12:紅き刃の継承者

 バディエイグ首都ウラプルタ。


 国軍の兵舎に設置されていた、最新鋭のモニターを自室に引き込み、ベラクス・シュナイダーは先刻始まったファナント島の血戦を鑑賞していた。

「生物の器官を機械に置き換える、か。義手や義足も嫌悪していたが、なかなか使い勝手が良いな。今後活かす可能性が無いことが至極残念だが」

 フラヴィオ・バージェス謹製の生体映像中継器で、部下が『継承者』と異邦人に牙を剥く光景を見ているのは、彼とアティーレの二人だけだ。

 しかし、市街地ではそれを暗示する異変が起こっていた。


「群島中にオブジェから火が上がっています。消火活動に当たらせていますが、それ以上に……」


 言葉を濁した部下に、ベラクスは薄く笑って首を振る。


「継承者に邪悪な者が迫った時、災厄の来訪と島民の団結を促す為に、蛇の魂に炎が灯る。信じた事は終ぞなかったが、実際に見せられてはな」

 継承者と信じられているハンヴィーが、コルヴァンや異邦人とファナント島に向かった光景は、多くの国民が目の当たりにしている。その事実と現状を掛け合わせて、一つの結論を導くだろう。

 そうなれば、バディエイグの体制崩壊へ向かう歯車は動き出す。

「貴方は知っていたのですか?」

「知っていた。強い意志と才覚を持つ優秀な子だったが、視野の狭さは結局矯正出来なかった」

 純粋な能力で勝る者が頂点に立つ。普遍的な正しさであるように思えるが、ヒト属の社会形成は例外だ。

 魔術や戦闘能力が決して一流と言えない自身が、暴力的かつ野蛮な手法と言えどバディエイグを統治する姿で、コルヴァンに伝えられていた。

 そのような甘い思考が現状を招いたと、微かな悔恨を滲ませながらも、ベラクスは声色を変えず淡々と語る。

「現代の人々が為政者に望むのは、正しいビジョンでは無い。面倒な思考を放棄して幻想に浸る為に必要な、単純明快な『正義』と『人間らしさ』だ。

 国民の中で生きてきたハンヴィーにはあり、私やコルヴァンにはない。当人達が望むか否かは無関係に。どれだけ力を得ようと、持たぬ者が頭に立てば国は滅ぶ」


 常日頃から語っている理屈を、この局面で持ち出す理由は何か。


 アティーレ・スファルトは、ベラクスが描いた着地点を即座に読み取り、身を竦ませる。

 異邦人の出現という、世界の誰にとっても不測の事態を活用して、自身の敗北とハンヴィーの勝利。即ち『綺麗な』着地点へ導くなど、閃きだけでは絶対に不可能。

 眼前の指揮官が自分を異邦人の監視役から外し、コルヴァンに絞った理由もここで見えた。遅すぎた気付きに、己の愚鈍さを呪ったアティーレを他所に、ベラクスはモニターに視線を戻す。


 追い詰められた独裁者。戦犯となった軍人。


 直近に迫る未来で、自身に貼り付けられるレッテルの持つ構図から遠く離れ、少しの波も無い風情で夢破れし男は嗤う。

「理不尽を嘆く権利は、勝負に出た時点で失われる。敗北が決まったのなら、速やかな死で幕を引かねばならない」

 呟きを隠すように、どこからか砲撃の音が生まれた。


                ◆


 命を天秤に載せたのなら、その瞬間人は獣に近づく。

 けれども、守りたい物の為に命を捨てることは、獣には出来ないことだ。

 どんな選択も全てが間違っていて、全てが正しい。

 難しいと思うか? いいや、実際はそうでもない。

 正しい姿なんて、どこにも無い。

 正しさは時勢に応じて変わるものだから、後世の連中が好き勝手品評して、過去の遺物たる俺達に適当な値札が貼られていく。無責任な話と思わないか?

 だから一人一人が選ばなければならない。

 選ぶことで、俺達は人である証明を、手に入れたかった輝きを得られるんだ。

 ……まぁ、昭和も終わって平成の世を生きるこの子には、命を天秤に載せる真似はして欲しくないな。

 

  一九九八年八月十六日。長波凜弥の手記より。


                 ◆


 勘の良い者なら、数千年ぶりに顕現した建造物の未来を役者が揃った時点で視た筈だ。二頭の蛇と、彼等を神と誤認した民衆の手で築かれた白亜の礼拝堂は美しいが暴力の渦に立ち向かう力を持たない。一度晒されれば、ただ蹂躙されるだけだ。

 破壊を繰り広げる役者に、蛇の力を受け継いだ存在がいることは、唯一の救いと言えるだろうか。


「渇ァァァァァァ――――ッ!」


 掠れた咆吼を引き連れ、顎を開いた三頭の骸蛇がフリーダに襲来。『剛鉄盾メルード』を一気に六枚展開。三枚ずつ犠牲にして二つは後退するが、無傷の一は止まらない。

 蛇の咬合力は現存種では最大二十キロガルム前後で、戦士なら毒や絞殺を警戒するのが常道。だが史上最大級の蛇『タイタノア』は五倍の咬合力を持っていたとする論文が近年発表され、蛇から分岐した怪物達はそれを更に上回る。

 神と称される力を持つ二頭の蛇が、現存種のスケールに収まるとするのは楽観的に過ぎる。


「『器ノ再転化マキーナ・リボルネイション』ッ!」


 両手のクレストが、蛇の頭部に匹敵する程に巨大化。極度の興奮で乱れる呼吸と心音を聞きながら、爛々と殺意を放つ蛇に飛び乗る。

 頭蓋に張り付いたフリーダは巨大化した両手で、蛇の頭を圧壊にかかる。顎を強引に閉ざされ、メリメリと嫌な音が生まれて気付いたか、蛇は出鱈目にのたうって彼を引き剥がさんと暴れ狂う。

