11
「二人とも大丈夫かい? 死にそうな表情になっているけど」
「ああ、問題ないぞ……」
晴天とは正反対の、暗黒の表情を二人は浮かべていた。フリーダは明らかに不安げな表情を浮かべているが、ヒビキは手でライラに話を進めるように促した。
昨日の実験とほぼ同じ説明を行い、必要な素材をヒビキに淡々と手渡していく。儀式を行う場所は第三マウンテン、ユカリが現れた場所である。
始まりと状況を近付けるべく、現地に向かうのは第一発見者であるヒビキのみとなった。二人とユカリが別れの挨拶を交わす様を、ヒビキはぼんやりと見つめていた。
「ユカリちゃん、元の世界に戻っても、私達の事忘れたらやなんだよ……」
「ここでの出来事を、人生の中での大きな出来事として覚えていてくれたら、僕も嬉しいよ」
「二人ともありがとう。……絶対に忘れないからね」
ユカリがライラから大量の餞別を受け取ったのを確認して、ヒビキは外へ出る。異邦人の少女も、躊躇いを見せながらもその後ろに続く。二人の背中が完全に見えなくなった所で、フリーダが口を開こうとした時
「邪魔するぞ。緊急事態だから無礼は勘弁してくれ」
轟音と共に、クレイが無駄に華麗な動きで屋根をぶち破って現れた。
「もう少し普通の登場の仕方は出来ないんですか! この間の修理代だって、まだ払って貰ってないんですからね!」
「仕方ないだろ、緊急事態なんだから」
「緊急事態、とは一体?」
芝居がかった動きで二人を指差し、レイは言葉を発する。彼の発したその中身に、二人は凍り付いた。
「聞いて驚け、四天王様がこの街へ来られるそうだ」
そんな馬鹿な事があってたまるかと言いたい所だが、眼前の男はふざけてはいても、大事な所では嘘を言わない性質だ。恐らくは真実なのだろう。
「狙いはユカリ君とヒビキだろうな。俺は二人の後を追う。お前らも、自分の好きな選択をして動け」
もっともな内容だが、相手が誰であるのかを考えると、色々と恐ろしくなる言葉を残してクレイは去って行く。
残された二人は暫く立ち尽くしていたが、やがて互いに顔を見合せて頷き合い、ライラは工房の奥へ、フリーダは外へと駆けて行った。
◆
二人の道中は重苦しい沈黙に支配されていた。ヒビキは意図的にユカリとの会話をしないようにしている上に、ユカリが何か話そうにも、途中で躊躇してしまい、結局何も離さないという状態が延々と続いていては当然だろう。
自分の馬鹿さ加減の酷さが招いた現状、だがこのままで終わるのは嫌な物がある。だからヒビキは一応会話を試みてはいる。
「あのさ……」
「うん、何かな……?」
「……いや、何でもない」
「……そっか」
いざ何か会話をしようとすればこの有様。ヒビキは焦りを覚えるが、焦ったからといって何か上手く事が転がる訳ではもちろん無い。結局、碌な話も出来ぬまま第三マウンテンに辿り着いてしまう。
「それじゃ、始めるか」
「……うん」
短い会話だけを交わして、昨日描いた図面に血晶石を流し込んでいく。
ヒビキが作業をしている間、ユカリも只傍観している訳ではなく、自らの右腕に記された『アスピラーダ文字』で構成された紋様に道中で欠落が発生していないかなどをチェックし、薄れている部分などをなぞっていく。
この紋様に欠落が発生していると、イレギュラーな結果を生む事があるとライラに忠告を受けていた為、入念にチェックする。
それが終わった頃、ヒビキの方の準備も完了していた。
ユカリはゆっくりとアルベティートの線画の中へと歩んでいく。中心には、彼女がずっと着けていたネックレスが置かれている。何か言うなら今しか無い。二人とも理解していた。それでも二人とも何も言えないまま、ユカリは中心に辿り着き、模造剣を地面に突き刺した。
