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目を疲労させる人工光を湛えた液晶画面を睨み、ジェンジ・エスパロガロは暗い部屋で機械的に仕事に励む。
手掛けているのは軍に委託された放送局の下請け仕事。先日発生した、殺人事件の犯人を記録した映像だった。
国民への注意と情報提供を促す為に、犯人の特徴を鮮明にする加工は続く。少年が悪辣で救いようのない屑に映るように──
不意に、傍らに放置していた空き缶を掴み、抱えた苛立ちを乗せて投げる。缶が壁に激突し、何かを咎めるような甲高い音が室内に生まれる中、ジェンジは頭を抱えて机に突っ伏す。
諸事情で強いられた外出で遭遇した相手が、映像内で凶行に及んでいた者で、彼が本当に軍人だった事実が、ずっと心を蝕んでいるのだ。
最悪の想定を重ねて最善手を模索してきたが、ほんの軽い気持ちで自分を殺せる相手との現実が突きつけられたせいで、言葉を発する事にすら強い恐怖を感じていた。
彼に追い出されてから独自調査をしていたと思しき、ネリア・デルクールの殺害も、追い打ちとばかりに心を揺らがせている。
ジェンジを狙い撃ちに。ではないだろうが、首を突っ込めばどうなるか、という露骨な警告は相手の最終手段を明朗に提示し、映像で生まれた良心を挫くには十分過ぎた。
それでも尚、微かに残る良心に殉じるか安全を取るか。易々と選べない最悪の二択に苦悩する男の耳に、ノックの音が転がった。
◆
「本当にここにいるのかな?」
尾行を撒く移動法を用いてマッセンネを漂流すること数時間。周囲との調和を拒む古びた集合住宅に辿り着いたユカリは首を捻る。
綻びが目立つ眼前の建物に、調査や聞き込みの結果浮かび上がった、目的達成に繋がる存在がいるのかと不安を抱きつつ、階段を登ってある一室のドアをノックすると、向こう側から漏出する空気が重苦しい物に変わる。
人がいると確信するが、アポも何も取っていない初対面では、対面が叶うかは運に左右される。
一分弱ノックと呼びかけを行い、仕切り直しかとユカリが思い始めた頃、徐に開錠音。続いて「入って」と男性の声が届く。
「失礼します」
罠を警戒しつつ扉を開き、一直線上に進んで大部屋に辿り着いたユカリは、部屋の異様さに僅かにたじろぐ。
「暇じゃないんだ。手早く頼む」
億劫げな呼びかけに応じ、ユカリはもう一歩前進。
二重に掛けられた
他の家具には脱ぎ捨てられた衣服が引っかけられ、床にはインスタント食品や飲料の空容器が散乱。訪問者を追い返す目的でワザと散らかしているのでは? と穿った見方が、ユカリの脳内を通過する。
「君は誰? そして何の用?」
散らかり尽くした部屋の中で、唯一光を発するモニターから、恐らく意図的に視線を外さない男の声を受け、ユカリは自己紹介と状況説明を始める。
「――ですから、あなたが録画した映像をお借り出来ないかと……」
「帰ってくれ」
説明の最中、躊躇なく放たれた「お断り」の言葉にユカリの思考が一瞬停止。隙を衝くように、男は淡々と意思を主張する。
「公的な組織がヒビキとやらを罪人と認めた訳なら、僕が何かをする必要はないよね? 話はこれでお終い」
「でもあなたは」
「僕は何も知らない」
断言しながら、男、いやジェンジ・エスパロガロが椅子を回転させ、ユカリに正面から向き合う。
部屋の風景から推測していた姿とかけ離れた、血色の良い顔の若者から滲む、無表情の下から漏出する恐れを感じ、ユカリは僅かにたじろぐ。
「仮に望む物を僕が持ち、それを手渡せば、君の望みは無事果たされ、幸せになれるね。問題は君と違って特別じゃない僕だ」
「私は特別なんかじゃありません」
「十分特別だよ。生活の糧を確保する必要も、世間の立ち回りを意識する必要もない存在はね。縛られている僕は、色々な物を捨てる覚悟を持てない」