 美しい白磁の床に、気品溢れる微笑を湛えた紳士の絵画。工程を理解出来ない精緻な細工が施された柱。空間の全てに容赦なく殴打され、後頭部が割れ、砕けた足首が明後日の方向に曲がる。

 楽観視はないどころか、半端に実力が向上した分、彼我の実力差は鮮明に見えるようになった。一人なら、とっくに逃げていた筈だ。

 だが、回る視界でもハンヴィーがコルヴァンに挑み、ゆかりやライラが援護射撃をする様は見えている。一人で逃げ出すなど、選べる筈も無かった。

「があああああああああッ!」

 喉も枯れよとばかりに絶叫。あらゆる肉体強化魔術を絞り出す。急激な強化と膨張で血涙が弾け、全身から肉が破断する音が生まれる。

 強引な上昇に肉体の順応が追いつけず、崩壊へ走り出す。無謀極まる仕掛けは、掌中に飲み込まれた骸蛇が粉砕された事で一応の結実を見た。

 コルヴァンの苦悶が遠くから聞こえる。意味を咀嚼する前に、フリーダは落下しながら「次」に移行。左右異なる組成式が、変質した両手に紡がれる。


 転瞬、土塊の尖塔が白磁の床を突き破って空間に屹立する。


「何ッ!?」

「まだだッ! 『瓦岩礫驟雨』ッ!」

 成人男性並の岩石が音速で宙を奔り、先んじて紡がれた『融跳土ホッパリス』に激突。穿たれ、それを回避した個体も失速。最大の長所となる有機的な高速機動が仇となり、蛇達は岩石の雨に打たれ攻撃の中断を余儀なくされる。

 攻撃手段が減少したコルヴァンだが、切り込んできたハンヴィーの刺突を、地面に突き立てたハングヴィラスの刀身で受ける。

 三つの刃が擦れ、奏でられる地響き同然の金切り声と弾ける火花を振り払ってハンヴィーが宙で旋回。漆黒の刃が、毒々しく瞬く。

「『散心蛇王牙狂連舞バジク・エルス』ッ!」

「効くかッ!」

 心臓を正確に狙った刺突は、男の体内から湧き出た骸蛇に阻まれる。

 刃に紡がれた『散心蛇王牙狂連舞』の作用で即座に崩壊するが、衝撃から回復した別個体の横槍で追撃は叶わない。

「『屍蛇骨散葬トゥ・ラ・パスティレ』ッ!」

 停滞の隙に紡がれ、異形の剣から放たれる骨の棘は、蛇と同様有機的な挙動でハンヴィーの肉を刻む。抵抗を諦め、後退を選択した継承者の少年は、追いすがる無数の蛇に目を剥く。

 現在までの数十分で、ヴァイアーが純粋な破壊力と強い魔術耐性を手にした事、そして元々有していた変幻自在の動きを失った事は全員が把握している。同格が放つ数の暴力に晒されれば、ハンヴィーに捌ききる術はない。

 足場が空中にあるような、軽快かつ不規則な挙動で逃げを打つハンヴィーだが、蛇の追尾能力を振り切れない。捕食が必定と化した状況で、眼前の壁を思い切り蹴って反転。骸の大蛇が渦巻く領域に飛び込む。

 予想外の選択に躊躇が見えたのは一瞬。好都合とばかりに顎を開いた蛇達へ、ハンヴィーは愚直に前進。

「見えた……『蛇淫姫纏化装ラミ・アーシ』ッ!」

 刺青に燐光が点り、湿った音を吐き出して体内から飛び出した肉の鞭がハンヴィーを包む。無抵抗になった棒状の肉塊を容赦なく食らう蛇だったが、すぐさま痙攣に襲われる。

 脱力して墜ちる蛇を他所に、肉塊から禍々しい爪が並ぶ腕と、左右不揃いの翼が飛び出す。肉が剥がれ落ちた果て、紫と黄金色で彩られた毒々しい異形の蛇がその身を震わせる。

 約三メクトル程の蛇は、翼や腕で迎撃をゴミ同然に打ち払い、急速に距離を詰める。コルヴァンは意図に気付くが、格闘戦を仕掛けてくるフリーダや、遠距離からの射撃攻勢に晒され動けない。

「その程度で、死ぬと思うな!」

 左腕が弾け、ハングヴィラスを一回り小さくした両刃剣に変形。フリーダの拳打と射撃を左で捌きつつ、本体を握った右腕を一閃。

 気道が視認可能になるまで開かれ、コルヴァンを包む形で閉ざされようとしていた口に骨格標本も同然の剣が侵入。閉ざされた口内から、耳を塞ぎたくなる不快な音が生じて大蛇が震動。

 だが、右肘から先を飲み込まれたコルヴァンも苦痛に顔を歪め、フリーダ達を強引に押し退け逃げを打つ。大蛇に飲み込まれた部分を境に男の右腕が消失し、砕けた骨片と赤が宙を踊っていた。

 相手の後退を確認するなり『妖癒胎動ファリアス』を発動。数ヶ月前なら卒倒していそうな、大小様々な無数の傷が塞がれる様を黙して見つめるフリーダの隣に、ハンヴィーが降り立つ。

「だ……」

 言葉が途切れ、激しく咳き込むハンヴィーの口から赤と鋭利な白が零れ落ちる。

 フリーダが注意を引いている間に『蛇淫姫纏化装』で肉体を変異させ、丸呑みする算段だったが結果は痛み分け。咄嗟に右腕を捨てて仕切り直しを選ぶ決断力に、敵ながらフリーダは内心舌を巻く。