――これで仕舞いだ。忘れるのが、最良なんだ。
迷いを持ったまま、心が全く肯定しない言葉を無理矢理刷り込ませている内に、線画は目も眩む強烈な輝きを放ち、すぐにユカリの姿が見えなくなる。光が消えたら、そこにはもう何もない、筈だった。
「―――ッ!」
突如始まった巨大な震動に、光をボンヤリと眺めていたヒビキは地面に縫い付けられた。
周囲を見渡すと、マウンテン中に敷き詰められていたゴミも一斉に発光を始め、その光は血晶石の産んだ光と共に上昇し、巨大な光球を形成していく。
言うまでもなく、完全なる想定外の事態である。
「――クソッタレ、何が起こってんだ!」
答えをくれる者がいないと分かっていても、そう怒鳴ってしまうほどに、目の前の光景はヒビキの中にある恐怖の感情を駆り立てた。
やがて、永遠に続くかもしれないの錯覚を抱かせた光球の肥大化は停止し、血晶石の発光も止まる。
突如として訪れた静寂に不気味な物を感じていると、聞き慣れた声が二人の耳を刺した。
「戻って来い! 早くッ!」
振り返ると、普段からは想像も出来ない切迫した形相のクレイが、こちらに向かって手を伸ばしていた。何か知っているのかもしれないが、詳細は知りたくもない。
兎にも角にも、ヒビキは中心部に立ち尽くしていたユカリの手を引き、光球に背を向けて走り出す。
季節から考えれば有り得ない事なのだが、得体の知れない現象を目の当りにした所為か、寒気が止まらない。
それを振り払うかのように走る二人の前に、巨大な槍が突き刺さり、動きを強制的に止められる。自分達に対しての敵意を持って放たれたこれは一体何だ、そもそも何故これほど突然現れたのか。ヒビキの思考が疑問と恐怖で塗りたくられる。
「止まるな! 早く――」
そこで、クレイの姿が忽然と掻き消えた。彼に何かあったのか、一瞬思考が混乱するが、すぐに答えは出た。
クレイがどうにかなったのではない。自分達が周囲から切り離されたのだ。
「ヒビキ君、あれは、何……?」
震えるユカリの声に、ヒビキは思考を中断して振り返り、目を見開いて硬直する。
不気味に輝く光球から、短剣の列と見紛う爪の並んだ、筋骨隆々の腕が突き出していた。光球は更に蠢き、次は腕から想像される巨体を支えるに相応しい、鋼鉄の如き輝きを放つ足が顕現する。
ヒルベリア全土を覆うのではと錯覚するほど大きく、翼膜に赤黒い、ユカリの右腕に描かれたものと同じ紋様を刻んだ翼。次いで丸太のように太く強靭な胴、最後に牛とトカゲが混ざり合った奇妙な頭部。
ゆっくりと化け物が全貌を顕わにしていく中、二人は一歩も動けなかった。
「…………」
今一番してはならない事である、現実からの逃避を思わず行ってしまう程に、目の前の存在は現実から離れた物だった。
化け物が腕をゆっくりと二人に向けて振り下ろす。咄嗟にヒビキはユカリを抱えて横に飛ぶ。
耳が壊れそうになる轟音と共に、数刻前まで二人がいた所に大爆発が起こった跡のような刻印が生まれ、二人の表情は恐怖で引き攣る。
一撃食らえば、間違いなく挽肉になる。眼前の存在は、先日対峙した竜さえも遥かに凌駕する力を有しているのは、これだけで理解させられてしまう。
「オオオオオオッ!!」
生物が発したとは思えない、殺意と闘争心が剥き出しの咆哮に、二人の身体は無意識の内に竦む。
ここまで逸脱した存在なら、この世界の人間ならば最早誰でも正体について理解出来るだろう。
「これって……」
ユカリを地面に下ろし、スピカを鞘から抜いて構え、ヒビキは答えを返す。
「あの図面の中の一体、『カラムロックス』だ。本物は知性がある筈だから、この地に残された魔力が覚醒したって所だろうな。下がってろ、ユカリ!」
