。そしてそこで蠢く霧のような何かを撫でながら、オズワルドは呟く。

「死せるボクを奴隷の形で復活させただけでなく、無力な異なる世界からの来訪者の覚醒を促す。ボクには全ての行動の意味が分からない。……最期の記憶をエサにされて乗ったが、間違いだったのかもしれない」

 ユカリは正解に辿り着けずに終わったが、この男が名乗った名前は、大抵のアークスの国民は知り、そして驚愕の感情で以て、彼がこの場に立っている事実を否定するだろう。

 アークス王国先代四天王『悪夢乃剣ドゥームズレイ』にして、十一年前に国内で惨殺され、犯人の手掛かりも見つからぬまま、適当な理屈付けだけで済まされ葬られた男。

 それが、オズワルド・ルメイユの名が持つ物だ。

 オズワルドは両の手から髑髏の装飾が為され、刀身が奇妙な形に歪曲した剣を引き抜き、自らの肉体に突き刺す。

 華奢、いや病的なまでに細い彼の身体は細かな粒子と化して消え、空間には消えかけた焚火だけが残され、それもやがて消えた。


                  ◆


 激しく視界を上下に揺らし、つんのめりながらもユカリは迷宮の中を駆ける。

 どれだけ眠り、時間を浪費していたのか判断が付かない以上、最悪の可能性を想定し今まで以上に急ぐ必要がある。

 内心で決意を何度も復唱しながら、ユカリは走り続ける。


「――っ!」


 危機を感じて急停止。強引に制止させた事で身体が振られるが、無理矢理に後退させると、耳障りな音を伴って眼前に大量の刃が降り注ぐ。

 新手の罠か。結論が彼女の中で出された後も、刃の雨が止む気配は見えない。

 引き返しても良いが、オズワルドと対峙していた小部屋以外で、未だに分岐点を目撃していない為に、強行突破する必要があると判断を下す。

 腰から銃を抜いてこめかみに押し当て、流れるような動作で引き金を引く。

 すると、光の壁が現れてユカリの周囲を覆う。

 この世界で、自分が何度も目にしていた『輝光壁リグルド』ならば防げる筈だ。そんな希望的観測に従って、ユカリは再び走り出す。

 踏み込んだ途端に聴覚に襲来してくる、金属同士が擦れ合う物に似たけたたましい音に顔を顰めながら、一気に刃が降る地帯を抜ける。

「――うわっ!」

 抜けきる直前に輝光壁が崩壊し、ユカリの背部の服がほんの少し裂ける。幸いにも身体は無傷だが、やはり自分の地力が低すぎる以上、魔術を過信し過ぎるのは危険であると、教訓として身に刻み、周囲を見渡す。

 一瞥しただけでは、只の一本道。だが、恐怖がハッキリと刻まれている彼女の聴覚が、壁の方向から漂っている奴の気配を捉えた。

 足は無意識の内に一本道の方向へ進もうとしている。それだけ奴に対しての、自分が抱いた恐怖は大きく、勝算を考慮すればそうするのも正しい判断。


 ――でも、それじゃ今までと変わらないんだ。


 逃げたままの姿勢で山頂に辿り着いたとして、セマルヴェルグを打破出来るのか?

 シンプルな問いとその答えが、ユカリの脳内を回る。

 思考の余地など、この問いにはもう存在しない。

 更に言えば、奴がいた場所には必ず次の階層への道があった。

 この二つの事項から導かれる結論を胸に抱いて、ユカリは銃に弾丸を補充し、右側の壁に向かって全力で体当たりを仕掛ける。

 身体はスムーズに壁の中、つまり隠された通路の中へと入り込み、想像通り血の臭いや気配は強まる。

 竦む身体を叱咤して、彼女は前へ進む。


 そして辿り着いた空間の先、想像通りの存在がそこにいた。

 

