回想:愛情の逆再生

 記憶とは恐ろしいもので、当人が忘却を望む事象ほど深く刻まれる。

 そのまま眠っていてくれれば。そう願うであろう忌まわしい記憶は、最も望まない時に顔を出して、保有者の心身を蝕む。

 ヒトならば誰もが持つ機構を、完全に捨て去れる存在など、現時点では存在しないのだろう。

 抱えてしまった物を救う手立ても、またそれに等しい。


                  ◆


 アークス王国首都。ハレイドはマッセンネ。

 小高い丘の上に位置し、交通の便でやや不便な当地が高級住宅街となったのは、政治に参加する貴族がこぞって別邸を建設していた事実が源流になっている。彼等は政治に関わる力を失った後も、当地を本宅として住み続けた。

 たった今、周囲の家にも確実に届いた怒声を響かせた家の持ち主、グレインキー家もまたその例に該当する。

 もっとも、当家は没落貴族の揶揄が的確に当て嵌まる実情なのだが。

 そんな邸宅の居間で、一人の幼子が床に落ちた。

「ごめんなさい! わたしが馬鹿なのです! 馬鹿でごめんなさい! 次はちゃんと、ちゃんといい点数をとります」

 腫れた頬を左手で抑え、髪の色と同じ桃色の目に涙を溜めながらも、右手を床に付けて幼子は許しを乞う。年齢が一桁の子供の振る舞いとは思えぬ、ある意味で慣れが伺える彼女の頭部に、容赦ない拳が撃ち込まれる。

「ぎっ――」

「この点数はなんだ! 私の血を引いているんだぞ!? ××××××家の子女は出来ていた! なのにお前と来たら……おい、聞いているのか!?」

「ごめ……」

「謝って許されるほど世の中は甘くない! お前のその甘えた考え方は……どこで覚えて来た? くだらない漫画か!? それとも現実逃避のゴミのような妄想か!?」

 一撃目で顔が床に打ち付けられ、弾んだ彼女の全身に男は何度も殴打を加える。疲弊したのか、それとも飽きたのか。肩で息をする男は、蹲った幼子にトドメとばかりに蹴りを入れる。

「ぅ……げえ……」

 ヒキガエルにも似た醜い呻きを発して、反吐をまき散らす幼子に底無しの侮蔑を向けながら、男はもう一度怒鳴りつける。

「もう良い。掃除してさっさと学校に行ってこい! 私に恥をかかせる真似はするなよ!」

「……わかり、まし」

 這いつくばった状態から辛うじて父親へ向けていた顔が、頬を張られて強制的に横を向く。

「人間に聞こえる声を出せっ!!」

 返事を待たず、男は踵を返して大股で自室へと去っていく。場に残された幼子は目に溜まった涙を溢さぬよう堪え、痛む腹部を抑えながら顔面に付いた吐しゃ物をぬぐってノロノロと立ち上がる。

 大抵の者が非日常と捉えるであろう光景は、デイジー・グレインキーにとっては間違いなく日常だった。

 

                  ◆


 門が閉ざされる寸前で初頭教育学校に滑り込み、覚束ない足取りで賑やかな教室に入る。

「おは……」

 挨拶をしようとして、誰も返してくれない現実を思い出して俯く。

 獣が道を覚えるように、俯いたままでも進み方を覚えたのか。危うさはあるが人や物にぶつかる事なく、デイジーは自席に辿り着く。

 周囲から向けられる、悪意の眼差しに気付かないまま。

 安堵の溜息を吐いて腰を降ろし……そして椅子との接地面に痛みを感じて飛び跳ねた。

「いたいっ!」

 図らずも教室中に響く声を発したデイジー。間の悪い事に、中途半端な着座姿勢を執っていた為に跳ねた膝が机に当たる。『級友』に捨てられる可能性から、毎日空にしている机はそれだけでバランスを崩し、彼女共々派手な音を立てて床に倒れた。

 無様に倒れたデイジーの目前に、棘を纏った植物の種子が転がり込む。俗称で『噛みつき草』と呼ばれるヴェナプラの種子は、硬く無数の棘を持っている。

 だが、人にすら危害を及ぼす食虫植物である為に初等教育学校の校舎内では栽培されておらず、種子も発見次第廃棄される。

 悪意が無ければここにある筈も無い代物。

 ただ、棘があると言っても種子ならば八歳にもなれば耐えられる程度の痛みしかなく、ここまでの反応を見せるのは客観的に見て滑稽に映る。

 そして、間抜けな姿を晒したのがデイジーなら、委細を把握出来ない距離から見ている者もそこまでの深掘りをしない。


 笑声が教室中で爆発した。


 自身に向けられる盛大な嘲笑。八歳の子供に到底耐えられる物ではないが、泣き出した所で状況は改善するどころか、更に悪化するのは目に見えている。

 持って生まれた体格差から、暴発しても勝ち目はない。仮に勝っても、事実が父の耳に届けば現状より更に強い痛みに晒される。

 黙したまま立ち上がり、滑稽な挙動で倒れた机を起こす。周囲が自分に求めているのは、無様に泣き喚く姿か、無駄と分かっていながら立ち向かい、そして道理に従い返り討ちにされる姿だ。

