6:快晴
何処からか音が届き、クレイの意識が覚醒する。
気怠さに満ちた身体に鞭を入れ、やけに重い瞼をこじ開ける。
目に映る、記憶の何処にも見当たらない平坦な世界に一つ影があった。
音を発しているのはこの影だろう。
そんなことをクレイが考えている間にも、影は接近し続け音は声に変わる。
やがて影はヒトの輪郭になり、輪郭は細部まで視認可能な一人の存在を描き出す。
「クレイ!」
よく通る美しい声。肩辺りまで伸びた射干玉の髪と、夜空の持つ寛容さを内包した瞳。代名詞だった異刃こそ無いが、極東と軍の戦闘服を巧みに組み合わせて、唯一無二の姿を組み立てている女性を、見間違える筈もなかった。
「スズ……さん」
ハレイドの病室で、最後にやり取りを交わしてから十年少々。あの時よりも活力を取り戻した風情の女性、スズハ・カザギリは出来損ないの笑みを纏ってクレイの前に立つ。
「どうして、アンタが」
言いかけて、馬鹿な事を聞いたと自己嫌悪に陥る。
死者は帰らない。
絶対の真理に従い思考すれば、結論は一つ。
自分は失敗したのだ。アルティ・レヴィナ・エスカリオの進撃を止められなかったのだ。
「……オズはどこにいる?」
力なく首が振られる。船頭の力で強引に真理を捻じ曲げ、生者の世界に留まっていた友は、ここに辿り着く事すら叶わなかったということだろう。
――あぁ、何だったんだろうな。俺。
空想世界のような安い奇跡は起きなかった。逃げ続けた敗者はまた敗北し、何も残せず消えていく。眼前の女傑が望んだ物からもっとも遠い結果だけを手にして、こうして終わりを迎えようとしている。
「悪い、俺――」
何を求めたのか。当人にも不明瞭なまま紡がれようとした言葉は、膝を折ったスズハに抱きしめられた事で止まった。
鍛錬で投げ飛ばされる、緊急時に一方が相手を引っ掴んで逃走するといった局面を除き、ここまで接近したことはない。柔らかな感触に包まれ、少しだけ眼が動いたクレイの耳に、嘗ての上司は囁く。
「君もオズも、十分頑張った。途中で投げ出した私に替わって、ここまでよくやってくれた。もう良いんだ、休もう」
「馬鹿言うな。俺は何も成せなかった。……ルチアの目を醒まさせることも、アイツの企みを止めることも」
絞り出された悔恨を受け、スズハは首を横に振る。
「ここに至ったのは、君達の責任ではない。私も含めた、過去の世界を生きた者全ての責だ。目を逸らし続けた果てに、ルチアや陛下の道が開かれてしまった」
「そんな理屈は良い。開かれたのなら、止めなきゃいけなかったんだ。……アイツ等に押しつける事だけは」
パコン、と間抜けな音が白い空間に響く。
小さく頭を叩かれたのだと気付き、クレイが紡ごうとしていた言葉が途絶。行き場を失った音が喉元で転げ回る中、スズハは何度も彼の頭に掌を当てる。
「既に彼等は巻き込まれた被害者でも、守られるだけの存在でもない。それぞれが大切な願いを持って戦いに臨もうとしている。君の助力も含め、様々な事象に導かれて、彼等は立派な戦士になったんだよ」
「……」
「君も成したんだ。もう、一人で背負わなくて良い」
「何を……馬鹿な……」
平時と変わらぬ皮肉を詰め込もうとした声は、気付かぬ内に萎み、喉元でつかえた。不自然な途絶で、自身がどのような感情に支配されているのか、クレイは気付きに至る。
紅から解放された蒼の眼から、涙が溢れ続けていた。
産まれた直後にドブへ放り捨てられた瞬間。
友を幽明の境界を越えた場所へ送った過去。
与えられた可能性を浪費した末に敗北した今。
世界に描かれるであろう地獄から一人逃避し、彼等に全てを押し付ける未来。
断続的に襲い来る身を刻むような痛みは、彼に纏わり付く「何も成せなかった」罪悪感に起因する物であり、スズハ・カザギリはそれを否定してみせた。
「……アンタに見送られて、良いのか」
「先達の仕事だ。資格も立派にある、だから……おやすみ、クレイ」
ずっと求め続けていた物を恩師に示され、クレイは目を閉じる。やがてスズハの手に包まれていた全身の結合が緩み、ヒトの形を喪失して世界に溶けて消えていく。
光の揺蕩う世界で、嘗ての四天王の魂が静かに燃え尽きた。
◆
殺戮の嵐はやがて止み、それに連れられる形で極彩色の紗幕は薄らぎ、消えていく。来訪者の齎す物が失せたデウ・テナ・アソストルに、とある変化が生まれていた。
二千年の長きに渡って、周囲の状況に関わらず空を覆っていた毒々しい色の雲が全て吹き払われ、蒼空と陽光が当地を照らして大地の色彩を大きく変えていた。
のみならず、惑星に住まうほぼ全ての生物に有害な瘴気の噴出や、発火や凍結といった物理法則を無視して発生していた現象もパタリと止み、当地の特徴にして、生命を拒絶する仕掛けは機能停止した。
長い時間を要するだろうが、当地にも再び生命が戻る日が訪れるだろう。
大戦直後から現代に至るまで、無数のヒトが知恵と技術を駆使しても、何ら変化を齎せなかった大地を、数時間程度で劇的に変えてみせた。
神の御業と形容すべき事象を引き起こした白髪の少女、アルティ・レヴィナ・エスカリオは、掲げていた長剣を霧散させ、掌中に転がっていた紅い破片を口の中に放り込んだ。