「二人とも、まだやれそう!?」

 過熱で濛々と湯気を上げる擲弾発射器を担いだライラに、一応首肯を返した二人だが、両者の抱える空気は重い。

 既に四十分以上戦いは続いているが、負傷と若干の消耗はあれどコルヴァンは健在。

 流し込まれた力が作用しているのか、どれだけ重い傷を刻んでも、戦闘続行可能な範囲まで軽減され決定打にならない。

 同じ力をハンヴィーも得たようだが、フリーダ達の回復に割いている為か、一人あたりの回復幅は小さい。結果、微々たるものだが確実に消耗は進み、がむしゃらに戦ってもじり貧に陥る。

 彼らが仕掛けないからか、回復に専念している為か。コルヴァンは動かない。嫌な予感も多分にあるが、この停滞は活用すべきだろう。

 特段の合図なく、ハンヴィーが口火を切った。

「……ちょっとだけ、思ったこと言って良いか?」

「戦闘に関することなら」

「だったら……コルヴァンの奴、動いてないよな?」

 フリーダの瞳が宙を泳ぎ、そしてハンヴィーへ滑る。交差させる形でヴァイアーを掲げ、継承者は肩を上下させながら『怪鬼乃鎧オルガイル』を紡ぐ。

「ハングヴィラスから生まれた骨共が動く時、アイツは自分から踏み込まない。位置取りを変える時は、必ず蛇の動きが止まる。……無意味な動きはしない奴だ、絶対理由がある筈だ」

 固定砲台の役割を担う者は、群れて戦う集団の中に必ず存在しているが、言うまでもなくコルヴァンは前衛型。一呼吸に生が失われるリスクを抱える前衛で、一点に留まり続ける形は利が薄い。

 そうするべき、もしくはしなければならない理由があるのではないか。


 ハンヴィーの指摘に、脳内で様々な理屈が浮かんでは消える。


「賭ける価値は……ありそうだ」

 再生が完了し、ハングヴィラスを構え直すコルヴァンが視界の端に映る。戦闘再開が近づく中、フリーダは『牽岩球ルベレット』を四発、ゆかりとライラに向け放つ。ヒルベリアでも時折用いていた信号の意味は『僕』が攻撃する場所を狙い撃てというもの。予め意味を伝えているハンヴィーはともかく、敵は意図を読み取れないだろう。


 賭けの方向は決まった。


 無論、空振りのリスクは極めて高いが、現状維持が敗北への片道切符と知る彼等に、挑戦への恐れは無い。

「そんじゃ……行こうか!」

 合図に応じて、二人は散開。疾走するハンヴィーの全身を漣のように広がる鱗が埋めていく。『擬竜殻ミルドゥラコ』の亜種とも言える『纏蛇鱗アングスァーマ』の柔軟かつ強靱な鎧を纏った継承者は、対極に立つ男と真っ向から対峙する。

 打ち出されたハングヴィラスをヴァイアーで挟んで強制停止。純粋な腕力で持ち上げ、生まれた隙間に滑り込んで距離を詰めるが、膝から放たれた『鉄射槍ピアース』で一瞬の停滞。

 迫る刃の波濤に舌打ちを返し、一つを蹴って後退。豹の姿勢で降り立ち、逆立ちの姿勢で回転。伸長して迫るハングヴィラスを蹴り飛ばして跳ね、残像と化して消える。忽然と現れた二本のヴァイアーが、コルヴァンの右足に殺到。膝頭が砕ける音が空間に響く。

 身体を傾がせながらも、無数の蛇で逃げ場を封じ、首を狙って放たれた斬撃を受ける。驚異的な判断力と膂力に目を見開いたのは数秒。少しでも臆すれば即座に押し切られる恐怖をねじ伏せ、ハンヴィーは嗤う。

「やってくれるなぁ、同類!」

「意思も力量も経験も、俺とお前は違う。未来もそうだ。俺は生き、お前は死ぬ」

「どちらかが倒れるまでが戦いだ。予言者気取ってると、足掬われるぜ!」

 ヴァイアーを引き、必然的に自身に向かうハンヴィグラスに肩口を斬られるが、負傷を無視して跳ぶ。

 『焦延留炎バルドラム』の爆裂を見切り『破風閃ウェンサリス』が撃ち出す圧縮空気で加速。墜ちてくる斬撃を躱したコルヴァンだったが、回転をエネルギーに変換して放たれる蹴りが直撃。左肩を砕かれ、苦鳴を発するが踏み留まり、着地からの再始動が僅かに遅れたハンヴィーに狙いを付け――

 自身の視界に陰が差し、弾かれたように顔を上げる。

「何のつもりだ!?」

「見れば分かりますよ……『鋼人破塞撃クローム・フェスティバンカー』ッ!」

 肥大化に加え、フリーダの顔や腕に水膨れが発生する熱を纏った拳が放たれる。

 コルヴァンそのものではなく、彼の背後の地面に。

 拳が着弾すると同時。白磁の床に巨大な亀裂が発生。演者の重量に耐えかねて亀裂は空洞に転じ、至近距離に立つコルヴァンが沈む。意図を解した男は、憤怒と悔恨に突き動かされて吠える。

「糞……がぁっ!」

 咆吼に応じ、蛇が持ち主を救うべく大気を這って接近。だが、彼等は例外なく擲弾に撃墜され、目的を遂行出来ぬまま砕け散る。

 遠くで親指を立てるライラと、観測手の役割を担ったゆかりを横目に見つつ、完全に動きが止まった大敵を見据え、前衛二人は決着を付けるべく構える。

 身体に刻まれた物と同じ紋様を刀身に浮かべ、毒々しい輝きを放つヴァイアーを正眼に構えたハンヴィー。

 左手の『器ノ再転化』を解除し、残存する全ての力を右手に流し込んだフリーダ。

 目配せを交わし、両者は同時に動いた。

 残存する力を掻き集めて二者の武器は、コルヴァンの胸部を前後から挟む形で着弾。逃げ場を失い、余さず衝撃を受けたコルヴァンが小さく痙攣。三者の魔力が反応し、極彩色の煙が吹き荒れ視界が覆われる。