 無反応を貫徹すれば、一旦は飽きてしまって何もしてこない。

 その可能性に賭けて、耐えるしかないのだ。


                   ◆


 終礼の音が鳴ると同時、デイジーは教室を飛び出した。

 幼年学校にも終礼後の課外活動は存在していて、多くの子供達はそこに所属して他者との繋がりを学ぶ。未所属の児童は必然的に学校内のコミュニティの異物となり、それを知るが故に当初はデイジーも所属を望んでいた。


「自分の能力を見てから一人前の口を利け」


 拳と共に返ってきた父の答えに、希望は無惨に粉砕されてしまったのだが。

 同級生、そして教員も止めることはなく、学校の敷地から早々に退出したデイジーは、学校の輪郭すら見えなくなったところでようやく疾走から歩行に切り替え、やがてその場に蹲る。

 朝の一件以降、今日は幸運にも何もされなかった。だが、明日になればまたやられるかもしれないし、父からの『躾』は態々問うまでも無い。諦めているが、受け入れた訳はなく、救いの手があるなら伸ばして欲しい。

 そして、誰からもそれがないのは、自分が相手にされていないからだ。

 その原因は何かと考えれば、自分に人に誇れる物が何も無い、愚鈍な能無しであるせいだ。

 他者に返せる何かを持たない弱者に、手を差し伸べる物好きはいない。つまり、自分の現状は必然なのだ。

「合理的」な思考を何度も復唱するが、脳裏には毎度の如く別の感情が過る。それを搔き消す方法を、自主勉強の過程で読まされた本からデイジーは知っていた。

 けれども、具現化させる方法を彼女は知らない。

 とうの昔に没落したにも関わらず、貴族の家柄を殊更に振りかざし、家の再興の為に上の娘を強引に嫁入りさせるといった行動を父は繰り返していた。本人に直接ぶつけはしないが、近隣住民は父を疎んじており、娘にも厳しい目を向けていた。

 大人が見せる対応は子供に伝染する。加えて、デイジーは人に好かれる性分でもなければ、それを引っ繰り返すだけの才を持たない。集団に溶け込める仮面を被って飛び込めば良かったのだろうが、それも出来なかった。

 外では他者の視線に怯えて個人の殻に引き篭もり、家では父の不興を買わぬよう、失策無き振る舞いに全力を投じる。それがデイジー・グレインキーの全てだった。

「おうちに帰ったら宿題して。剣の練習して。叩かれたから魔術の勉強もしないと……それと掃除も」

 年齢を考慮しても小さい手の指が、呟きと共に折られる。一日は二十四時間で体力にも限りがある。自他ともに認める要領の悪さを持つ彼女でなくても、たった今並べられた課題は捌き切れない。

 器を超える作業に無理矢理挑めば、待ち受けるのは破綻のみ。無意味な完璧を求める父親がそれを見れば、益々叱責と暴力の嵐は勢力を増すだろうが、デイジーに止まることを選べる筈もなかった。

 立ち上がり、とぼとぼと歩き始めたデイジー。

「……あっ!」

 不意に吹き抜けた風が、彼女が握っていた紙の束を奪い去る。

 高く舞い上がった紙は、そのままデイジーの手に届かない高度で空を往く。

「まって!」

 失えばどんな目に遭うのか。文字通り骨身に染みているが故、必死で追いかけるが、どれだけ追いかけても落ちてくる気配はない。悪いことに、先程までの全力疾走で体力を消耗していたデイジーは、既に足元が覚束なくなっている。

 普段なら躓きようがない石片に、右足が引っ掛かる。一度バランスが崩れると、最早歯止めが効かない。転倒したデイジーは固い舗装路に顔面から落ち、痛々しい音が市街地に響く。

 音に釣られた道行く人々は、健全な家の子ではないと一目で解し、そそくさと去っていく。痛みより、こんな間抜けな形で目を引き寄せてしまう惨めさで、デイジーは道路に張り付いたまま動けない。