カラムロックスは闘争心に満ちた咆哮を空間に響かせる。
ヒビキはそれに応じるかのように疾走、先手を取るべく動いたが、眼前の魔人が槍を振り下ろしたのを視認するや否や慌ててスピカを引いて、転がりながら逃げる。
転瞬、ヒビキの走路だった場所が炎上する。
御伽噺に住まう魔人が放った『
背後から再び迫る必殺の炎をヒビキは回避するが、圧倒的な速度を前に完全には躱しきれずに左の脇腹を食われる。
「……!」
炭化を通り越して完全に消失した脇腹を見て、顔を苦痛に歪めながら、昔カルスから聞いた言葉を思い出す。『極彩狂爆炎』は只の炎ではない。空気中に存在する不可視の存在の性質を強引に変化させ、それらを融合させる事で生まれる炎だ。
重金属さえも一瞬で沸騰させ、世界から消失させる狂気の炎は、名前が与えられている事から察せられるが、ヒトも放つ事は一応可能とされている。
だが一発撃てば脳と全身の魔力回路がガタガタになり、即刻病院で治療が必要になる反動の存在故に、誰も使おうとはしない。
それを放って尚カラムロックスは悠然と立ち、自分を捻り潰そうとする意思を滾らせている。
『
「ユカリ、絶対に近づくなよ。どうにかするからさ」
虚勢にすらならない声を、視界の先にいる異世界の少女に投げかけ、ヒビキは有る筈も無い希望に縋って、再び吼えた。
◆
「こんにちはぁ。私ぃ、ちょっと用があるのでぇ、通していただけませんかぁ~?」
緊張感が致命的に欠落した声を投げながら、デイジー・グレインキーはヒルベリアのメインストリートを闊歩する。彼女の名と姿、そして積み上げた実績を知らない者は王国にいない、との逸話はここヒルベリアも例外では無かった。
誰もが皆、彼女を恐れて道を開ける。
彼女は歌劇の主役の如く、自らの為だけに設えられた道を鼻歌混じりに歩いて行く。目的地は、第三マウンテンで何かがあったらしいと聞いた為にそこに決めた。
別に空振りしても彼女にとっては全く痛みはない。
時間はたっぷりある上に、何かハプニングに巻き込まれようとも、自らの実力ならば問題なく乗り切れる絶対の確信がある為だ。
「何も無さすぎるってのも退屈ねぇ~。何か無いかしらぁ~。……ん~?」
人の多い箇所を通り抜け、一人きりになった頃、デイジーは自らの眼前に人影がある事に気付く。アークス王国に於いては凡庸な茶色の髪に、戦闘には適さないと思われるローブを纏った少年で、武装と思しき存在は両の手に装着された手甲程度しか見当たらない。
「そこの人ぉ~、私が誰だか分かってるならぁ、さっさとどきなさぁい」
「当然知っていますよ。貴方を知らない人間など、この国にはいませんからね」
「ならぁ」
「だからと言って、退くつもりは無いんですけどね」
「え?」
男は、デイジーの慢心から来る警戒の甘さを見抜いていたのか、俊敏な動きで、己の間合いへと距離を詰め、渾身の右ストレートを叩きこんだ。
「きゃっ」
短い悲鳴と共に、デイジーはほんの僅かに顔を動かして拳を躱して致命傷を免れるが、男の拳の速度が予想を上回っていたせいか、小さな擦過傷を頬に作った。
「もうっ! いきなり何するのよぉ~! 女の子に暴力振るうってぇ、貴方最低!」
「『
言うが早いが、フリーダは体勢を一瞬で整え、人間の領域から数歩ほど逸脱した速度の回し蹴りを放つ。
畳み掛けてくるフリーダに対し、最早回避は間に合わぬと察したデイジーは、自らの魔力で生み出した即興の剣を構え、防御の姿勢を取る。
どれだけ相手の攻撃が優れたものであっても、実体がなく、斬撃の特性のみが付与されたこの存在を破壊する事は不可能であり、逆に相手の足を切断出来ると算段しほくそ笑む。
だが次の瞬間、彼女は予想外の事態に鼻白んだ。