 ただ届いただけでなく、コルヴァンの骨を砕き、ヴァイアーが体内に侵入したことは感触から確か。

 衝撃の逃げ場所はない。全てを余さず受ければ内蔵が保たず、どんな戦士でも死に至る。ハングヴィラスが蛇の群れを引き出している間、コルヴァンは動けないのでは。という推測に基づいた賭けは、見事に的中した。

 姿こそ隠れているが、衝撃で激しく咳き込んで血を吐き、何かが潰れる音が届く。負傷と疲労で精度が落ちていても、挟撃は致命傷に成り得た筈だ。

「……やったの……か?」

 沈黙を忌避するようにフリーダは呟く。『器ノ再転化』の連続発動と、魔術の乱発で既に限界は通り越している。仮に耐えられていれば、勝敗の天秤は敗北に大きく傾く。

 フリーダよりも多少マシだが、疲労の色が濃いハンヴィーは、出来損ないの笑みを浮かべながら親指を立てる。

「手応えはあった。こ」

 不自然に言葉が途切れる。骨だけの蛇が彼の胸部を穿ち、体内を食い荒らすように蹂躙して抜けていた。

 刻まれた空洞と、放たれた方向に何度も視線を行き来させたハンヴィー。仕掛け人は一人しかいない。だが、それを肯定してしまえば希望が潰える。

 思考が現実逃避を始めたフリーダを置き去りに、徐々に煙が晴れていく。暴かれた現実は、残酷極まりない代物だった。

 拳の着弾点から無数の小さな破片が墜ち、吹き込む風に流される。破片が全て失われた時、彼の目に映ったのは、敵の肉体を刺し貫いて屹立するヴァイアー。

 そして、装甲と戦闘服を引き裂いて肌に痣を刻むに終わった自身の拳だった。

「動きを封じて挟撃。なるほど、良い組み立てだ。ハンヴィーが二人いたのなら、俺は確実に死んでいた。片方が『屍骨鎧フォーメイシス』の装甲を破る程度だった事で救われたがな」

 残酷な言葉にフリーダの視界が歪む。そんな彼に、ハンヴィーは何かを伝えようと口を開閉させるが、肺を大きく損傷して空気が漏れる間抜けな音を響かせるに終わった。

「忠告した筈だ、フリーダ。力を望めば、身の丈に合わない戦いに身を投じれば死に至ると。一度だけではなく、何度もな」

 鍛錬を開始してから、終着点となる昨夜まで。

 確かに、そのような意味を含んだ言葉をフリーダは受けていた。身の丈を超える未踏領域の力を望まぬようにという忠告と捉え、そこまでは望まないと返していたが、正解は違っていた。

 付いていこうとするなら、戦いを望むなら最終的には潰す。

 避けられない終着点を。そこから降りる道を。

 そして、どれだけ足掻いてもフリーダの力では届かない残酷な現実を、コルヴァンは最初から示していた。

「何のために稽古を付けたと思う? 君の力量を正確に見切り、この戦いで確実に勝利を得る為だ。結局、君は予想の範疇を一切出なかったがな」

 どこからか音が聞こえ、視界が揺れる。

「不味いよフリーダ。逃げよう!」

 やけに遠くから聞こえるライラの叫びから判断するに、これは自分にだけ起きている訳では無く、世界自体が何らかの現象に晒されているのは明らか。

 逃げなければ。いや、逃げられずとも何かアクションを起こさねば。

 頭では理解している。だが、フリーダを襲った衝撃は磁力でも生じているかのように彼の身体を縫い止め、硬直状態を維持させる。

 致命的な停滞を晒したフリーダに哀れみの一瞥を遣り、コルヴァンは淡々と告げる。

「君達がそうであるように、俺とて策は練っている。成すべきことを成すための、ありきたりで退屈な策を。……終わりだ。『白蛇群至芥喰ヴァイ・ド・ラード』」

 

 転瞬、白の濁流が室内を埋め尽くした。

 地下から吐き出された白が上昇し、天井を完膚なきまでに粉砕して空へ消えた時。立っていたのはコルヴァン一人だった。


 右半身に無数の穴を開けられ、蜂の巣状態と化したフリーダ。

 蠢き続ける白に両腕を食い荒らされ、擲弾発射機を持てない状態に追い込まれたライラ。

 そして、身体の上下が今にも千切れそうな所まで蹂躙し尽くされたハンヴィー。


『白蛇群至芥喰』で召喚された純白の蛇は、群れを成して発動者の敵を襲撃。肉体を徹底的に食い荒らして魔力を奪い去り、行動不能に追い込んで消えた。

 擬似的な物とは言え、無から生命を生み出す異次元の魔術は『継承者』たるコルヴァンにも大きな反動を齎す。振り子のように上半身が揺れ、耐える事を放棄したいとばかりに両足の震えが生じる。

 勝者の権利を手放すまいと、転がっていたハングヴィラスを担ぎ上げ、戦意を強引に燃やして身体の変調を捻じ伏せる。

 深い呼吸を繰り返して呼吸を整え、場に残された唯一の行動可能な敵に呼びかける。

 