 そうこうしている内に、課題の詳細が記された紙束は遠ざかっていく。どう足掻いても追いつけない距離まで離れた事実と、帰宅後に待ち受ける『躾』の想像でデイジーは硬く目を閉じる。

「そこのお前。なんだ、地面に張り付く趣味でもあんのか?」

 何処か他者を見下した色も含まれた、涼やかな声が頭上から降り注ぎ、デイジーは痛みを堪えて顔を上げる。

 いつもと変わらぬ街並みを形成する電柱の一つに、竜を宿した若者が立っていた。

 異形の竜を模した刺青を刻んでいる為か、左頬の動きはややぎこちない。だがその点を踏まえても尚、電柱の先に立つ若者は作り物染みた美を持っていた。


 ――王子様みたい。


 幼児教育の過程で読まされた、絵本の登場人物。年齢不相応に幼い形容を脳内で描いたデイジーの目前で、若者は躊躇なく電柱から飛び降りる。

「あぶない!」

「危ない訳ねぇだろ」

 電柱の高さからでも人は死ぬ。そんな事実から反射的に飛び出したデイジーの言葉を鼻で笑いつつ、若者は舗装路に着地。絶対に生じる筈の、大気の攪拌すら抑える無音の着地。

 自身の常識ではあり得ない光景に、茫然と目を見開くデイジーを他所に、若者は彼女が必死で掴もうとしていた紙束を一瞥して、その美貌を歪める。

「あ……」

「これ、お前の奴か? お勉強熱心ですね! で済む量じゃねぇな」

 若者の言葉に刺すような痛みを感じ、デイジーは居たたまれずに俯く。

 呆れと感心が半分ずつ。といった調子で、彼女に特段負の感情を抱いていない事は、冷静に聞けば気付ける。だが、常に軽侮と罵倒に晒され続けたデイジーには、どうしても他者の反応が悪意に起因する物のように思えてしまう。

 伏せたままの目から涙が落ち、舗装路に染みを作る。

「おい、どうした!? ……ここで泣くな、俺が泣かせたみたいだろ!」

 およそ間違っていない。泣いている当人にぶつけるには最悪の言葉を放り投げ、駆け寄ってきた若者はデイジーの手を掴む。

 完全に不審者の振る舞いだが彼は。そしてデイジーも気が動転したのかそこに触れる事が無いまま、連れ立って表通りを離れた二人は、小さな公園に辿り着く。

「生憎俺もヒトだ。取って喰いやしないから座れ」

 促されるまま、青いベンチに腰掛ける。


 ――なにしてるんだろ、私。


 時間は着実に夕刻へ進んでいる。門限を破れば当然父の『指導』を受ける、最悪の事態が待っている。さっさと別れを告げ、帰宅する事が最善なのは疑いようがない。

 未だに若者が紙束を握っているせいで、それが出来ないのだが。

 こんな事態を想定していないせいで、課題を記した紙の予備は持っていない。それが無ければすべき事を把握出来ない。となると『指導』は更に深い物になる。

「返して……」

「学校の課題はまぁ良いとして、だ。剣に魔術に基礎教養? お前何歳だよ、こんな量出来る筈ないだろうが」

 放られた言葉に、反射的に肩を竦める。

 八年の非常に短い人生経験で、否定から繋げられるのは罵声か暴力と、彼女の五臓六腑に刷り込まれている。愚鈍さを晒してしまえば、父親に散々向けられている物を初対面の人間から受けても文句は言えない。

 癖で頭を抑え、デイジーは衝撃に備える。

「たかがお勉強で、なんでそこまで怯えてんのか知らないが、別に殴りやしねぇよ。つーかよ、こんなバカみたいな量をやらせるって、お前の親はどんな頭してんだ」

 予想していた『指導』ではなく、代わりに父親への非難が若者から飛び出す。数秒前までの人生を遡っても何処にも見当たらない現象に、目を白黒させる他ない。

 そんな彼女の目前に、若者の左手が無造作に突き出される。

「アホに一泡吹かせるぞ。『牽火球フィレット』なら、十分でやれる」

 若者が口にしたのは「早く覚えるように」と、父から指示されていた魔術。戦闘用魔術では最も低級な物だが、練習を始めてから今日までずっと失敗続きだった。

 不遜な物言いから推測すると、目前の若者は容易に発動させられるのだろう。だが、使用の可否は指導能力を担保しない。そして、自分は失敗経験だけを山のように背負っている。