 水分を含んだ物と、硬い物を同時に咀嚼する不快な音を空間内に響かせながら、バリオクスは食事に夢中になっている。

 山のような巨体には、先日相対した時とは異なり、大量の血化粧が施されている。恐らくは食事を入手した際に、エサの抵抗を受けたのだろう。

 仲間入りを果たす可能性は、勝利する確率よりも高い。逃げ出したい感情が、ゲリラ豪雨をもたらす夏の雨雲の速度でユカリの中を埋めていく。

 無意識の内に足は後退を始める。数十グラム程度、と元の世界で言われている彼女の中にある魂は、バリオクスを絶対に対峙したくない存在として刻んでしまっているようだ。


 ――――逃げろ逃げろ、死ぬだけだ。

 

 誰かの声の合唱が始まり、歯の立てる耳障りな音が断続的に続く。所詮自分はここまでかと、心は砕けかかるが、必死でここに来た理由を復唱する。

 ――私は成すためにここに来た。……ヒビキ君を助けるためにここに来たんだ!

「う……あぁああっ!」

 己のこめかみに銃を押し当て発砲。弾丸に込められた魔力がユカリの体内に流れ込みネックレスの石に届く。

 石から発せられる紅い光が視界を塗り潰し、目を瞑ったユカリは、身体を何かが突き破る感覚を覚えた。

 毒々しい肉がユカリの背中から這い出して、醜悪な異形の翼を形成。


 ハイウェイの騒動で一度姿を見せたものの、それ以降はまるで成功せず、先程のオズワルドとの訓練においても失敗した『渇欲ノ翼エピテナイア』が、ここに来てようやく彼女の意思に従って顕現を果たす。


 光でようやくユカリに気付いたバリオクスは、仕留め損なった弱者が、愚かにも自ら食われにやってきたと判断したのか、嘲りの色が含まれた低い声で咆えた。

 咆哮で怯んだユカリに対し、巨人の戦槌もかくやの一撃が振り下ろされる。二度対峙した時そのままの彼女が相手であれば、ここで話は終わっていた。

 しかし今の彼女は、その時とはまるで違い、異形の翼を翻してバリオクスの前肢を躱してみせた。

 修正出来ずに、力任せに振られた前肢が床に激突。迷宮全体が激震し、遠方からは悲鳴に似た獣声が生まれる。

 ユカリは不安定な動きで宙を舞いながら、バリオクスに向けて発砲。薬莢が排出され、『泡砲水鋸バボルム』の巨大な泡が無数に生まれ、巨体へと殺到する。 

 強靭な表皮の装甲と、彼女の力量の低さから導かれた結果は、殆どが無意味に弾けて消えるという物。

 

 しかしほんの僅かに残った泡が鱗を裂き、肉を抉って赤い花を迷宮に咲かせた。

 

 たたらを踏んだ巨竜を見据え、ユカリは宙に浮いたままウラグブリッツを投擲。

 狙い通り業物が敵の傷口に突き刺さった事を視認し、もう一度発砲。次の手にユカリは『蜻雷球リンダール』を選択。

 オリジナルとは異なる色の球体が一斉にバリオクスへと接近し、ウラグブリッツの柄に絡み付き、刀身を辿って巨体の内部で迸る。

 体内に入れば敵が生物である以上、どれだけ強靭な肉体を持っていようが、全てが無に帰す。

 球体は形を変え、バリオクスのあらゆる体内器官を焼いて、また外部へと放出されて消える。

 身体の中と外を繋ぐ全ての穴から、白い煙と、血液以外の何かも含まれている黒い液体を噴き出しながら、バリオクスは崩れ落ちた。身体を激しく痙攣させ、抵抗の意思を見せてはいるものの、脳なども焼かれてはどうしようもない筈だ。

 光が消えて白濁した眼球から目を逸らし、銃をしまったユカリは亡骸の横を通り抜け、部屋の奥へと進む。

「……あった!」

 視線の先に、推測通り上の階層への道が見えた事で声を弾ませ、足を早める。 

 ユカリが駆けだすのと、彼女が自らの背部に鈍い衝撃を覚えて吹き飛ぶのは、ほぼ同じタイミングだった。


 紙屑か何かのように軽々と宙を舞い、岩で形成された壁に叩き付けられる。同時に、先程砕けた床の岩が飛来し、右腕を粉砕して壁にめり込む。

 あまりの急展開に叫ぶことも出来ず、口から涎を吐き散らして喘ぐユカリは、死んだ筈のバリオクスが瞋恚の咆哮をあげて、自らの元に迫る光景を目にする。

 ――な、んで、まだ……?