液晶に向き直ったジェンジの背を、ユカリは唇を血が滲む程に噛み締めて睨むが、相手の主張にある理を解するが故に、彼女の心は痛む。
感情論だけの依頼など、平時でも受けてくれるか微妙な話。そこに、命や社会的な居場所を喪失する危険性を上乗せされれば誰でも断る筈だ。
ここで尻尾を巻いて去る事が「真っ当な」行動だ。だが、その選択はヒビキを救う可能性を更に減じる。
指し手を探すユカリの脳裏に、昨夜の狂戦士とのやり取りが不意に掠めた。
「誰かに協力を要請する時、無数に対価はある。金でも物品でも良い。俺に持ちかけたように命でも、悪趣味な者には躰でも構わん。だが、対価の提示で必ず動くのかは断言が出来ん。俺の様な愚者であった場合、対価が問題でない可能性もあるからな」
「それなら、仮に明日会う人がヴェネーノさんみたいな人だった場合、どうすれば良いんですか? あなたが挙げた物以外で動かない人に、動いてもらうのは……」
「単純な事だ」
身体を血で汚したヴェネーノが何の予備動作もなく魔剣を掲げ、ユカリの胸に美しくも凶悪な切っ先を向ける。
予定調和の死がここで発生するのかと身を硬くする彼女に、淡々とした調子で言葉が投げられる。
「貴様の心の内を全て吐き出せ。万事良き方向に運ぶとは言わんが、対話の余地は生まれる筈だ」
「……ヴェネーノさんが言うと、説得力がありませんよ」
「心の在り様が力を引き出す、又は減退させる事は否定し難い事実だ。心に起因する力の揺れを失くす事は、古代より戦士の悲願とされているが、闘争への喜びを失くすことは未だ叶わん。我らが思う程、ヒトの精神は進歩していない」
物騒な例えだが、意図は伝わって来る。腹の底にある物全てを曝け出す、一般的に悪手として捉えられる手も、使ってみて損はないという事だろう。
「どうしても行き詰った時は俺を呼べ。『終焉を呼ぶ者』を始めとして、誰かが押し付けた肩書きは無数にある。相手もすぐに動くだろう」
「出来る限り、呼ばなくて済むようにします……」
引き始めていたユカリの足が回想の終了と同時に止まるが、すぐに再始動。
それも前方、即ちジェンジのいる方向に。
変な物を踏んで足に痺れが生まれても、音に気付いて振り返った部屋の主からの非難の眼差しを受けても、ユカリは止まらない。図らずも逃げ道を塞ぐ形で相手と正対し、深く頭を下げる。
「だから僕は」
「無理難題をだと分かっています。……でも、あなたが持っている物があればヒビキ君を救えるかもしれないんです!」
「……いやだから」
「お願いします!」
弾かれたようにジェンジが言葉を止め、自分が無駄に声を荒げたと気付いたユカリは、恥じ入るようにもう一度頭を下げる。目に灯す強い意思の光は保ったままで。
「申し訳ありません。……私にとって、ヒビキ君は大切な人なんです。あなたにだって、大切な人はいる筈です。その人が謂れなき罪を押し付けられたなら、救う為に何だってしますよね?」
「悪いけど血縁者は全員死んでる。それに友達は一人もいない」
「……え!?」
「傷つく反応をありがとう。まあだからそういう事で」
「そういう事で……終わる訳ないでしょう!」
精神論だけでは進展はないと判断し、ユカリは徐に首からネックレスを外し、ジェンジの鼻先に突きつける。
「このネックレスは、売ればそれなりの値が付く筈です。不足しているなら、後払いで何か持ってきます。……それでも足りないなら」
「ちょっと待った! もう沢山だ!」
元の世界の両親に対する罪悪感で、心を痛めながらも、平静を装って服に手をかけ、対価の上乗せを続けるユカリにジェンジが音を上げた。
ネックレスを押し返し、肩で息をするユカリに対し、しがない映像編集者の男は瞑目した後、躊躇いながら口を開く。
「君の意思は分かった。それ、大切な物なんだろ? 表情の変化で分かる。それを僕なんかに渡しちゃいけない」
「なら!」