「下らねぇこと考えてる暇あんなら、さっさとやるぞ。それ以外……」

 硬直したデイジーの姿に苛立ったのか、若者は彼女の腕を掴んで季節外れの分厚い上着の袖を捲り上げ、そこに刻まれていた物に息を呑んだ。

 生まれつき肉付きが悪く、同年代と比較して細いデイジーの腕は、殴打による内出血で大半が青黒く変色し、治癒しきっていない切り傷が膨れ上がり、醜く歪な線画を描き出していた。

 魔術の過剰使用や戦闘の負傷で、このような傷を背負う者は珍しくないが、まだ八歳で幼年学校生徒の身分であるデイジーは、前線へ出た経験は皆無。そもそも、魔術構築すら難儀する彼女が、前線に出られる筈もない。

 可能性は自然と狭まり、これまた必然的に正解に辿り着いた風情の若者は、憤怒が多分に混じった問いを絞り出す。

「誰にやられた?」

「……ぱぱ」

「……そうか」

 血が滲まんばかりに唇を噛み締めて、行き交う様々な感情を抑え込んだように見える若者は、すぐに軽薄な仮面を被り直すと、懐から黒のペンを取り出す。

 デイジーの反応から抱いた想像を読み取ったのか、彼は左手を軽やかに走らせながら言葉を紡ぐ。

「落書きっちゃ落書きだが、変なモンは書かないから安心しろ。……っと」

 ものの数十秒でペン先が離れ、左腕に視線を向けた桃色の目が真円を描く。

「呼吸で取り込まれた大気中の素粒は、血液に乗って全身に届く。完全に偏らせるのは無理だが、意識付けによって流入量の調整は出来る。

 慣れりゃなんてことないが、最初は発動させたい場所を意識しろ。それと出す物のイメージ。火球は難しいし、なんか炎の現象を想像しろ」

「焼ける棒とか?」

「……お前が良いなら、取り敢えずそれで良い」

 しょっちゅう体に押し当てられる、身近な物体を呟くと、美しい顔がまた一段と曇る。また何か失敗をしたようだ。

 自己嫌悪に陥るが、ここで手を止めるのは失礼極まりないと自己を叱咤して、脳内にイメージを組み立て、右手に力を籠める。

 腕や腹部を襲う幻の痛みに苛まれ、記憶から失敗の恐怖が顔を出す。

「お前の失敗を笑う奴はここにいない。で、魔術の習得は失敗してナンボだ、落ち着いてやれ」

 臆したように足が震えた時、若者の静かな声が飛ぶ。


 失敗してこそ。


 そのような考え方は父や教師、同級生から示された事がなく、惑星が逆回転を始めたに等しい衝撃をデイジーに与えた。

 正気を疑うように目を遣ると、竜を刻んだ若者は静かに首肯する。聞き間違いや悪意ではなく、本心からの言葉だと相手の反応で理解し、生まれた恐怖が氷解していく。

 乱れた呼吸を整え、目を閉じて濃霧の奥で眠る正解を探す。

 真っ先に襲い掛かっていた恐怖が、幾分薄れた『どこか』に身を沈める。色や感触、そして呼吸の有無すら曖昧な領域を揺蕩う内、掌に小さな欠片が収まっている事に気付く。

 正解の根拠は何もないが、不安や恐れは不思議と感じない。若者に提示された道筋は道の代物で、それをなぞると今まで感じたことの無い領域に踏み出せた。一歩前進した事実があるのならば、結果を確認するまで突き進むべきだろう。

 ――わからない。でも、やれる! ……気がする。

 多少尻すぼみになったが、決意に背を押されたデイジーは目を開く。

 心なしか熱を持つ右腕を前方に伸ばし、心の奥で求めた名を喚んだ。


 転瞬、暴力的な熱が彼女の周囲を包んだ。


「わっ!」

「っぶねぇな……標的俺かよ」

 自身が放ったと想像し難い魔力流と熱を受け、思わず顔を背ける。

 肉が焦げる臭気と、若者の胡乱げな抗議に慌てて向き直ると、盾代わりに掲げられた金銀の細工で過剰に飾り立てられた右腕から、白煙が立ち込める様が目に飛び込む。

 見ず知らずのヒトを傷つける、最悪の失敗をしでかした。

 顔面蒼白で謝罪の言葉を探すデイジーは、白煙を纏う右腕が伸びてくると身を竦ませ、細く美しい親指が上向きに立てられ、桃色の目を丸くする。

「狙いはともかく、やるじゃねぇか。初めて撃った『牽火球』でこれだけ出せるなら、他も使えるようになるだろ」

「ほんと!?」

「嘘言う必要ないだろが。どこ目指してんのか知らないが……」

「デイジー!」

 やり取りを遮る、無粋な声。

 植物の観察映像に匹敵する速さで、顔を白く染めていくデイジーの目に、父が大股で迫る。門限を破ったせいか、憤怒で塗り潰された父の顔は、彼女が最も恐れる物。

 身分不詳ではあれど、第三者の目があるせいか。加えて、その第三者がラフな服装に意味を解せない過剰な装飾。トドメとばかりに顔面に竜の刺青と、怪しい要素を過積載しているせいか。

