12:変化を告げる悪魔の咆哮

「思ったより多くなっちゃったなぁ」


 一通り買い物を終えたユカリは、両手と背中にある荷物の重さによろめきながら、ライラの工房へと向かっていた。

 ヒビキ達からの同行の申し出を断ったのは、少し失敗したかなと思いながら。

 両の手と背中、それら全てを塞がれる状態になっているのは、居候先であるヒビキの家が焼失したものの、すぐに再建されるらしいと聞いた結果として保存食を、そして今日の夕食の為の材料を同時に購入した為だ。

 「今日は私の家で皆でご飯にするよ!」

 ライラが宣言し、残る二人が生気の抜けた目で自分に救いを求めた光景を思い出し、ユカリは少し苦笑する。

 三人の食の嗜好は見事に分かれており、全ての希望を実現するのは難しい。加えて元いた世界とは異なり、ヒルベリアでは手に入れられる食材は日によって変わる。

 不便なのは事実だが、そこからどうしていくか。それを考える事に楽しみを覚えるようになり、この場所への適応をユカリは実感する。

「って、考えてる場合じゃなかった。急がないと」

 買い物に思ったより時間を食われたのと、偶々出くわした迷子の童女を家族の元へと送った為に、皆が予想する到着時間からは大幅に遅れている。

 たまたまなのだろうが、童女の住む家は中心部から外れており、人通りの少ない場所だった。そのような場所は、自分の押し付けられた肩書きを考えれば、出来る限り早く抜けておくべきだ。