「考えさせてくれ。僕にも時間が欲しい」
考える時間をくれ。
はぐらかす時に多用される文句だが、出せる物は全て出した上で、初めは拒否していた相手からこれを引き出せたのは、及第点の筈だ。
更に食い下がる手もあるが、それは砂川と変わらない乱暴な行為だと判断したユカリは、一旦退く結論を下す。
「明日また来ます」
「なるべく早く返事はする。あまり期待しないで欲しいけどね」
最後の言葉に黙礼で返し、ユカリはジェンジの部屋を辞し、宿泊場所と位置付けた所に向かうべく、マッセンネの街を往く。
――安心するのはまだ早い。説得の材料を考えないと。
次の手をどう打つべきか、思案しながら。
突然の来客が去り、元の静寂を取り戻した部屋の中で、ジェンジは天井に向けて溜息と共に声を放る。
「ああも直球に来られるとなぁ」
平静を装って対峙したが、感情を剥き出しにして迫る少女に、心を動かされなかったかと問われれば嘘になる。
自分は持てなかったが、少女の感情は理解出来る物で、行動を起こせたかは別として、そのような状況に直面すれば、救いたいと考えるのは妥当だ。
ここでまた、もう一人の自分とのやり取りが始まってしまうのだが。
のろのろと顔を上げて自分が録画した映像を再度確認。やはり手配書の少年とは別の、あの軍人が映る現実は変わらない。
少女は明日ここを再訪する、時間の浪費は互いにとって悪である故に、そこで決着を着けようと彼は考えていた。その為にも、何らかの結論を出す必要がある。
「とりあえず備えはしておこうか。考えすぎだとは思うけど……」
様々な可能性に備えて、記録媒体を耐酸性の強い特殊な粘土で包んで口に含み、水で体内に流し込む。たった今彼が流し込んだ代物こそが、高位軍人がバルトリオ・クェンティンを殺害した映像、即ち少女が望む鬼札だった。
猛烈な嘔吐感を鎮め、迷いを抱きながら別の仕事をこなす為、画面と対峙した彼にドアが開かれる音が届く。
「戻ってきたのか……。だから今日は」
振り向き、緩慢な動きでドアに向かったジェンジの全てが停止する。
鈍い衝撃、そして激痛。腹を刺されたと理解が及ぶと同時に、音もなく伸ばされた冷たい手に首を掴まれ、彼は侵入者と対面する。
「お前の持っている物を渡せ」
「……ごッ!」
映像に映っていた、そして先日接触したイタル・イサカワの、左手に握られた剣が引き抜かれ、傷口から勢い良く血が噴き上がり、胃の内容物がせり上がる。
異邦人来訪直後の、白昼堂々の侵入に加えて淀みない攻撃。この二点から推測するに、自分はどう返答しても殺される。
逃れられない絶望が、逆に彼の腹を括らせた。
薄気味悪い、誰もが嫌悪する類の笑顔で、ジェンジはイサカワの顔を見据える。
「君の言ってる事、全然分からないよ!」
「!」
激情に身を任せた少年が、何度も何度も剣を突き立てる。
剣の上下に呼応して血が噴き出して激痛が身体を駆け巡り、涙が両目から零れ堕ちても尚ジェンジは悲鳴を漏らさず、少年の命令に背き続ける。
だが、凡人がハンデ付きの我慢比べに勝てる筈も無く、彼の生命の灯は急速に弱まっていく。虫の息の彼を壁に押し付け、イサカワが淡々と告げる。
「もう一度言う、持っている物を寄越せ」
創作物でありがちな死に際の覚醒に依るものか、ジェンジは冷酷な声に隠れた、相手の感情の揺らぎを拾う。
冷酷な仮面の下にある稚拙で切実、そして年相応の感情に、ジェンジが抱いた恐れは消え去り、代わりに深い憐憫の情が襲う。
「君さ、こんなバカな事やめた方が良いよ。君の望みは、これじゃ叶えられない」
「何を……」
「詳しくは分からないけど、君があの子に特別な感情があるのは何となく分かった。だったら、あの子の大切なヒビキとやらに余計な事しない方が……」
「お前に何が分かる?」
押し殺した声に、極めて出来の悪い肩を竦める動作で返す。