「さて、後は君一人だ。ユカリ・オオミネ」


                   ◆


 纏めて叩き潰された三人と異なり、ゆかりは右足の腱を微かに傷つけられる程度で済んだ。それが幸運ではなく、コルヴァンの作為の結果なのは、相手の表情で一目瞭然。

 激痛と恐怖に侵されながらも、ワードナを構える。しかし、銃口から柄に至るまで震えが止まらない。嫌がるように引き金を引くが、てんで見当外れの場所を射貫いて終わる。

「ひっ――!」

 目と鼻の先まで接近したコルヴァンが、右手を打ち据える。手から離れたワードナは、軍靴に踏みにじられて微塵に砕け散った。

 この距離と負傷では、鬼灯を抜けない。追い込まれたゆかりに、コルヴァンの静かな声が届く。

「君は異なる世界の住民で、殺害対象ではない。そこを退け。無益な殺しは好まない」

 淡々と、慈悲深い言葉が告げられる。コルヴァン・エラビトンにとって重要なのは、背後で倒れたハンヴィーの殺害。ゆかりなど敵の数に最初から入っていない、只のか弱い少女に過ぎなかった。

「……ユカリ、ちゃん。……逃げるんだ」

 血溜まりに沈んだフリーダも、虫の息で撤退を促す。

「仲間もこう言っている。君一人で撤退して、別の手段を探すことが最善手だ」

「……い」


 嫌だ。


 言い切る前に、コルヴァンの鉄拳が腹部に突き刺さる。呻きすら出せず倒れ込み、ゆかりは激しく嘔吐する。盛大に醜態を晒すゆかりを見る男の目には、先刻まではなかった侮蔑の光。

「現実を見ろ。君が今まで何を成した? 善良な友人達の背後に隠れて成果を掠め取る、この世でもっとも軽蔑されるべき弱者だ。戦えるように努力をした? 意思がある? 笑わせるな、そんな物は誰もが持っている」

 言葉の刃に容赦なく刻まれ、ゆかりの視界がぼやける。この瞬間晒している無様な姿では、コルヴァンに一切反論出来ない。

 否定する方法は単純明快。鬼灯を振るってコルヴァンを打倒する。ヒビキ達が生き残る為に積み重ねた行為を自分もすれば良い。

 ――やらなきゃ。……皆戦ってるんだ。私だけ……逃げられない……。

 残存する気力を掻き集めて強い言葉を並べ立てても、右手は動かない。

 仲間達が全員戦闘不能に陥り、援護射撃の可能性はゼロ。敗北した瞬間、絶対の死に飲み込まれる。


 孤独な戦いが齎す真の恐怖、真の絶望に、大嶺ゆかりは初めて直面していた。


 武器は脇差一本。身体能力を始めとした全ての力。経験から戦闘で求められる知識や思考能力。考え得る全てで自分が勝る要素はない。

 約束された絶対の敗北を幻視し、ゆかりの身体は縫い止められたように動かない。今までの自分の戦いは、誰かが一緒にいてくれる事でようやく成立していたのだ。


 真の意味で一人で戦ったことなど、大嶺ゆかりには無かったのだ。


「……嫌だ、嫌だ止めて来ないで!」

 幼子のように身体を腕で抱き、泣き喚いて激しく首を振る。

 完全に戦意を喪失したゆかりを哀れむように一瞥し、コルヴァンは彼女の横を抜けて転がっていたハンヴィーを強引に持ち上げる。

 殆どの臓器を破壊され、弱い呼吸を繰り返すハンヴィーの目から既に光は失せた。反撃の可能性は万に一つもない。

 予定調和の死が、ここから展開されるのだろう。ハンヴィーの次はフリーダ。そしてライラも殺されて、自分だけが惨めに放置されて終幕を迎える。弁解の余地が一片もない、まさしく生き恥を晒す終わりだ。

 全てが、涙と絶望に沈んでいく。それでも、何も出来ない自分が憎い。

 どこまでも沈んでいくゆかりは、現実から目を背ける。

 彼女の視界が、紅く染まった。


「君が朝苗ちょうびょうの孫ね。思ってたより可愛いけど、あんまり面影感じないな。一世代挟んだから当然か」

 初めて聴く可憐な声を捉え、遅々とした動きで目を開く。

 天井から地面まで紅一色で塗られた空間に、ゆかりは立っていた。先刻までいた場所では無論ない。まさか、もう殺されたのか。

「死後の世界じゃない。君の首にあるネックレスの石の中。長波ながなみ凜弥りんやによって一部だけ残された俺、大嶺おおみね海里かいりの残滓の世界だ」

 声の方向に目を向ける。一六○センチのゆかりより低く、華奢な肉体をレザージャケットで覆い、質の悪い染髪で作られた茶髪の下に、少女にしか見えない造形の顔が見える。

 嘗て父から伝え聞いた、大戦の時代に散った大嶺海里の姿に合致する。だが、何故今、このタイミングで?

「いや、普通に分かれよ。兄弟の血を引く君がボッコボコにされて、泣き喚いているのが惨めだから助けに来ただけ。で、君はどうしたいの? このまま生き恥晒す? それとも戦う?」

「そんなの……」

 呆れ顔で疑問に応じた海里が示す問いに、ゆかりは口籠もる。

 戦いたいに決まっている。

 断言したかった。

 けれども、宣言した所で何が変わるのか。石の力も今に至るまで引き出せず、それ以外でも逆転の要素がない。口に出して変わるような世界では無いのだ。

「……無理です」

「はぁ?」

 清々しいまでに海里の顔が歪み、呆れ声が届くが、他者の反応を伺う余裕はもう無い。一度吐き出してしまった今、堰を切ったように言葉があふれ出す。

「戦いたくても、私には力が無いんです。ヒビキ君や皆の陰に隠れてきただけで、一人じゃ何も出来ないままここまで来てしまった。あんな相手に、勝てる筈が……」

「なんだ。面白いことが聞けると思ったら泣き言かよ」

 告白を無情に切り捨てられ、肩が跳ねる。

「今更ぐだぐだ言ってどうする? 『だから私は戦えません』っていう自己正当化を続けて、結局友達見殺しにして生き延びる訳?」

「そ、それは……」

「君の発言聞いてると、そうとしか聞こえないんだよ。今までやって来なかったから、今回も出来ません。私は悲劇の主人公でぇす! って主張するだけして、隅っこで丸まる訳か。良いんじゃないか、そうやって出来ないことを正当化して、大切な物を捨てて生きるなら……」