フリーダの足が剣を貫き、鍛えられた足から放たれた蹴りが、デイジーの顔面を寸分の狂いもなく捉えた。
クリーンヒット。
デイジーは顔や首から破砕音を立てながら吹き飛び、近くの廃屋へと突き刺さる。
たった今、魔力の塊である剣を崩壊させたそのタネこそが、フリーダが練習の末に獲得した戦闘術である。
万物の魔力の流れとは身体の構造と同様、大体決まっており常態とは異なる流れが多少続くだけで、崩壊を招く。
彼は修練の結果として魔力を流し込んだ相手に、その異なる流れを引き起こさせる事を可能とする。
彼が徒手空拳の戦闘スタイルを主として採るのも伊達や酔狂では無く、敵の弱点を突き、素手による接触によって、効率良く魔力を流し込む事を可能とする為の選択なのである。
立ち上る砂煙の中から、一向にデイジーは出てこないが、フリーダは緊張を緩められない。
一連の流れを決められたのはあくまでも、彼女の油断とこちらの手札についての無知に起因するものが大きい。これ以上自らに有利に転がる様な何かを、フリーダは持っていない。
つまり、デイジーに対して唯一アドバンテージを持っている状況で放ったこの攻撃で彼女を沈めることが出来なければ、彼は必敗の状況に追い込まれるのだ。
ゆっくりと、瓦礫へ向けて歩き出すフリーダだったが、砂煙を割って飛び出してくる気配を察し、拳を突き出してそれを砕く。
拳に走る鈍痛と共に、自らの目論みが脆くも崩れ去った事を悟り、舌打ちをする。
「面白いわねぇ~。このデイジーちゃんからダウンを奪うってぇ~」
「油断しきっている馬鹿相手なら、誰からでも奪う事が出来ますよ」
「言ってくれるじゃなぁい。でもぉ、これならどうかしらぁ~」
爆発的な魔力と威圧感の増大を肌で感じ、フリーダの背筋に冷たい物が走る。
視認出来る程に空気が歪み、何も無い筈の場所から続々と剣が湧き出してくる。
非常に短時間の間に、フリーダの世界に存在するのは、宙に浮かぶ夥しい数の剣とデイジーだけになっていた。
自分の中では噂でしかなかったデイジーの代名詞、脱出不可能な剣の牢獄『
包囲を終えたデイジーは、腰に差していた、敵の肉を削る為に刀身が波打っている一対の湾曲した長剣『
「……ッ!」
風切り音で呪縛から解き放たれたフリーダは、一切の躊躇いも無く地面をぶん殴って魔力を注入し『
間髪入れずに大地が震動し、液状化した土がのたくりながら奔流となってデイジーの元へと殺到。
だが不可視の速度で回転するパーセムに粉砕され、彼の仕掛けはあえなく沈黙する。
「はいは~い、おっそすぎますよぅ~」
それに対して何らかの感情を呼び起す暇もなく、戯けた言葉を連れてデイジーが飛来し、左手側のパーセムが唸りを上げて迫る。
『
一度仕切り直す為に後退しようとした瞬間、原理が理解出来ない動きで目の前の剣士が超高速回転、放たれた斬撃はフリーダの衣服の胸部を細切れにしただけでなく、その下の肉を派手に切り裂いて、白い肌に赤い紋様を深く刻み込んだ。
激痛から地面に膝を付いたフリーダをよそに、踊り終えたデイジーはとある廃屋の屋根に降り立ち、パーセムを構え直す。
「私を倒したければぁ、この劇場で、冗談と生と死が交わる境界線上に突入して踊る覚悟が無いとダメよぉ。……パスカからきつぅく言われてるから、殺しはしないけどぉ、腕か足が四、五回くらいブッタ切れるのは覚悟しておいてねぇ~」
排除宣告は、僅か一・四四メクトルの小さな身体から、甘ったるく幼い声で為されたにも関わらず、彼女の放つ気迫によってフリーダの身体から汗がダラダラと流れだす。
先程のやり取りから見えた彼我の実力差が齎すごく当たり前の帰結として、自分はあっさりと撃破されるだろう。だが、今はそこが重要なのではない。