 疑問と、ようやく起き出した痛覚の大合唱で、表情は酷く歪む。無事な方の左手で銃を引き抜くが、右腕から発せられる激痛で上手くイメージを描けない。

 間違いなく、痛みに対する麻痺が起こって行動が出来るようになる前に、バリオクスの歯が身体を砕く。


 今度こそ、完全な死の領域に到達する事になる。


 絶対に回避すべき事象を近付けている原因を排除すべく、ユカリが取った選択は実に無謀、かつシンプルな物だった。

 悲惨なザマを晒した右腕など無視してウラグブリッツを構え、装填済みの全ての弾丸を刀身に向けて放つ。

 絶望的な状況を打破すべくユカリが描いた物は、この世界で一番近くにいた存在が放つ剣技だった。

 大量の魔力が送られて刀身は輝きを増し、名前通りの颶風が吹き荒れて、ユカリの髪や衣服を激しく揺らす。


「はぁぁぁぁぁッ!」


 いつ事切れても不思議ではない傷を負った素人が放ったとは、誰も想像が出来ない速度でウラグブリッツが突き出され、塊と化した颶風がバリオクスに殺到。

 高速回転を伴った突撃を仕掛けてきた地竜と激突し、一歩も退かぬ鍔迫り合いが始まる。

 破片が颶風に巻き上げられ、両者の身体に激突して傷を刻み込む。こうなれば体躯と経験の差から、当然ユカリの方が苦境に立たされる。

 オズワルドによって、完全に回復した筈の身体はあっという間に傷塗れになり、突き出した左腕も次第に下がり始める。

 絶望的に勝算の薄い戦い。正常な選択肢は選ばない、いや選ぶ訳にはいかない。

 この戦いも、そしてそこに至るまでの全ても、神などというふざけた存在に選ばされた訳ではなく、ユカリ自身が選択し、そして成す事を自身に誓った物だ。

「あああああああッ!」 

 力尽きかけていた左腕を跳ね上げ、じわじわと接近してくるバリオクスに、更なる風刃をぶち当てて膠着状態に持ち込む。

 絶対に有り得なかった筈の現状は――

「絶唱せよコーデリア! 『溶解突・強襲ノ型ヴォラーグ・カヴァリエルト』ッ!」

 空間に響いた凛とした声。そしてけたたましい狂声と同時に届いた、爆裂によって強制的に終了させられる。

 濁った右目を炎の矢によって穿たれ、顔面の一部が崩壊したバリオクスが地面に罅を入れながら落ちる。排除すべき敵はユカリではなく、乱入者の方であると判断を下したか、体勢を立て直す最中も、出鱈目に尾が振り回される。

「抵抗は無駄です。死になさい!」

 冷徹な宣告と共に、尾を躱した乱入者が跳躍。『鉄射槍ピアース』を展開し、空中に浮かび上がった十本の槍を回転しながら蹴り飛ばす。

 太い槍が尾を大地に縫い止め、行動を著しく制限された地竜の苦鳴を嘲笑うかのように、乱入者はその内の一本を踏み台として飛翔。そこで、ユカリは乱入者の全貌をようやく捉えた。