「違う!」


 冷徹な論理に晒され、宣言しても変わらないと分かっていながらも叫んでいた。

 そんな馬鹿な結末が、大嶺ゆかりの望みでは無い。それは分かりきっている。力があれば、すぐにそれを引き出して戦う。けれども、力の出し方が分からない。

「私は戦いたい。……皆と同じ場所で、同じように戦って、勝ちたい!」

 嗚咽混じりだが、ゆかりは意思を吐き出す。

 それを受け、海里の表情がふっと緩む。

「なぁんだ。まだ消えてないじゃないか」

「……?」

 輪郭から細部に至るまで、何もかもが異なっている。だが、確かに祖父や父の面影を感じさせる少年は、微笑みながらゆかりの肩を叩く。

「誰かの助けを借りたって、意思が無ければ死ぬ。今ここにいるのは、間違いなく君の力だ。そして、断片的にだけれど君は力を既に引き出している」

「既に、引き出している……?」

「そう。長波凜弥の力が核になるのは胸クソ悪いけど、俺の持つ力は昔から君に宿り、この世界で顕現を果たした。後は、自分の胸に呼びかけるんだ。答えはそこにある」

 笑う大嶺海里の姿が揺れ、空間に亀裂が奔って紅が消えていく。

「待ってください! あなたは……」

「忘れるな。『意味』や『価値』は内側にだけ存在する。貫徹するために、必ず勝てよ!」


                  ◆


 ハンヴィーの首を刎ねんとしていたコルヴァンが、弾かれたように振り返る。死体同然の敵を放り捨てた男の表情は驚愕に満たされ、即座に闘争心と殺意に塗り替えられていく。

 コルヴァンの視線を浴びながら、大嶺ゆかりはゆっくりと立ち上がる。胸元で輝く石と同じ鮮血の紅に瞳を染めた少女は、反吐で汚れた口を雑に拭い、右手で鬼灯を引き抜いて切っ先をコルヴァンに向けた。

「矮小な武器で俺に勝つつもりか。正気を捨てたか?」

「いいえ。私は正気ですよ」

 紅く染まっていく右手と、その先に立つコルヴァンを睨みながら、ゆかりは小さく呟く。

 ――魂の眼を開けて見るんだ。そうすれば、胸にある正解に届く。

 どこからか聞こえた大嶺海里の声に導かれるように、正解はあっさりと見つかった。

 正解に手を掛けてしまえば、真の意味で生命を賭け金とする舞台に登り、そこで踊り続ける義務を大嶺ゆかりは背負う。今まで以上に命の価格は下落し、失うリスクも飛躍的に上昇するだろう。

 けれども、ゆかりに恐れは無かった。

 あるのは只、自身の手で勝利をつかみ取り、願いを実現させたいと願う感情のみ。

 もう、揺らぎはしない。


「紅き魂は私の元へ。……力を貸して『紅華あかばな』ッ!」

 叫んだ瞬間、変化が訪れる。


 腕を染めていた紅が鬼灯に殺到。紅に呑み込まれた脇差は蠢動と伸張を繰り返し、やがて一振りの打刀に変貌を遂げた。

 不気味に輝く鮮血の刀身を掲げ、ゆかりが踏み込む。

「隠し球か。だが、付け焼き刃の力など」

 コルヴァンの言葉が強引に途切れ、彼の周囲で蠢く蛇の頭部が纏めて落ちた。

「なん……だと……?」

 現実を疑うように短く呻くが、断続的に襲いかかる紅の半月を、残存する蛇を犠牲に凌ぐ。突撃してきたゆかりの一撃を真っ向から受けた。

 激突。そして、コルヴァンの足が僅かに折れる。理解不能の状況に混乱しながら側転で回避。落ちた紅刃が床を粉砕する様に瞠目。生まれた隙に『鉄射槍』を放つが、引き戻された紅刃と触れたと同時に溶解して、鉄槍は退場を強いられる。

 『焦延留炎』の直撃を受けても原型を保つ鉄槍が消失する。悪夢同然の現実に愕然とするコルヴァンとは対称的に、ゆかりは紅華を引き絞り撃発。

「『浄血戦刃・火竜』ッ!」

 切っ先から紡がれた紅槍が、床を掘削しながら一直線にコルヴァンへ殺到。更に転がって躱すが、空間を駆け抜けた紅槍が壁に大穴を開けて消え去る様を受け、鉄面皮に絶望が掠める。

「……!」

 全身の蛇が引き戻され、ハングヴィラスが覚醒前の形態に回帰。

 仕掛けを講じながら戦い続ければ、武器自体が破壊される。

 大嶺ゆかりがそれほどの脅威と、図らずも肯定したコルヴァンは、蹂躙の残滓たる塵芥へ自ら突進。同じ選択を下したゆかりの紅華を受ける。

 奇術の制御に割いていた力を引き戻し、得物も剣本来の役割に専念すれば、体格と膂力の差が炙り出される。骨まで響く衝撃が右腕に奔り、僅かにゆかりの力が緩む。瞬の隙を見逃さず、強引にこじ開けられた道をハングヴィラスが疾駆。

 激突は僅かだったが、体勢の差からゆかりは空中へ追放。抜け目なく放たれた『鉄射槍』による鉄槍の雨は、必中の仕掛けと成り得る。


 空中機動の手段を、ゆかりが持っていなければの話だが。


「あなたがそうだったように、私にだって隠し事はあります!」

 毒々しい翼を打ち鳴らして宙を舞い、優雅な挙動で鉄槍を回避。天井が砕ける無粋な音を背に受け、ゆかりは空を墜ちる。選択肢の減少に直結する仕掛けに惑った事が、コルヴァンに遅れを生んだ。