――ヒビキとユカリちゃんが、やる事をやるまでは粘るんだ。……出来る限りは粘るけれど、なるべく早く頼むよ。
ここにはいない友人に宛てた思いを心の中で復唱し、己の目的を再確認。フリーダは拳を構え直し、戦闘体勢に移行して相手の流儀に応じた気炎を上げた。
「さぁ、踊りましょうか!」
曲芸師と格闘家の奇妙な組み合わせによる戦闘の火蓋が、切って下ろされた。
◆
フリーダが思いを寄せながらデイジーと対峙している頃、当のヒビキは絶対絶命の状況に陥っていた。
彼の頭部からは血液が止めどなく溢れ出し、カラムロックスの登場で久方ぶりに直に外気を吸ったマウンテンの地面に、赤黒い彩を添え続けている。
「クソッタレがッ!」
怒りの言葉を吐きながら投槍をスピカで受けたが、目の前の奇怪な巨人の膂力から放たれた槍の力を殺しきる事が出来ず、後ろに吹っ飛ばされて地面に無様に落ちる。
そんな物では止まる訳にも行かない。ヒビキは強引に体勢を立て直し、スピカと共に果敢に斬り込んでいく。
当然防がれ地面に叩き付けられるが、四肢を用いた着地で衝撃を殺し、生物ならば死角となる角度からの斬撃を放つ。相棒たるスピカの力は良く知っている。
そしてここからなら、確実に斬れる。
蒼の斬撃は甲高い音を発しながら放たれた。
だが、経験からなる確信と相棒への信頼によって放たれた斬撃は、カラムロックスの身体に受けとめられ、皮膚を浅く傷付けるだけの結果しか生まなかった。
人が虫けらを払う要領で、魔人は槍を振り回しヒビキを吹き飛ばす。無抵抗の状態で宙を舞うヒビキの視界に、こちらを串刺しにする意図で槍が迫る。
「――がッ!」
強引に身体の向きを変えて直撃は免れるが、槍に纏った烈風を躱す事は出来ず、腹部に裂傷を作り、血を噴き出しながら、ヒビキは地面へと落下する。
打ち所が絶望的に不味かったせいで、全身が盛大に軋む音を上げる。
苦悶の声を上げる暇も与えぬと言わんばかりに、新たに放たれた刺突と数え切れない数の極大の火球『
ふと振り返ると『牽火球』の着弾箇所は完全に融解し、泥濘の熱湯溜まりが大量に形成されている。
最初の『
だが『牽火球』であっても自分に直撃すればどうなるか、との疑問は抱く必要も無いし答えを知りたくもない。
伝承に名を残す魔獣と畏怖の対象であった事に対して、何の疑いも無く肯定出来る程にカラムロックスの魔力は膨大であった。
凡百の魔術師が生命を賭してようやく生み出せるかもしれない現状を、そもそも目くらまし程度にしか使えない『牽火球』だけで引き起こしてヒビキの動きを縛りつつ、強靭な肉体を存分に活かして常に自分が優位に立ったまま戦闘を進めてくる。
どうすれば勝てるのか。いや勝てる、とまでは行かなくとも撤退が可能となる状況まで持って行けるのか。
圧倒的に地力で勝る相手の攻撃を、どうにか凌ぎながら回答を脳内で延々と探し続けるが、答えは出てこない。
だが、出てくるまで悠長に待つ余裕など無い事もまた、彼に突き付けられた現実なのである。
迷いながらではあるが、ヒビキは槍の動きを見続けた事で、極々僅かではあるが隙も多少なりとも見える様にはなってきた。恐らく、相手の力を考えれば一度外せば潰える好機。それを逃す訳にはいかない。
「――ッ!」
一縷の望みに縋って、ヒビキはバク宙で一度大きく後退。魔人は当然の様に距離を詰め、刺突を放ってくる。
今までと同じく、こちらの理解を遥かに超越した速度の刺突。
だが、こちらの動きに追従した攻撃であるならば、多少なりとも動きが見えやすくなる。
カラムロックスの力を考えれば、修正は人間のそれに比べて遥かに容易だろうが、隙が産まれた事は事実。
ヒビキは槍の軌道を見切り、必殺の矛先を掻い潜って己の間合いを見出した。
――当たり、やがれぇッ!