「僕は駄目な奴だから理解止まりだけど、感情自体はよく分かるし、君は聡いから分かってる筈だ。……訳の分からない物に晒され、正しさを見失ったんだろ? 今の道を突き進めば、君はあの子に嫌われる事や答えを失う事を通り越して、どこにも戻れなくなるよ」
人生の中で希少な他人への説得で、少年の表情が大きく揺らぐ。単に説得の中身に対する物に留まらず、もっと奥にある何かも揺らいだとジェンジは理解し、それが何なのかについて疑問が浮かぶ。
しかし、回答は出される事はなく、元の色を取り戻した少年は再びジェンジの肉体に剣を突き刺し、返り血の飛散も厭わず拳での殴打も加える。
ボロ雑巾同然になりながらも、凡俗たる男は泣き言一つ発さずに、ただ只管に相手の目を真摯に見つめる。
一方的な蹂躙が暫し続いた後、激情の炎を両目に宿し、肩を大きく上下させた少年は血に塗れた剣を大きく振り被る。己に取り憑いた何かを振り払うように。
「今更お前に言われなくても分かっているんだよ、そんな事は!」
◆
一般的に竜討伐は対象が『
そんな一般常識をぶち壊す愚行が、熱砂の大平原で展開されていた。
「逃げ回るだけか!? ならさっさと死ねッ!」
凝集した砂を第三の腕に変え、熱砂の波濤を引き連れてラッバームは吼え、分かたれた二人は岩の陰で猛攻をやり過ごす。
日を跨いだ戦いは徐々に膠着が崩れ始め、勝敗の天秤は竜に傾いている。酷暑と負傷、恐怖で際限なく噴き出す汗を雑に拭い、ヒビキは戦いを回想して唇を噛む。
――砂の鎧をどうにかしないと、攻撃がロクに通らない。けど時間的猶予は少ない。……最悪だ。
「そこかァ!」
「――つッ!」
拳を象り放たれた一撃を、上に飛んで回避。蛇に似たラッバームの頭部がすかさず跳ね咬撃。寸での所で回避するが、歯が奏でる爆音でヒビキの肺腑が震撼。一時的に聴覚が消えた。
予想外の手段で感覚を潰され、集中が僅かに途切れた刹那。死角から伸びた砂の一撃を受け、肋骨を砕かれて地面に落ちる。
「があああああああああああッ!」
凛とした咆哮を伴侶に、ラッバームの後方から、先刻より身体が一回り肥大化したハンナが突進。理屈ではなく、肉体強化による強行突破を竜騎士は選択。
尾の形状を大きく変える、膨大な砂で形成された鎧を白銀の魔剣が打ち破り、実物の先端部に到達するも突進が急停止。氷の瞳が、止められた理由を落とし込むまで過程で驚愕から理解、畏怖と目まぐるしく変化する。
長き時を生きる竜の鱗は、一枚で生半可な武器を破壊する。肉食動物として破格の巨体を持つラッバームは、魔剣継承者ハンナの突進をも食い止めるのだ。
「うぜぇよカス共!」
吼え、
咄嗟に目を瞑り微細な砂の粒子に肌を切り裂かれながら、着地した二人の視界から、砂王竜が消えていた。
「何処に行っ……」
「来るぞ!」
叫び声に合わせて砲台形態のスピカを発砲し、反動で後退するヒビキの目に、砂の海が泡立つ光景が飛び込む。
逃走に移るが、作為的に流動する砂に足を掬われ動きがモタつく。そして、突如始まった地響きと、陽光の急激な減少を受け急遽側方に逃げる。
理解不能な速度で空に打ち上がったラッバームの巨体が、自然法則に従い落下してきたのだ。トンに乗る重量の激突で轟音と砂の波濤が発生し、貴重な植物やお溢れ狙いの小動物の生を奪い取る。
巻き上げられた砂で視覚を、震動と風圧で生じた脳震盪で機動力を潰されたヒビキに、砂王竜の左前肢が振られる。
スピカを構える時間はないが、受ければ地力の差で死ぬ。
詰みの状況下で、彼は引き攣った笑みを浮かべて僅かに、極々僅かに地を蹴った。
激突音を引き連れ、大気を裂いた砂王竜の左前肢は構造限界まで伸びる。
そして、竜腕に降り立ったヒビキはスピカを撃発させた。
放たれた蒼の異刃が、竜が無意識に発動させる対魔術結界を斬り抜け、分厚い鱗をも破壊して肉を捉える。
絶叫で巨体が捩られ、振り落とされそうになりながらも、敵の血を浴びて鬼の形相と化したヒビキは、骨を断つべく両腕に更なる力を籠める。