「門限はとっくに過ぎてる。やることは沢山残っているのに、こんな所で道草を食っている場合じゃないだろう!」

 常日頃滾らせている、理不尽な怒りは言葉だけに留め、デイジーの手を雑に掴んで来た道を戻ろうとする。

「……ごめんなさい」

 場の全員に向けた謝罪は、誰にも拾われることなく舗装路に空しく落ちた。握られた彼女の手は、父の取り繕えない感情で既に変色を始めている。帰宅後に何が待ち受けているのかが、それだけでも正確に理解出来てしまい、体が勝手に震え出す。

 ――とめ……ないと。

 第三者に見咎められれば、帰宅後に行われる父の『躾』は苛烈さを増す。一段厳しくなる事は既に確定しており、今日これ以上厳しい暴力を受けきれない。

 やるべきことは分かっている。けれども、やり遂げても一定以上の痛みは齎される現実によって、感情の制御は不発に終わる。

 奇妙な高音が耳を穿ち、喉が異様に乾く。

 ただ足を動かすだけの機械になりかけた時、デイジーの耳に若者の声が届く。

「お前、そいつの親だろ。親ならな、もっと優しくしてやれ」


 不遜な物言いに、場の空気が硬直する。


 年長者に対する礼儀の類が欠落した声に、父は激烈な反応を見せた。

「私はこの子を大切にしている! お前のような薄汚い餓鬼に、子育てが分かる筈が無いだろう!」

「確かに俺はガキだが、だからこそどういう風に扱われているか? ぐらいなら分かる。腕の傷、見せて貰ったぞ」

「この子はよく転ぶ! 傷も魔術や戦闘術の訓練で付いた物だ!」

 後ろ暗い部分を直球で突かれた動揺を父は表出させる。失言をどうにか抑え込んで言った、ギリギリのところで理屈が成立した反論を若者は鼻で笑う。

「だったら三人で警察に行くか? そいつの傷を見せりゃ、どっちが正しいか判断して貰えるだろうよ」

 アークスの警察機関はお世辞にも仕事熱心と言い難いが、無能な訳でもない。デイジーの腕に刻まれた、一朝一夕で付けられない量の傷を実際に見れば十中八九動く。

 若者はあからさまな不審者であり、半ば拉致した光景を第三者に見られている。しかし、この傷は彼に付けられない。知る由も無い話だが、デイジーと共に生活している血縁者は父親のみ。

 売られた喧嘩をノコノコ買って、警察に行ってしまえば確実に負ける。その程度の判断力は残っていたのか。口を蠢かせながらも何も言わぬまま、父はデイジーの手を一際強く引いて再び歩き出す。

 少なくとも、牽制のお陰で今日はこれ以上の「躾」を受ける事はない。

 事実を噛みしめ、形容し難い喜びに突き動かされたデイジーは、思わず叫んでいた。

「また、魔術を教えて!」

「良いぜ。お前の親父よか、ちゃんと教えられるからな。アンタも良いだろ? 娘がちゃんと成長できるんだ、断る余地はねぇよな?」

 暴力を振るうだけのお前は無能。言下に毒を滲ませた声に、屈辱から父の体が震えるが、意図的に放出量を上げ、空気の流れを乱す魔力を目の当たりにした結果、首を縦に振らざるを得なくなった。

 その様に皮肉な笑みを浮かべながら、踵を返した若者に、デイジーは重ねて呼びかける。

「わたしデイジー。デイジー・グレインキー。あなたのお名前、おしえて!」

「……ユアン・シェーファーだ。ユアンで良いぞ。勉強したくなったら、この時間にここへまた来い。出来る事は教えてやる」

「うん!」

 ユアンと名乗った若者にデイジーは大きく頷き、酷くぎこちないが嘘偽りない笑顔で、去り行く彼に手を振り続けた。


 只の「失敗作」だったデイジーの人生は、この出会いによって大きく変化した。

 得られなかった喜びと、感じずに済んだ苦しみ。

 現時点ではそのどちらも知らぬまま、幼い彼女は父に連れられて家路に就くのだった。


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