 足を早めたユカリだったが、その動きはすぐに止まる。

「アレが異世界の人だね! 全然凄さを感じないなぁ。ね、ハーちゃん!」

「騒がない方が良い。ここは他国だ、人を呼ばれると面倒になる」

「……あ、あの、貴方達は一体」

 廃屋の屋根に立っていた、非常に幼い少年と、白銀の鎧を身に纏った長身の女性が、ユカリの眼前に颯爽と舞い降りる。

 思わず荷物を取り落としてしまい、その中の一つである缶詰が地面を転がる。少年によってそれが、踏み潰されて中身が大地を汚す。

「ハンナ・アヴェンタドール。ロドルフォ総統に仕える者だ」

「レヴェントン・イスレロだよ! ロザリスの軍人さんさ! このクールだけど実は対人コミュ……」

「草の者の報告で君の素性は知っている。……私達と共に来てもらおうか。抵抗をしなければ、こちらも手荒な事はしない。君にそのような真似はしたくはない」

 余計なことを話そうとしていた、レヴェントンなる少年の口を塞ぎながら、ハンナと名乗った女性は淡々と告げる。

 何らかの価値を見出した他国の者が、自分を攫いにきたのは理解出来た。

 理解は出来たものの、ユカリの側からすれば、はいそうですか、では私を連れて行ってくださいよろしくお願いしますと受け入れる道理は何処にも無い。

 道理が無いのならば、やるべき事は一つだけだ。

「それはだめだなぁ!」

 銃を抜いて魔術を発動する試みは、レヴェントンが振るったハンマーで銃が粉砕された事で、あえなく阻止される。

 距離は明らかに相手武器の射程以上に開いていた筈。それを一瞬で詰め、銃を破壊するとは、一体どんな奇術を使ったのか。

 理屈は分からなくとも、自分に打つ手が無くなった事だけは確かだ。

 何時の間にかレヴェントンが発動させた『鋼縛糸カリューシ』で縛り上げられ、動けないユカリを他所に、『ディアブロ』の二人は呑気に言葉を交わす。

「どうするハーちゃん? 一応動きは止めたけど、このお姉ちゃん、思いっきり抵抗する気まんまんだよ」

「追い詰められた者が一番恐ろしい。彼女には悪いが、片腕を壊させて貰おう」

「そだね、それで行こうか!」

「私達の間に特段深い関係がある訳でもないのに、野蛮な手を使うのは申し訳なく思う。ロザリスで治療は受けられるから、我慢してくれると有り難い」

 本心からの謝罪と、丸腰の自分に向けゆっくりと構えられる巨大な槍とハンマー。

 両者が並立するのは冗談の世界だけと思いたかったが、どうも冗談がこのまま現実として提示されそうな気配だ。

 逃げようにも、鋼鉄の糸を破る手段はユカリになく、仮にどうにかなったとしても、二人の放つ威圧感で身体が動いてくれない現状を考えると、逃げられるかは極めて怪しい。

 このままどちらかの腕を喪失する恐ろしさにユカリの心は敗北し、目を背けた。

「――させるッ!」

 聞き慣れた声と、武器が弾かれる金属音。

 正面に視線を戻す。すると、黒の外套を纏った見慣れた背中が、見慣れた蒼の異刃を振るう光景が目に飛び込む。


「ヒビキ君!」


 ヒビキ・セラリフがこの場にいるのは、酷い顔を出来る限りマトモな物にして、ユカリと対面する為に回り道をした結果で、全くの偶然だった。

 工房から露店街への最短経路を辿っていた場合、最悪の結末が待っていた事になるが、今はそれについて喜ぶ時間も惜しい。

 レヴェントンとやらを旋回で牽制しながら、ユカリの身体の拘束を解き、ハンナに対して突進を仕掛ける。

 転瞬、相手の持つ槍が、竜の牙を想起させる棘が刀身に備わった巨大な両刃剣に姿を変えた。

 信じられない物を目にしたヒビキは驚愕に目を見開くが、止まらずに、いや止まれずにそのまま唐竹割りをブチ込む。

 蒼の異刃は、眼前の女の胸部を引き裂く直前、差し込まれた白銀の両刃剣によって停止させられる。

 二つの得物が火花を散らしながら、一歩も引かぬ押し合いへと移行。

 衝撃波で、ユカリとレヴェントンは大きく後退させられる。

「ガァァァッ!」

 咆哮と共に、眼前の女の身体が一回り大きくなったような錯覚。そして、押し込む力が一気に強くなる。

「しまっ――」 

 体勢はこちらが圧倒的に有利だったが、二者の間では筋力の差が大き過ぎた。

 相手の馬鹿力によってスピカは弾かれ、持ち主の首への道を開いてしまう。

 だがここで終わる訳にはいかない。相手が無茶をするならば、こちらも無茶で返すまでだ。

 義腕を伸ばし、首に迫っていた剣に手を付ける。金属同士が擦れる不快な音を発しながら、ヒビキは右手を支点に回転跳躍。

 落下の勢いを載せた踵落としを放ち、彼の左足はハンナの頭頂部を捉える。だが、相手は特段の反応を見せない。

 接触した相手の肌は、人間の持つ柔らかさはなく、とある生物の持つ硬さと冷たさを持っていた。

 ヒビキの動揺を他所に、ハンナは離脱して距離を取り両者は向かい合う。

「『擬竜殻ミルドゥラコ』の発動状態と同質の皮膚……まさかドラケルン人かッ!?」

「そう! ハーちゃんは、いやハンナ・アヴェンタドールは、ドラケルン人なのさ! さ・ら・に、あのケブレスの……」

「レーヴェ、相手に余計な情報を与えるな」

 今すぐ切り刻んで黙らせたくなる、能天気な少年の声で疑問への答えが返され、ヒビキは沈黙する。

 ヒト型の生物では最強と名高い種族、そしてハンナ・アヴェンタドールという存在が非常に短期間で積み上げた竜や『正義の味方』。魔力形成生物の討伐の実績を知らぬ者は少ない。