 茶色の短髪に、灰色の怜悧な目、両の手に握る剣を納める二本の鞘。そして、両翼を広げた鷹の紋様が刻まれた、羽織に酷似した長外套マントを纏う少女。


 ティナ・ファルケリアは、己の全体重を載せた二つの剣を不可視の速度で放った。


 一瞬の静寂。そして地面に頭部が落下し、生命を制御する術を失ったバリオクスは、暫し狂ったように四肢をばたつかせた後、断面から血を噴き上げながら絶命した。

「地竜とは言え、竜に対して正面切って挑むなど、只の自殺行為。その程度の事も分からないなんて……」

 二本の剣を悠然と鞘に納め、嘲弄の意が籠った言葉を吐くティナだったが、地面に転がっているユカリの様子を見るなり、表情を変えた。

「うん、私はティナちゃんに比べたら只の弱者でしかない。だから、こうするしか……」

「喋らないでください!」

 蒼白な表情で、手が汚れるのも厭わずにユカリの完全に崩壊した右腕に触れ、ティナが『妖癒胎動ファリアス』を発動。右腕が光に包まれ、少しずつ再生を始める。

 ――この人も、良い人なんだよね。ハルクさんに対してのコンプレックスが強いだけで。

 場違いな感想を抱いている間に、右腕が一応見られる状態まで回復を遂げる。右腕から手を離し、壁に凭れてティナは口を開く。

「一応再構成は出来ましたが、私は医師でも、高位魔術師でもありません。完全に修復出来ていない状態で、無理に活動を続ければ後遺症が残ります。……下山した方がよろしいかと」

 右腕や右手の指を動かし、ティナの言葉が事実であると、意思と動きのズレで確認が出来てしまう。元々低かった勝率は、これでまた更にゼロへと近づいた。

 ユカリは首肯して立ち上がり、地面に突き刺さっているウラグブリッツを鞘に納め、そして――。


「なっ!」


 ティナの短い驚愕の叫びを背後から聞きながら、上の階層への道に向かって歩き始めた。

「どうして上に行くんですか!? その腕ではセマルヴェルグはおろか、気性の荒い草食種相手でも戦えません。……そこまでして、救うべき者なのですか!?」

 真摯な言葉で、厳然と存在している絶対の事実を衝かれるのは心が痛む。振り返り、彼女の灰色の瞳を見つめる。

 よく見ると、ティナの身体にも細かい傷が刻まれ、眼には幽かに疲労の色が宿っている。

 才能と実力に満ちた彼女でさえも、決して無傷ではいられない程の環境なのだ。自分が踏破など出来る筈もないし、ティナが理解が出来ないのも当然。

 下山してしまえば、その時点で救うべき存在であるヒビキの命が失われる事も、無論ある。

 しかしユカリの中にはもう一つ、彼女が自身に課した誓約があるのだ。

「ヒビキ君が救うべき人なのは勿論だよ。でも、ここで私が下りないのは私の為。過去の私の決意を裏切らない、そして皆と対等にいる為の、下らないエゴ。……だからこそ、絶対に先に進まなきゃいけない」

 理解の範疇を超えた理屈をぶつけられ、灰色の目を困惑と混乱で埋め尽くしているティナに「ありがとう」の言葉を残し、ユカリは背を向け歩を進める。

 ――今は迷っちゃいけない、前だけを見て……。

 思考を回し始めた耳に、重い靴音が後方から届く。振り返ると、ティナが無言でこちらに近づいてくる姿が見えた。

 首を傾げて立ち止まった。

「あなたの行動原理が、私には一切分かりません。只の馬鹿としか、あなたを見る事は出来ない」

 遠慮も容赦も何もなく切り込まれ、鼻白んだユカリに対し、ティナは淡々と言葉を続ける。

「しかし、父があなたを認めた理由がその意思であるなら、あなたの先を私は見たい。私も、あなたと同行します」

 手傷を負っていたとはいえ、バリオクスを三手で破ったこの少女が加勢してくれるのならば、勝率は格段に跳ね上がる。

 加えて、人が持つ拭えない恐怖である、永遠に続くとの錯覚を抱く、長期に渡る孤独から解放されるのだ。

 そして何より、自身を散々に否定した少女が、多少なりとも理解の姿勢を示してくれたことに、ユカリの心は大きく動く。

「待ってください!? ここで泣くんですか!?」

 様々な感情が混ざった波涛が治まるまで、ユカリは静かに涙を流し、鬼札たるティナは困惑しつつも、その場を離れる事は無かった。

 異邦の少女と最強の血統を持つ少女。土壇場で成った奇妙な組み合わせは、僅かな可能性を幽かに、しかし確かに増幅させる事となる。


 

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