足掻く彼の視界の端、上空から白銀の殺意。
気付きに至った、砂王竜の黄金の瞳に驚愕と憤怒。
「しゃらくせぇ!」
「『
擡げられた口から放たれる砂の弾丸を断ち割って、背部の翼から炎と魔力を噴出させたハンナが急降下。魔剣継承者の剣技を恐れたのか、再び二肢で直立した砂王竜はヒビキを引き剥がし、更なる砂弾を放って竜騎士を撃墜にかかる。
猛烈な砂の雨に晒され、体勢を崩し失速するハンナに剣が並ぶ左前肢が迫る。死が確実に近付く状況下で、竜騎士は翼から炎を噴き出して強引に再加速。
一秒以下の短時間、両者が交錯。
乾いた音を曳きながら、幾本の剣が地面に突き刺さる様を、立ち上がったヒビキは目撃。次いで映る、隣に降り立ったハンナの姿に瞠目する。
「かすり傷だ、問題ない」
「問題ありまくりだろ」
フラスニールを持っていた右腕が、上腕部半ばの所で引き千切られて痛々しい姿を晒し、服の至る所が切り刻まれ、皮膚に微細な裂傷が無数に刻まれていた。
常人ならとっくに意識を手放す重傷を負いながらも、竜騎士は気丈にも左手一本で魔剣を構える。
狙いが逸れたが、ラッバームの左足は彼女の一撃で消失。荒れ狂う様を観察しながら、劣勢の二人は傷を塞ぎつつ言葉を交わす。
「お互いの傷を見る限り、アイツの吐く砂は普通じゃないな」
「体内で研磨して殺傷能力を高めているんだろう。想像以上の威力だ」
「アンタでそれなら、俺は直撃すりゃ死ぬ。ちんたらやってると不味いな」
「その通り……だ!」
破城槌の一撃を散開して躱す。砂塵が舞う中でヒビキは投擲からの高速移動で、ハンナは『
迎撃の杭を各自の手段で破壊して距離を詰め、竜の胴体に得物が食い込み火花と血飛沫が舞う中、密着される事を嫌った巨体が再び旋回。
瞬時に竜巻を生む速度で
視界が星で埋まる激烈な衝撃を全身に受け、呼吸が一瞬止まり、浮遊感が身体を支配する。
吹き飛びながら、追撃が来ないことにヒビキは疑問を抱き――
「ハンナッ!」
中途半端な度合いで開かれた砂王竜の頭部。徐々に閉じ行く空間に、ハンナが囚われていた。
両手両足を広げ、身体中の筋肉を総動員して、竜騎士は死を免れる為に足掻く。
「ウぅがあああああああああああああッ!」
纏う服の金属部が悲鳴を発して歪み、布の部分が弾け飛ぶ程に力を絞り出して抵抗するも、種族差は如何とも出来ず、大顎は閉ざされていく。
一度閉ざされると、ヒトの力では開けられない。加えて、砂王竜は何らかの魔術を紡ぎ始めており、抵抗し続けても魔術の直撃でハンナは死ぬ。
嘗て敵対したが今は味方。故に見捨てる道理は何処にもない。
地を蹴って彼我の間に存在する距離を踏破し、ヒビキは抜刀体勢に移行。即応した竜は膨大な魔力を活用して、砂の壁と弾丸、更に地面の高速流動を同時に発動。
動きを確実に潰す、的確な仕掛けを掻い潜って不安定な大地を踏みしめ、スピカを鞘走らせる。
「『
異刃から放出された魔力で生まれた鮫を象った水塊が突進するも、強力な魔力を受けて進路が逸れ、砂の障壁を破壊した水塊は明後日の方向に消える。
無防備なヒビキに向け、砂王竜の尾が鞭のように振るわれる。
鉄骨を粉砕する一撃に耐える頑強さを有しない彼は、敢えて迫る尻尾の方向に走る。只の自殺と形容可能な行為に、ある可能性を抱いて。
「――シッ!」
吐気を歯間から漏らしつつ撓めた両足を伸長させ跳躍。
下方を通過する尻尾上部に張り付き、砂王竜の背部を駆け、狙いを解した相手から『重業歪曲歌(カラビティルマ)』の波濤を受け、潰れた蛙に似た姿勢を晒す。
全身の軋みに対抗すべく、消耗を抑える為に解放を抑えていた『
歪んだ身体を内側から正常化させる力と魔術が相克し、先刻と方向性が異なる不快感と痛みに苦鳴を吐きながら、這い摺って砂王竜の背を進む。
――もう少し、もう少しだけ保ってくれ、ハンナ!