 確かにロザリスを拠点にしていると聞いた事があったが、まさか『ディアブロ』に取り立てられていたとは、最悪の想定外だ。

 軽率な始動が不可能な状態で、レヴェントンの吹く不快な口笛だけが、空間を満たす空虚な時間が流れた後、蠢動する液体金属が兜の形に転じて彼女の頭部を覆う。

 身構えるヒビキを他所に、眼前の相手は相方に呼びかける。


「レーヴェ、この男を倒してから、異なる世界の者を連れて行くとしよう」

「兜付けたって事は、一人でやるつもりでしょ? それに、非合理的な事は嫌だっていっつも言ってるのに?」

「私達に一人で挑むような蛮勇を持った者は、今は弱くとも、いつか必ず障害になる。可能性は潰せる内に潰しておくべきだ。お前の判断で、危なくなったらいつでも横入りしても良い。それについて異論は無い」

「りょーかい!」

 合意を交わして、レヴェントンが地面をぶん殴る。大地の震動と共に、周囲が黒い霧に覆われ、一定の範囲より先が見えなくなる。

 結界の類だろうが、これで逃げ場が塞がれた。眼前の化け物をどうにかしない限り、脱出する術は潰えたと言って良いだろう。

 悠然と前に進み出てくるドラケルン人の放つ威圧感で、ヒビキの頬を汗が伝う。 

 だが背後にいる少女を、みすみす敵に渡す事を許容出来るか否かの答えは、たった一つだけしかない。

 左眼に再び蒼の光を灯し、ヒビキはユカリに対して呼びかける。


「勝ちに行くつもりで戦う。……でも、状況次第では見捨てて逃げろ」


 返事を聞くより先に、疾駆してきたハンナと両刃剣が襲来する。

 筋力等の差を考えれば受けきれる可能性が絶望的に低いのは、先刻のやり取りで痛感させられた。

 ヒビキは様子見と意表を衝く為に、『泡砲水鋸バボルム』を発動。

 無数の泡が白銀の騎士の周囲を包囲し、一気に圧し掛かる。

 物体と接触した瞬間、接触面に流れる水は超高圧・高速で回転し、相手を引き裂く凶悪な魔術は、猛る騎士に水浴びの効果を提供しただけで弾けて消える。


「嘘……だろ?」


 魔術によるダメージは、期待するだけ無駄だ。

 やっと修得した魔術があっさりと破られた事に、大きなショックを受けながらも結論付けたヒビキは、スピカを地面に突き立てて盾のように構え、ハンナの襲来に備える。

 激突は一瞬。その一瞬で、攻撃を殺しきれなかったヒビキは、左の脇腹を貫かれて十メクトル以上飛ばされ、路肩にあったゴミ溜めへ放り込まれる。

 出血多量か、内臓の損傷で殺せた可能性もあるが、ハンナは消えたヒビキに対して、一切の油断なく次の仕掛けを行う。


「――えぇっ!?」


 騎士の口元の金属が独りでに退き、一瞬天を仰いだ後、形の良い口から灼熱の炎が吐き出される。

 生物や竜ならともかく、眼前の騎士はどこからどう見ても人の形をしている。ユカリが驚くのも無理はないだろう。

 ――ドラケルン人は肺の近くに、竜の持つ排炎器官を持っている。なんて、このお姉ちゃんが知ってる訳がないか。……すぐに再生されるからって、一回吐く度に喉が焼けるなんて僕はやだなぁ。

 この場とまるで釣り合っていない思考に耽るレヴェントンを他所に、ハンナは地面を蹴り、得物を槍へと転じて炎の中に向かって突撃を開始する。

 炎を喰らいながら、ハンナの視界を完全に塞ぐ程の巨大な鮫が飛び出たのは、その時だった。


「――ッ!」


 地面やその周囲を冒涜しながら、水で形成された大顎を開いて鮫が迫る。回避は無意味と判断し、ハンナは目の前の存在を撃破する選択を執った。 


「ゴォォォォォッ!!」


 自らの猛る咆哮を背景音として、白銀の流星は靴の底から火花を散らしながら急停止。鮫の喉元に、腕力だけで槍を捩じり込む。

 鮫の形が崩れた所から弾けた、超高水圧の水の刃を浴びて鎧が削り取られ、肉が削ぎ落されながらも、槍は止まる事なく撃ち出される。そして、形を崩壊させながら鮫の内臓が本来収まっている場所へと侵入を果たし、槍は炎を纏って内部から破壊にかかる。