極めて低い勝算からなる最悪の予想を強引に振り切り、半ばヤケクソでスピカを構え、抜刀姿勢を取る。意図に気付いた魔人の動きより速い。それは彼にとっては奇跡と言って良い物であった。
左腕の筋肉と骨を激しく軋ませて放たれた斬撃は、激流の如き勢いで、そして剣閃は蒼星の如く輝いて世界への登場を果たす。
転瞬、ゴミ捨て場のゴミが全て宙を舞い、その姿を小さな物へと変えられた。
「な、何これ。すご――」
皆まで言えず、ユカリも烈風に巻かれて宙を舞い、地面を転がる。
巻き起こった烈風と閃光は、放った本人も理解出来ない速度で牙を剝いた。
カラムロックスはこの戦いに於いて初めて、槍を肉体の前に掲げて『
耳をつんざく暴力的な金属音、そして肉の裂ける音。
致命傷とはならなかったものの、ヒビキの放った一撃は魔人の防壁を両断し、強靭な肉体の右肩から左脇腹にかけて刀瘡を刻み込んだ。雨の如き勢いで盛大に血が噴き上がり、地面を濡らす。
そして、ヒビキの前には、何メクトルの深さがあるのか推測困難な深い刻印が刻み込まれた。恐らく建造物の類があれば間違い無く両断されていたであろう。
窮地に追い込まれながらも、放った斬撃の見せた圧倒的な破壊力に僅かな光明を見たヒビキは、好機とばかりに踏み込み、スピカを奔らせる。
蒼の刀身が硬質の肉体に食らい付き、鱗、外皮、肉を纏めて裂く。致死量と断じる事の出来る血液が舞い、紅く染まりながらもヒビキは勝利を確信。
「……嘘、だろッ!?」
しかしスピカの刻み込んだ傷が、一瞬泡立ったかと思った次の瞬間、完全に再生を果たす。
速過ぎる再生、そしてそれが齎す自らの足掻きが全て無に帰した現実の提示で、ほんの僅かにヒビキの動きが止まる。
残酷な魔人の一撃は、停滞する瞬間を待っていたと言わんばかりに、ヒビキの左上腕部を貫いた。皮膚が紙屑同然に空間を踊り、熱い血肉が大地にばら撒かれる。
それだけでは終わらずに、虚空から呼ばれた鎖が左腕に絡み付き、一気に引き絞られる。
鈍い音を上げて、ヒビキの左腕は完膚なきまでに粉砕された。
「……あ、あぁ、がぁぁぁぁぁぁぁぁッ!」
痛みと恐怖と絶望と生物の本能が絡み合った感情に基づき、ヒビキは声も枯れよとばかりに絶叫する。
絶叫しながら、地面に崩れ落ちるヒビキに戦闘を続行する余力は最早無いと判断したのか、カラムロックスがユカリの方へと狙いを変えた。ゆっくりと拳を引き、振り下ろす。
最強の魔人が相手では、都合良く攻撃が外れると言った類の奇跡は絶対に起こらない。彼が思考出来たのは、ここまでだった。
「……ッあぁ」
「ヒビキ君!」
ヒトの限界を超えた速度でユカリの前に割り込んだヒビキの肉体に拳がめり込み、胸部の骨が幾本も砕け、視界が揺すられる。
ヒビキは血液を口から撒き散らしながら、地面に縫い付けられる。そして、既にカラムロックスは次の手を打つべく体勢を整えていた。
立ち上がって回避しなければ不味いと、理解はしている。だが彼の肉体には、自らの意思に従って行動を起こせるだけの物は残されていなかった。
猛る魔人の槍が、ヒビキの肉体を深々と貫いた。
内臓のどれかを破壊されたからか、陸に打ち上げられた魚のように、全身を激しく痙攣させながら、地面を無様に跳ねまわる。傷から、口から血液は流れ続ける。失った血の量が多過ぎる為、もはや身体から強制的に発せられる危険信号を利用した意識の保持も厳しくなってきた。
それでも、ヒビキは止まらない。否、止まる訳にはいかなかった。
肉体に開けられた穴という穴全てから血液や内臓を垂らしながら、右手でスピカを握りしめ、カラムロックスに対峙する。
蛮勇にもならない単なる自殺行為を行おうとするヒビキの右手のスピカを、ユカリの細い腕が取り、震えながらも前に出て、彼を守るように立つ。
「お前、何、してるんだ……」
当然の事ながら、彼女に目の前の巨人と渡り合う力は無い。
百度戦えば間違いなく百度死ぬ。
非合理が過ぎる彼女の選択にヒビキの混乱は加速していく。
「……早く、逃げるんだ。……生きてりゃまた――」
「そんなこと、言わないでよ!」
自身の中にある常識に基づいた説得は、彼女からは想像も出来なかった激情を顕わにした声によって中断させられる。