孔から噴出する砂を浴び、裂傷を増やしていくヒビキは狙いの場所に辿り着いて立ち上がり、柄を回転させてスピカを掲げる。
身体が崩壊しないだけ上等な現状では剣技の使用は困難。故にヒビキは、単純な方法を選択。
陽光を掴み、刀身と同色の光の尾を引き連れた異刃が、結界と鱗を纏めて貫く感覚が伝わると同時に、下方から暴力的な熱を感じ取る。
爆音が轟き、砂王竜の口内でハンナの吐き出す炎が炸裂。
体内に炎が届いたラッバームは、無意識に口の拘束を緩めハンナの脱出を許す。
背部まで届く紅蓮色の遮幕に身体を舐め取られ、熱風に煽られながらもスピカの柄を握り、辛うじて落下を逃れたヒビキは相方が脱出を果たした上、狙いが当たった事に内心で拳を握る。
ドラケルンと竜。血と力を微量だが共有する両者は、互いの防御をある程度無視して攻撃が届く。故に体内器官に直結する場所に仕掛ければ、活路はある。
――フラスニールを渡された時、唯一ヴェネーノから教わった事だ。
鍛錬後の雑談で、昨晩ハンナが自嘲的に語った言葉が、彼女が捉えられた瞬間、記憶から浮上した故の行動は一先ず成功を見た。
至近距離で喉を焼かれたラッバームが、爛れた咆哮を連れ砂中に逃げる。
終わらせる為ヒビキは背に留まり、突き刺さったスピカを何度も往復させるが、仕留められないと判断したハンナの呼びかけに舌打ちを返す。
蒼の異刃を引き抜いて背から飛び降り、顔面から熱砂に落ちる。
顔に火傷を負い、傷口が焼ける激痛が走るが、意地で悲鳴を堪え立ち上がった彼は、背後からの竜騎士の視線を笑って受ける。
「救援感謝する」
「こっちこそ、勝手な行動から組み立てを理解してくれてありがとうな」
「元は私が語った話だ。理解出来なければ愚者だ。……しかし」
氷の瞳は不自然な静寂が訪れた砂の海に向けられ、ヒビキも彼女に倣いスピカを構えて周囲の警戒に集中する。
逃げる直前しか視えなかったが、頭部を炎に包まれ、短時間ながら体内も焼かれれば、竜と言えど命の保証は無い。だが砂王竜の異名を持ち、砂漠を自在に操る芸当を披露する竜を、亡骸無しに死んだと判断するのは楽観的に過ぎる。
警戒を続ける二人の、停滞しながらも張り詰めた時間は、再び引き起こされた砂の揺らぎと怒声で破壊される。
「俺様の顔に傷を付けてくれたなァア、オイ!」
近頃、精神のタガが外れつつあると自覚するヒビキも、砂王竜の声に細胞単位で恐怖を感じ、少しでも緊張を緩めれば意識を奪われる確信を抱くが、強気を保ち一歩前に踏み出す。
静止を促すハンナに苦笑を返しつつ、スピカを下段に構え、ヒビキは努めて嘲りを混入させた声を投げる。
「選ばれなかった残りカスに、ゴミ呼ばわりされる謂れはねぇよ。テメエも、所詮俺達に倒される踏み台だ」
「言ってくれるなァ! お前らは特別に、俺の究極奥義でぶっ殺す!」
「俺がどう喋っても、奥義とやらを撃つつもりだっただろ?」
「その通りィッ! 死ねよ、『
初耳の、魔術名と思しき絶叫が砂漠の隅まで響き渡るも、後が続かず静寂が回帰した事実に、二人は互いの顔を見合わせる。
謎解きが成された数秒後、疑問は驚愕に転じた。
「いいいいいいいヤッホゥッッッ!」
「――なっ!?」
爆発音と、狂気と狂喜に委ねた咆哮の発信源に視線を向けた、二人の表情が眼前の光景の異様さに凍りつく。
砂王竜は空中にいた。唐突に生まれた竜巻に身体を預けて。
注意深く観察すると、竜の身体に刻まれた孔から大量の砂が噴き出し、それを魔力で繰って竜巻の形状を持たせ滞空を行っていると気付け、今までの曲芸からすればまだ常識的な攻撃と言える、かもしれない。