 こうなれば鮫に成す術はない。

 非生物にも関わらず断末魔の咆哮を上げながら、形を保てなくなった水の塊は霧散して完全消滅。

 槍の穂先に、いや視界に獲物はいない。


 ならば何処にいる? 疑問も、答えも一瞬だった。


 左斜め後ろ側から強烈な殺気を感じ、ハンナは首だけを回し、そして純粋な驚愕の感情で目を見開く。

 宙を舞い、左眼を輝かせながら、ヒビキは既に抜刀体勢に入っている。

 真正面からやり合えば勝ちの目は皆無。そして、自分にとって大技である『鮫牙断海斬カルスデン・スクァルクート』さえも、隙を作る為の囮に用いねばならない『ディアブロ』の強さには、既に嫌と言うほど驚かされた。

 だが、ここまで来れば勝ちは揺るがない。相手はまだこちらに反応出来ない体勢であり、どう動くにせよ、ヒビキの方が先手を取れる。


「これで――」


 ヒビキの叫びが途中で停止させられ、スピカが乾いた音を立てて地面に落ちる。

 一体何が起きた? 接地感が消えているぞ、いやそれより――。

 恐る恐る左腕に目を向けたヒビキの、恥も外聞もない悲痛な叫びが、黒い霧の中で轟く。

 目の前で広がる惨劇に、ユカリは目を逸らし、耳を塞がずにはいられなかった。

 

 スピカを振るっていたヒビキの左腕が、奇妙な形への転生を遂げていた。


 肘から先が毟り取られ、中途半端な所で粉砕された上腕骨が奇怪な様を晒し、鮮血が噴き荒れる。再生が可能とは言え、一応マトモな神経を残しているヒビキにとって、耐えられる苦痛ではない。

 確かに、武器を振るって攻撃を対処する事は不可能だった。

 だがハンナは、常人離れした判断力で左手を伸ばし、ヒビキの左腕を掴んで攻撃を阻止。圧倒的な膂力で以て彼を宙へ放り、その流れの中で、左腕を出鱈目な速度で捩じり上げ、引き千切ったのだ。

 武器がなければどうにもならないと本能が叫んだか、ヒビキは落下しながらもスピカに手を伸ばす。しかしこの行動は明らかな失策であり、ハンナは悠長に見逃すような甘い相手では無かった。


 音速に極限にまで近い、激烈な速度の刺突が炸裂。

 

 放たれた長槍は一寸の狂いもなく伸ばした右腕に届き、ヒビキの右腕を小さな破片へと変えていく。


 「――っ!」


 血晶石と貴重な金属で構成され、今まで多くの攻撃を受け、左腕を始めとした生身の部分が破壊されようとも、傷一つ付かなかった右腕。

 その右腕がハンナの一撃によって、完全に砕け散った。

 今までの常識が崩れ落ちて行く音を耳にしていると、顔面に蹴りを叩きこまれて鼻の骨が砕け、血が噴き出す。

 無惨な姿になりながらも、どうにかスピカを回収したヒビキは一旦距離をとる。

 こうなればいつでも仕留められる確信があるからか、相手も追撃せずに、相棒と何やら会話を始めている。


「……想定以上に出来る相手だ。……すまない」

「ここゴミ捨て場だからね~、あんなのがいるってのは僕も予想外だよ。……どうする? 二人で〆る?」

「いや、私一人で終わらせよう。……相手に敬意は払う必要があるからな」

「変なの!」


 決めに来るつもりなのであろうハンナの発する圧力に押され、足が無意識に後退を始めようとする。

 策が何もない。否、策があった所で実力差から絶対に勝てない。眼前の相手に敗北するとは、即ち殺される事と同義。そして自分は、殺されるのが怖い。後ろ向きな感情に、ヒビキは呑まれかける。