「ヒビキ君が、私の事を本当はどう思っているのか分からないよ。……でもね、少なくとも私は、ヒビキ君を踏みつけてまで帰りたいとは思わない。……だから、私も戦うよ」
彼女の手に握られたスピカは自らの手にあった時と変わらぬ輝きを放っている。持ち主と違い、スピカは未だに闘争心を絶やしてはいない。
「はぁぁぁっ!」
振り下ろされた魔人の拳を、ユカリの手で振るわれたスピカは、持ち主の身体を激しく揺らしながらも受け流してみせた。虚を突かれた魔人だったが、すぐに長槍による戦舞を演じ、ユカリを軽々と宙に浮かせた後、痛烈な突きを叩きこむ。
一瞬目を背けたヒビキだったが、聞こえてきた音が乾いた音であった事に脳が疑問の声を上げる。
視線を向けると、ド素人である筈の少女は、スピカを取り落とし、衝撃による苦悶の声を漏らしながらも、両の足でしっかりと立ち、もう一度身の丈の何倍もある魔獣に挑みかかった。
ユカリは動きは素人そのもの、一撃を受ける度に激しく身体が揺らぎ、いつ破綻をきたしても不思議ではない綱渡り状態ではあるが、彼女はヒビキに攻撃を届かせなかった。
彼女の奮戦を、不確かな視界で見続けていたヒビキは、自らの胸をある感情によって揺るがされていた。
――誰かを踏みつけてまで、戻りたくはない、か。
踏みつけられる側であるが故に、自分自身もいつの間にか、損得勘定や、自分にとって最大限利のある選択をする癖が身についていた。だが、それによって生きてこられたのも疑いようのない事実だ。
たった今でも、理性ではその選択の仕方は間違ってはおらず、現状のユカリの選択こそが間違っていると判断出来る。だが、たった今、彼の本能が正論を否定した。
そして、自分の本当の姿を晒す事への恐怖も消失する。
――間違っていても構わない。……否定される事だって、受け入れろッ!
フラつく足で立ち上がり、霞む目で見るべき物を見る。そして、ヒビキは絶叫した。
「―――ッ!」
彼の咆哮に、ユカリも、そしてカラムロックスまでもが手を止めて、彼の方に視界を向ける。この咆哮はヒルベリアの中心部まで届き、交戦中であったフリーダとデイジーの動きも、異様な何かを感じて動きを一瞬止めた。
「……ヒビキ、君?」
自らの見知った人間が、見た事も無い姿へと転生していく様を目の当りにして、彼の名前を呟く事しか、ユカリには出来なかった。
ヒビキの肉体を蒼白い雷光が包み込み、身体を流れ落ちていた血液が逆流するように吸い上げられていく。左目の色は黒から蒼へと変色、瞳には意図を解する事が出来ない幾何学的な模様が描かれ、同時に星のような輝きを放ち、ヒビキの視界は一気にクリアな物へと変わる。
砕け散った筈の左腕の有った場所から、植物の成長を早回したかのような速度と動きで骨、肉、皮の順番で伸びていき、非常に短時間で再生を果たす。
両の腕には奇怪な筋が通り、血流とは無関係の脈動を始め、右腕に至っては、真っ当な人間ならば有り得ない、奇妙な光沢を放った硬質の物体へと置き換えられていた。
誰の目にも明らかな特異な変化が進む中、自らに起こる、世界からの拒否反応とも捉えられる未踏領域の痛みを感じながら、ゆっくりと、ヒビキは口を開く。
「なあユカリ、俺の事を知りたいって言ってたよな?」
「……え?」
先ほどまでとは一転した、活力のある、しかしどこか昏い何かを感じる声にユカリは戸惑う。同時に、カラムロックスの腕が消失し、マウンテンに重低音が轟いた。
すぐに再生を果たすが、今まででは有り得なかった己の身に刻まれた大きな損傷に、目測六メクトルの巨大な魔人は動揺の色を少し、ほんの僅かではあるが確かに浮かべた。
目まぐるしく転移していく状況に付いて行けず、混乱する彼女の目の前に、何時の間にかヒビキの姿があった。
強力な魔力によって、強引に自らの手に連れ戻した蒼の異刃を構え直して、人の理から外れた変化を遂げた少年は名乗る。
「俺の名はヒビキ・セラリフ。……カルス・セラリフの力を受け継いだ、世界で唯一無二にして、最低最悪の失敗作『
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