だが、二十メクトル超の巨竜、しかも翼が退化した個体が宙を舞う光景の持つ、暴力的な圧力は、脆弱なヒト属の思考を致命的な停止状態に陥れた。
竜巻は瞬く間に天災級の勢力を持つに至り、遥か遠くに見えていたサボテンや岩石が、
二人の全身が総毛立ち、武器を地面に突き刺して抗うが、砂の大地では効果が薄い。じわじわと竜巻との距離が縮まる。
「アンタは飛んで逃げられたろ!?」
「砂の特性を考えると、飛んでも落とされる! それに、君を見捨てて逃げられる筈がないだろう!」
「あぁそうか……よッ!」
マトモな人間性に起因する反論を受け、ヒビキは撤退を促す事を諦め、スピカの柄を握った状態で砂を蹴り回転。空中のラッバームと相対する姿勢を執った。
抵抗しても距離が縮まる状況の下、死に接近する選択を受け驚愕するハンナを見てヒビキは嗤う。
「このままじゃ死ぬだけだろ? こっちから仕掛けるしかない」
「正気か!?」
「前に言ったろ。「俺が欲しいのは勝利だ」ってな。そういう意味じゃ、俺はまだ正気だ」
氷の瞳で真円を描き、砂の飛来を忘れたように何度か口の無意味な開閉を行ったハンナだったが、不意に身体を反転させてヒビキの隣に並び、フラスニールを引き抜いて構える。
目配せを飛ばす人形に、竜騎士は誇り高き微笑を浮かべる。
「私も、君の決断に乗らせて貰おう」
「良いのか? 俺とアンタじゃ、失う物が違い過ぎるぞ」
「私も言った筈だ、「君の望みを果たす為、力を貸す」と」
「そりゃどうも。……後悔すんなよッ!」
「こちらの台詞だ!」
得物を構え、引力に乗って二人は疾駆。
ヒビキは左眼に、ハンナは魔剣に光を宿して、砂王竜の読みを上回る速度で彼我の間に横たわる距離を踏破していく。
「進化の破片が俺に敵うと思うな!」
怒声に呼応して砂漠が泡立ち、砂が小型の竜と防壁を形成。
産声を上げて迫る竜を斬り捨て、時には喰らいつかれて身体を削られながらも、突進を続けて接近する二人に、砂王竜は苛立ちも露わに鋼糸で再構成した脚で地面を強かに殴り付ける。
震動で生まれた砂の津波は、意思を持つ生物の如き正確な動きで二人の視界を覆い隠して迫る。ラッバームが繰り広げる超常現象全てが、『砂ノ惑星』なる魔術の力とすれば、竜の魔力と魔術の効果範囲は天井知らず。
内心で舌を巻くヒビキは、しかし疾走を止めずに『
「『
絶叫、そして物体が放つ力が相克する音が世界を叩く。発動の形を変えて一本だけ放たれた水の大槍は、砂の津波のある一点に風穴を開き、塞がれる前に二人が駆け抜ける。
遮る物が消えて視界は開けた。そして、最大の問題が両者の眼前に最悪の形で立ち塞がる。
ラッバームが纏う竜巻が生物の首の如く器用に湾曲し、巨体は二人に向けて急降下し、古の武器を模した砂塊が追従。
ハンナが再び炎を噴き出し、ヒビキも砲台形態のスピカから蒼の弾丸を射出するが、竜は攻撃を空中で螺旋を描いて回避。
逃げ場を喪失した二人は一瞬視線を交差させ、得物を各自最も力を引き出せる形に構え、砂王竜を見据える。
砂王竜の黄金の瞳には嘲りと、疑問が等分に表出していた。
――まぁ、そりゃそうだよな。……俺も不思議だよ。
無謀過ぎる賭けを打った事に、人形の少年は自嘲気味に嗤う。
二人は引き寄せる風の勢いを転化して加速。前者は跳躍から身体を捻り上げ、後者は竜を模した鉄塊を展開して突撃する。
「『
「『
三種の力が激突。魔力の津波によって巻き上げられた厖大な砂が世界を覆い、当事者達の姿を世界から切り離した。
◆
「ヴェネーノさん! ……何をしているんですか?」
「首尾はどうだ」
「検討させてくれ、だそうです」
「気の長い話だ。毎日足を運んで圧力をかけろ」