「……」


 そこで、後方で自分の事を見ているユカリの視線に気付く。状況が悪くなったら逃げろと言った筈、そして今は間違い無く絶望的な状況。

 にも関わらず、自分を見捨てずにこの場にいてくれている少女の姿を見て、ヒビキは強引に心を奮い立たせる。

 逃げる手段が無いから、との身も蓋もない理由である可能性は、今は意識しなくていいだろう。


「――ッ!」


 飛ぶように襲来した騎士が振るう槍の内側に入り込み、スピカを薙ぎ払う。

 回避の代わりに、剣へと転生した敵の得物が背後から殺到する事を察知し、転がって逃げを打つ。


「逃がすか!」


 ハンナは力任せに旋回を開始し、凶悪な刃が迫る。立て直しが不完全である今、これを避ける事は不可能。相手の膂力を考えれば、下手な回避の試みは身体の何処かに直撃して死を引き寄せる事に繋がる。

 ならば、自分にとって都合の良いやられ方をするまで。

 血晶石で構成された左足を跳ね上げ、靴底で刃を受ける。当然靴底は裂け、足との接合部である生身の部分には自殺したくなる激痛が生じるものの、死ぬよりはマシな結果を引き寄せた。

 火花を散らして吹き飛びながら『器ノ再転化』を行ってスピカを変形。ありったけの魔力を撃ち出して、反動で一気に加速。ハンナに接近する。

 

 ヒビキが放つ水平の斬撃と、ハンナの放つ垂直の斬撃が激突。


 両者の刃は弾き合って離れるが、閃光が消えるよりも速く相手の心臓を狙って再びぶつかり合う。

 再び両者の得物は離れ、そしてまた激突。


「……おかしい、おかしいよ。あのお兄ちゃん、何の教育も受けて無さげなのに、どうしてハーちゃんに付いて行けてるのさ!?」


 互いの命を刈り取る為の二人による剣舞に、一番驚愕しているレヴェントンの傍らを、得物を絡み合わせたまま、二人が転がっていく。

 縺れ合ったまま得物をぶつけ合い、反動で二人は分たれる。


「!」


 靴の底から火花を散らしながら体勢を立て直し、剣を構え直したハンナの前に、蒼の異刃が迫っていた。

 持ち前の剛力で反応して剣を突き出し、進路をほんの僅かに逸らす事には成功したが、ハンナの頬に一条の剣閃が奔り、紅い血が流れる。

 血を拭う暇も与えまいと、ヒビキは狂ったように突撃を仕掛ける。型も何もない出鱈目な、しかし迷いのない一撃を放ち続ける事が可能な理由に、ハンナは攻撃を受け流しながら辿り着く。


「……なるほど。お前は、いや君は――ッ!」


 片腕が無い今のヒビキには、広範な選択肢から最良の物を選ぶ、常識的な行為を実現することは能わないが為に、只ひたすらスピカを振るい続ける以外の行動が選べない。

 だが、そもそも絶対に勝ち目がない相手であるが為に、下手な策は無意味であり、単純な行動の方が、ある意味では強力な攻撃を放つ事が出来る。そしてユカリを守らねばならぬという誓約にも等しい感情。更に行動の強制的な単純化。