 超至近距離から紅華が振られ、側方へ跳んで逃げる。追走する紅華は蠢動し、前触れ無く刀身が倍以上に伸長。真一文字が描かれた胸部から血が弾け、動きを強引に止める。

 翻され、紅華が直進。傷口へ迫っていた切っ先を右手で止める。穿たれた掌が炎上・炭化したものの、辛うじて死を免れたコルヴァンは左手で紅華を掴み、負傷を厭わずゆかりを投げ飛ばした。

 押し流される視界で、無我夢中で紅華を床に突き刺す。神経に直接届く不快な音を奏で、修繕不可能な傷が床に刻んだ果て、壁に激突する寸前で止まる。

 荒い息を吐きながら刀を引き抜き、正眼に構える。


 相対するコルヴァンに、焦りと疑問。


「……何故だ。幾ら戦いを見ていようと、それだけの動きは鍛錬無しには不可能だ」

「自分でも驚いています。けれど、今は身体が動いてくれる。それで十分です」

 指摘通り、これほどまでの大道芸は引き出しの中に無い。ゆかりの「このようにしたい」という意思を右手の紅華が汲み取り、彼女の身体を導いている。

 借り物の力と嘲る者もいるだろうが、そのような雑音は既にゆかりから消し飛んでいる。


 ――最初は借り物で良い。それに、どう動きたいか見えるのは、君が戦場にいる道を今まで選び続けたからだ。生き残れば自力で出来るようになる。だから今は……勝つことだけを考えろ!


 胸元の石から響いた海里の声に笑みを浮かべ、前方に身を投げ出す。背部の翼から噴き出す炎で加速。刹那で距離を詰め、再び斬撃を叩き込む。

 即応して翻されたハングヴィラスとの激突が何度も繰り返され、弾けた火花は床に落ちて熱と色の彩を空間に与える。戦いがこのまま進めば、室内は炎に包まれる。

 その未来を嫌ったコルヴァンが一度剣を引く。駆け引きを解する領域に至っていないのか、軌道修正出来ずに空振ったゆかりの身体が泳ぐ。

 してやったり。そう言わんばかりに、口の端に笑みを浮かべたコルヴァンの肉体が一回り肥大化。

「……終わりだ!」

 怒号を放ち、ハングヴィラスが撃発。

 上半身の力だけで放たれた蛇剣は、即座に亜音速の領域に到達。狙いはゆかりの心臓一点。ヒトの器、しかも下から数えた方が早い身体能力の彼女には、後出しされてから回避する術は無い。

 勝利を確信したコルヴァンの腕が、限界まで伸びきる。

 生涯を振り返っても、これ以上は無いと断言可能な渾身の刺突。剣圧だけで空間に暴風を巻き起こし、壁や天井に巨大な亀裂を刻む。

 風景を書き換える甚大な威力を見せつけたが、望んでいた手応えも、敵の姿もない。致命的な隙を晒した現実に気付いたコルヴァンの右側方。

「これなら……どうだっ!」

 回り込んでいたゆかりが、大上段に紅華を掲げる様がそこに在った。

 迷いなく振り下ろされた紅刃が、男の肩口に命中。積層金属製の装甲から骨まで、纏めて砕き斬って床に刺さる。両者が分かたれた刹那、コルヴァンの右肩が炎上。

 失血死こそ回避したが傷口を焼かれ、しかも火が煌々と燃え続けていることで戦闘中の再生は困難。鈍色の眼は活路を求め忙しなく動くが、攻撃目的以外の魔術を持たず、それを発動させる隙はない。

 肉体を灼かれる痛み以上に、敗北が確定した事実に火を歪める男を、ゆかりは紅い目で静かに見下ろす。

 相手の読み通り、正攻法で回避する術を持たない彼女は、咄嗟の判断で『転瞬位』を発動したのだ。使用経験が極めて少ない上、未踏の地では細かい座標の把握と転移陣の事前構築は不可能。非常に短距離の移動に限定されてしまう。

 活路を見出す為に用いるのは分の悪い賭けになる。手札が少なすぎるが為にゆかりは迷わず賭け、そして勝利に手を掛けた。

 右腕を落とせば、強者でも大きな隙が出来る。元々殺害の意思は無いが、要求を通す『説得』に大きな意味を齎す。

 安堵の息を吐き、しかし集中を緩めず再び紅華を構える。

 説得が目的だが、バディエイグ全体からの敵に墜ちるリスクを承知で仕掛けた男に言葉は無意味。峰打ちで意識を刈り取り、後は司法の手に委ねる道が最善と結論を下す。

 峰打ちの方法は、ヒビキやクレイから教わっている。仮に失敗しても余計な痛みが増えるだけで致命傷に成り得ない。

 何らかの意思表示か、目を見開き決して逸らさないコルヴァンを真っ向から見据える。刃の位置を何度も確かめ、大きく息を吸い、紅華を振り上げ――


 刹那、ゆかりの右腕が炎に包まれた。


 何故? どうして? 腕が、このタイミングで? 