無音で嚥下し、妙に人間臭く肩を竦めた救世主の脳裏に声が響く。
「お疲れ様。どうだった?」
「クレイトン・ヒンチクリフ。オズワルド・ルメイユ。両名を完全に打倒しました。想定外に時間は掛かりましたが、問題ないでしょう」
「アルティ君、考えが甘い」
静かな、しかし強い意思が内包されたサイモン・アークスの声に、踏み出そうとしていたアルティの足が止まる。反論せず、待ちを選択した彼女の態度をどう捉えたのか。
少しだけ気迫が薄らいだ、サイモンの言葉が紡がれる。
「片方には資料室に十分な戦闘記録が存在していて、事前の対策も行っていた。その状況で想定外を引き摺り出されたことは、君に油断があったからだ。到達点は覚えているかな?」
「旧支配者を打倒し、全ての頂点に立つ。そして、世界を導く」
「その通りだ。慢心や油断は予想外の敗北を招く。通過点の戦いで敗北する可能性など、見せてはならなかった」
「魂に刻みます。次なる戦いでは、完全な勝利をお見せ致しましょう」
「それで良い。ところで、二人の技は取り込めたかな?」
「片方は。ですが、徒に命を浪費する大道芸など無用の長物。知る者の戦意を欠くには有用でしょうが、彼の世代で一線級の戦士はもう残ってはいません」
嘗て大陸に名を轟かせた男が、命を捨てて放った技。
戦士ならば誰もが一つの到達点と定めるそれを、単なる大道芸と残酷に切り捨てたアルティは、小首を傾げながら言葉を紡ぐ。
「もう片方の習得は残念ながら叶いませんでした。双界に立つ者の力は、現世の存在から生まれた私を拒みました」
「なるほど」
「ですが、部分的ながら力の解析には成功しました。『船頭』本体と交戦した場合、現時点での勝率は二割になります」
「開戦前は一割にも届いていなかった。なるほど、素晴らしい進化だ」
生態系図に組み込まれた生物が特異な進化を遂げた末、人智を超えた力を得た『エトランゼ』と、そもそも魔力形成生物のカロンでは成り立ちや強者たらしめる理由が異なる。
大気中の魔力の集結で生物の形を得た上に、自我や魔術の行使を実現する知能の獲得に至るまでが奇跡に等しい事象。天文学的確率を越えて生まれてきた彼女達は、魔力の流れや質の個体差が非常に大きく、一度の戦闘で理解することは困難を極める。
誕生時に獲得した力と、後天的な修練による強化。そして成り立ちに起因する特異性が、カロンを始めとした上位の魔力形成生物が持つ最大の優位性。
オズワルドとの戦闘で、アルティはカロンの力を断片的ながらも理解した。これは彼女が『船頭』の持つ優位性を一足飛びに埋め、戦いの盤面に登った事を意味する。
彼女と同等の存在、即ち『エトランゼ』と対峙する資格すら得たアルティの記憶に、クレイトン・ヒンチクリフやオズワルド・ルメイユの影は既に無い。
勝者は敗者に囚われず、決して立ち止まらない。
通過点の戦いで足を止めず、ただ与えられた使命の為に歩み続けようとする彼女は、まさしく神話に描かれ、数多の人々を導く救済者の姿だった。
「
「そうだね……おっと、少し待ってくれ」
会話が途切れ、アルティの耳からサイモンの声が遠ざかる。
目録性能をフル活用して会話を拾う選択をせず、彼女はただ待っていた。先んじようと、相手が切り出してからであろうと、示される道は変わらない。
ならば、待機している間にも自身の成果をこの目に刻み、求められる物の再認識に努めることが最善。そのような判断に基づき、アルティは禁足地を見つめて待ち続けていた。
穏やかな微風を浴びるだけの時間が暫し流れ、変色を繰り返す瞳の色が一巡した頃、遠ざかっていた声が彼女の耳元に戻る。
「状況が少し変わった。一度戻ってくるんだ」
「異邦人や自殺志願者はもう少し泳がせる筈でした。何故アークスに」
「信賞必罰に則った行動、だよ」
「なるほど、承知致しました」
「完了次第、計画に戻ってくれ。『船頭』の傀儡を破ったとなれば、愚鈍で傲慢な旧支配者達や『船頭』自身も動く筈。君が負けると思わないが、派手に暴れるのは最後の一瞬だけで良い」
通信が途切れ、一人に戻ったアルティは瞑目。
ヒトの手で生み出された彼女の内側に巡る物は、造物主がこの局面で抱く物とは大きく異なる、迷いや気負いが排された純粋な使命感のみ。
展開されていた翼を背部に格納。真っ当なヒトの姿に回帰した少女の周囲に光が生まれ、急速に輪郭が解けていく。
「停滞を続けていた盤面は動く。旧支配者を掃討し、新たな世界を開きましょう」
決然とした言葉を放った、アルティ・レヴィナ・エスカリオの姿が掻き消える。
先のやり取りに従う形でアークス王国に一度帰還し、体現に動く彼女が望む理想は壮大極まり、常人ならば誰もが一笑に付す代物だろう。
だが、デウ・テナ・アソストルを大戦の呪縛から解き放ち、新たな歩みを踏み出させた力は、それに挑む資格が十全にあると世界に示していた。
絶対と見做されていた停滞が力尽くで打ち砕かれたように、全ての事象は変化し続け、盤面に登った役者達の指し手によって形が決まる。
その終着点は、美しく晴れ渡った蒼空さえも知らぬところにあるのだろう。
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