 これらが絡み合った結果、策を弄する事を放棄して攻め続けるのみとなったヒビキは、彼自身も理解出来ない、地力を遥かに超越した力を引き出していた。


「チィッ!!」

「うそ!?」


 『ディアブロ』の二人が焦りと驚愕の言葉を吐き、ハンナの、恐らくは三桁キロガルムに達している身体が、ヒビキに押されて後方へと吹き飛ぶ。


「逃がしやしねぇよッ!」


 左眼を周囲の人間の視力を奪い取る程に輝かせながら、ヒビキは蒼の流星と化して疾駆。ハンナの首へと、スピカを疾走はしらせる。

 相手も数多の戦いを勝利してきた猛者。地面を陥没させる程に力強く踏みしめ、体勢を立て直しながら再び槍へと形態変化。

 観劇者二人の動体視力では捉えられない速度の斬撃を見切り、ヒビキが左腕を振り切った、片腕であるが故にがら空きとなった身体へと、ハンナは槍を突き込む。


「――ッ!」


 逃げ場などない。誰もがそう予想した一撃を、ヒビキは膝を折り、そして一気に伸長させてハンナの両足の間をすり抜けて躱す。

 完全に想定外の行動によって回避された事で、決めに行った一撃が仇となり、躱されたハンナの対応が先刻までと比すると僅かに遅れた。

 身体を捻り上げてスピカを構えたヒビキは、息も絶え絶えになりながらも絶叫する。

 右腕を失った事によって、全体のバランスが崩れ、魔力の供給量も落ちている。故に、これを外せば全てが終わる。


「終わりだ、『鮫牙閃舞カルスデン・ブレスタ』ァッ!!」

 

 限界を超えた速度で放たれた、殺戮の演舞がハンナの肉体を捉えた。


 先刻までのやり取りでは一向に傷を付けられなかった、彼女の鎧の防御力を打ち破って無数の斬線を奔らせ、それらは乾いた音を立てて地面に落ちる。

 同時にハンナは血を吐き、更に斬撃を受けた所から激しく出血しながら膝を折る。

 終幕と言いたい所だが、あと一つやる事が残っている。

 これを実行してしまうと、国同士の争いに発展する可能性は、理解している。

 だが生かして帰せばこの二人は必ず、ユカリを狙って再訪してくるに違いない。

 首を落とすべく構えたヒビキの動きが、中途半端な所で止まり、身体が震え出して無意識に後退を始める。

「一体何が……」

「ハーちゃんの本気が引き出される訳か。……あのお兄ちゃん、可哀想だね」

 ヒビキの硬直の意味が分からずに困惑するユカリと、心の底から同情している風情のレヴェントンの呟きと同時に、高笑いが響く。


「……ふふ、ははっ、アハハハハハッ!!」


 穢れを知らぬ童女のように純粋な、しかし闘争心だけで構成された、聞く者の心と身体を硬直させる笑い声を上げ、ハンナは口内の血を吐き捨てて立ち上がる。

 彼女の整っているが、しかし表情の変化が分かりにくい顔や、氷の色をした眼は、純粋な喜びに満たされていた。


「ここまで抵抗するとは思わなかった! 君を見くびっていた事を、心から謝罪しよう。……君は私の望む物を完璧に満たしてくれた! 命を賭し、己の限界を突破して武器を振るう。そうだ! これこそが生物の最も美しい姿だ! 君に私の、いやドラケルンの秘技を送ろう。それが私の返礼だッ!!」


 高笑いは宣言に代わり、宣言は竜の放つ物に酷似した咆哮へと代わり、口からは大量の炎が吐き出される。空に向かって吐かれる炎の量は明らかに一度目より多く、黒い霧の内部に、巨大な竜と炎の背景を形作っていく。

 延々と吐かれ続ける炎の量に、思わずヒビキの動きが止まる。明らかに一人の放出する炎の量としては多過ぎる。ハンナにこれ以上動かれる前に、叩くべきだったのだろうが、眼前で展開されている光景の異常さが、彼の意思をへし折ったのだ。

 やがて、視界全てが炎に包み込まれ、放出が停止する。

 闘争と破壊の悦びに染まった表情と共に、ハンナは高らかに宣言する。


「……終わりにしよう。『緋竜破命獄エンダプト・ドラグレイズ』ッ!」


 宣言と同時に、滞空していた炎の竜がハンナを呑み込み、再び飛翔する。

 目視以外で場所を探す手段の無いヒビキは必死で動きを追うが、強化された感覚を以てしても、視界全体を埋め尽くす炎の中に溶け込み、高速で動き回る存在を捉えるのは不可能。相手が仕掛けるのを待つしかない。