 間欠泉の如く噴き上がる疑問が体内を駆け巡り、思考の暇を与えず回答を形作る。全てを理解した方が先か。

「ひ……ああああああああああああああああッ!」

 身体が現在進行形で灼かれる苦痛が、ゆかりの口から獣染みた咆吼をひり出させた。

 紅華が床に落ち、乾いた音を奏でる。戦場に於ける最悪の失策を犯した事実を、否、自身が絶対の敗北を引き寄せた事すら置き去りに、ゆかりは膝から頽れ、叫び続ける。

「過ぎた力に溺れた者は大抵が自滅。君も、その口だったか」

 冷徹な声が降り注ぐ。右腕を蝕む炎の呪縛に苛まれながらも顔を上げる。

 ゆかりと対称的に、炎の呪縛から解放されたコルヴァンが、彼女にハングヴィラスの切っ先を向ける。途切れ途切れながら未だに黒煙が噴き出している肩口から生まれた、無数の小さな骨が植物の早回し映像も同然に伸び、寄り集まって仮の腕を形成していた。

 繊細な動きは難しくても、ハングヴィラスを繰ることが出来れば目的は果たせる。激しく行き来した勝利を手中に収めた男から、既に闘争心は殆ど失われていた。

「君に眠っていた力は強大だ。だが、過ぎた力は得てして暴走し、使い手の命を奪う。ありふれているが、戦場に於いて多くの死者を産む理屈だ」

 ゆかりの力を見た事が影響しているのか、勝利を誇ったり、嘲ろうとする色は最早無い。教師が子供に正答と解法を教えるような、淡々とした事実の提示を、ゆかりは右腕を蹂躙されながら受け止める。

 戦う者達の力には、必ず対価があった。自分だけ法則から脱せられる筈も無ければ、支払わずに済む回避策を打った訳でもない。


 ただ闇雲に行使した結末には、今の窮地が相応しいとも言える。


 熱に犯され、焼け焦げた腕の残滓が脱落していく。最悪の感触が齎す、未踏領域の痛みと恐怖はゆかりの心身を確実に蝕む。

 一時は遠ざかっていた死が急激に最接近。危険信号を発するかのように明滅を繰り返す視界と、活力を喪失していく身体。

 それらを辛くも駆動させたゆかりは、驚くべき行動に出た。

 

 地面に転がっていた紅華を左手で拾い上げ構える。


 当然左腕も発火し、口から醜い苦鳴と炎が吐き出される。生命の危機を前に、本能が紅華を放せと訴えかけるが、ゆかりはそれを無視して切っ先を敵に向けた。

「その身体で何が出来る? 武器を捨てて投降しろ」

「投降すれば、私たち全員を生きたまま解放しますか?」

「君以外は殺害対象。答えはこれだ」

 予想から寸分たりとも外れない答えに、ゆかりは出来損ないの笑みを浮かべる。

 願いが叶わぬならば、過程でどれだけ善戦していようが無意味。

 故に、まだ捨てる訳にはいかない。

「その状態で仮に勝って、どうするつもりだ? 友人も死に、本来ここに来た目的を果たせずやがて死ぬ。君の選択は勇敢ではなく、現実から目を逸らした蛮勇だ」

 どこまでも正しいコルヴァンの指摘が突き刺さるが、既にゆかりの心はそれで血を流す領域に無い。

 この状況で『正しさ』を選んで得る物はあるか? 大嶺ゆかりはその選択を肯定できるか?

 答えは両方とも否。自分一人だけ生き残る道など、ゆかりは望まない。かといって、現実に溺れて死を許容するつもりもない。

「……の」

 体内から身体が灼かれる激痛に苛まれながら、ゆかりは声を絞り出す。

「退けない。絶対に退かない。どれだけ無様でも……立って、戦う」

「正気を捨てたか?」


「戦えなくなるなら、そんなもの、いらない。……私の大切な人は、いつだって、そうやって道を開いてきた! 並んで立つためには、私だってそれを成さなきゃいけないんだ!」


 炎上し続ける左腕一本で紅華を構え、よたつく足取りでゆかりは前進。

 一撃放てれば奇跡。その先の光景など見えない。

 分からぬほど愚かではない。ただ、内在する黄金律に従い足掻くゆかりを見て、コルヴァンは一度目を閉じ、彼女の首を刎ねるべくハングヴィラスを構える。

「少々誤解していた。君の意思は戦士の持つ物だ。ここで終わらせることは惜しいが、定めと思って受け入れろ」

 鳴り止まない不協和音に包まれているゆかりには、コルヴァンの声は殆ど聞こえていない。霞む視界に映る姿が、紅華が届く領域になれば仕掛ける。これ以外の思考を放棄して歩むゆかりを他所に、継承者は疾走。

 両者の距離が急激に縮まり、辛うじて反応出来たゆかりは紅華を振るい――


「定めを受け入れろなんて、他人が言うことじゃねぇだろ」


 声。そして蒼光が両者の距離を強引に分かつ。


 紺碧の海を飲み込んだかのような、美しくも底知れぬ力を想起させる光を受け、コルヴァンは反射的に後退。余力を持たないゆかりは、ただ蒼光に翻弄されて床に転がされる。

 転がり続けた果て、遅々とした動きで顔を上げたゆかりは、そこに立つ者の姿に目を見開く。蒼光に包まれた事で身体を襲っていた炎が消え、負傷が癒えていく奇跡すら、今の彼女にとって些事だった。

 使い込まれたを通り越して劣化の目立つサバイバルブーツ。補修痕が目立つ細身のパンツに、悪趣味なグラフィックが刻まれた黒のシャツ。露出した両腕の片方。右腕にはそこにあるものを隠すように黒の布が雑に巻かれ、蒼光の奔流に乗ってたなびく。

 乱れた形で伸びている黒髪に、首筋に刻まれた傷。

 全て知っている。だが、今ここに来てくれる理由は何一つ無いはずだ。

 混乱するゆかりを他所に、蒼光が収束。

 全員の視界を一身に受けながら、乱入者は左手を伸ばす。


「選ばれなくても、望まれなくても俺は選んだ。俺が俺であることを証明する為、ここに来た。一応名乗る、ヒビキ・セラリフだ。アンタの相手は……俺がやる」


 蒼の異刃を掲げた乱入者は、静かにその名を世界へ告げた。

 


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