 竜が炎の牢獄から飛び出て、ヒビキの元へと迫る。当然ながら反応し、迎撃すべく動いた彼の胴を、突如として伸びあがってきた竜の腕が捉えた。

 たった一撃でヒビキの胸から腹が裂け、焼け焦げた肉が大地にばら撒かれる。

 カラムロックスの影の一撃と同等の痛みを感じ、激しく揺らいだヒビキの身体に、再び竜の一撃が襲来する。

 声さえも上げられず、上半身を炎の爪で耕され、自らの肉体を解体されていく痛みに、ヒビキは堪えられず膝を折る。

 隙だらけの敵を見逃す筈もなく、炎竜の尾が翻されてヒビキの身体に直撃。火達磨と化して牢獄の壁へと呑みこまれ、追撃と言わんばかりに、竜の腕が彼の身体を締め上げる。

 竜の身体も牢獄も炎で形成されている。狂ったように燃え盛り、熱を発している空間にヒトが放り込まれればどうなるのか。態々考える必要はないだろう。

 地獄の責め苦に、ヒビキは声にならない絶叫を上げ続ける。『魔血人形』としての肉体改造の結果として、肉体が損傷を受けるとすぐに修復機能が働き、辛うじてヒビキの意識と命を繋ぎ止めている。

 逆にそれが、彼を終わりなき拷問からの解放を妨げ、聞く者が耳を塞ぎたくなる絶叫は止まない。

「――や、めて。ヒビキ君を放して! 貴方達に従うから! ロザリスに行くから!」

「もう遅いよ。ハーちゃんの民族はね、竜と共に生きるけれど、時には竜と戦う民族なんだ。竜との戦いは命が尽きるか尽きさせるか、で終わる。だから、竜の攻撃を模したこの技の終着点も――」

 この先を、レヴェントンは言葉にはしなかった。言葉を弄するより先に、答えが出ようとしていたからである。

 散々身体を焼かれたヒビキは、壁から地面へと放り捨てられ、背中から叩き付けられる。背中から何かが砕ける音が発せられるより先に、ヒビキの生身の部分に、炎を纏った槍が突き刺さり、身体を強制的に固定させられる。


「ハアアアァ――ッ!」


 竜の口から、業火を纏ったハンナが吐き出される。白銀の長槍は先刻に比べると大きさを増し、長身の部類に入るハンナの身の丈以上と化していた。

 重力による落下に加え、射出によって速度は通常の突撃を遥かに上回る物となり、あっという間に地面のヒビキへと迫る。

 背景の炎も全て槍へ取り込まれて、凶悪な煌めきを放つ。最早、提示される未来は一つしかない。

 奇跡という物の存在を、飛び込んで焼け死ぬ事を警戒したレヴェントンに抑え込まれながら、ユカリは切に願った。自分という人間の命の価値などたかが知れている事は分かっていても、彼の身代わりになれたらどれだけ良いだろうか。そんな気持ちが心を巡る。

 しかし、力なき願いで現実は決して覆りはしない。

 思いを嘲笑うかのように事態は淡々と進行し、残酷な一撃が、ヒビキの胴を完璧に捉えた。

 一瞬の沈黙の後、ヒビキの身体から盛大に血が噴き上がり、激しく痙攣する。

 永遠に続くのではないのかと思われたその光景は、突如として終わりを告げる。

 血の噴出が止まり、ヒビキは虚空へと手を伸ばす。

 その手は何も掴めずに落ち、身体の上下動も止まる。

「―――あああああああああああッ!!」

 ヒルベリアの空に、ユカリの絶叫が響き渡った。

 

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