宿泊場所としたフラガ通りのビルの一室。
戻ってきたユカリに短く言い捨てたヴェネーノは、机に置かれた紙束に視線を戻す。しかし、何らかの思考の後、再びユカリに向き直って疑問に応える。
「対竜戦闘術指南書の原稿だ」
簡潔な答に首を捻るユカリだったが、すぐにヒビキやフリーダが回し読みしている書物に、ヴェネーノが発した名があったと思い出す。該当する書物は六百頁(ページ)程で。
一冊四万スペリアとかなり高額だが、既に二冊刊行されており、その筋には評価が高い代物らしい。
だが、あの本の著者はカーティス・オロフソンなる人物だったと、ユカリが伝えると狂戦士が「簡単な話だ」と返す。
「奴は旧い知り合いだ。『竜の脅威を減らしたい』奴の望みと、個々の力量向上による、好敵手の増加という俺の望みが合致した。諍いと目的不達を避ける為、奴の単独名義だが俺にも印税が少額入る。貴様の疑問の一つであろう、俺が通貨を携行可能な理由はこれだ」
「なるほど。……手の内を明かすのは、ヴェネーノさんの不利益になりませんか?」
「模倣で成せるのはあくまで基礎の体得だ。それだけで俺は倒せん」
圧倒的な力量に基づく傲慢かつ、力強い言葉を吐いた狂戦士は再び作業に没頭する。一定の時間が経過した後、今度はユカリに対して問いを投げてくる。
「仮に、ジェンジとやらの持つ映像を手に入れたとして、どうするつもりだ?」
「ヒルベリアに戻って、ライラちゃんに複製を依頼します」
「ほぉ」
内心を見透かすような光を放つ、鋼の瞳に少し気圧されつつも、ユカリは言葉を継いでいく。
「私に何か起きても、大元を破壊されても、目的は達成しなければならない。その為には複製を増やし、相手が潰しきれない量にすることが必要です」
「真贋どちらであろうと、相手は捏造と主張する。だが大衆はヒルベリアの者よりも、権力側の人物を悪とする筋書きを、抱える悪意を忌憚なく放てるとして拡散する。一定以上拡散されてしまえば、国もあの男を切り捨てねばならん。そして世論と国はヒビキへの興味を失う。悪くない筋書きだ」
「放送に持ち込む繋がりを確保しないと駄目ですけれどね。そこはもう少し検討していきます」
――その前に、ちゃんとデータを手に入れないとね。
大前提を思い返し、明日以降どう相手を説得するのか。ユカリは考えを巡らせる。
ジェンジ・エスパロガロの主張は、彼の立場から見て正しい物ばかりで、大義名分だけで覆す事は難しい。おまけに、最も大切な部分は既に吐き出してしまった。
それ以上の材料が絶対に必要だが、それは一体なんなのか。
「小娘、貴様の服に付いているそれは一体何だ」
「……え?」
「背中だ。上着を脱げ」
奇妙な指摘に、ユカリの思考が中断する。
慌てて上着を脱ぎ、ヴェネーノに指摘された箇所に目をやると、革のコートの背部に、注視してやっと視認可能な小さい桃色の斑点が付着していた。単なる汚れと流しても良いが、こんな色が付着する物体と接触する機会はなかった。
困惑するユカリを他所に、狂戦士の鋼の瞳に鋭い光が宿る。音もなく立ち上がったかと思うと、彼女の襟首を掴んでビルの窓から飛び出した。
「奴の住居は何処だ?」
「マッセンネ五番通り一一七です。でも一体何が――」
「急ぐぞ」
会話を打ち切って飛翔体は加速し、二人は短時間で目的地に辿り着く。乱暴な空の旅で感覚が狂って足取りがフラつくユカリを小突き、ヴェネーノは彼女の前を歩む。
「心してかかれ」
狂戦士の短い言葉で背に悪寒が走り、急激に感覚を引き戻されたユカリは、彼女自身も気付かぬまま疾走を開始。
先行するヴェネーノを抜き去り、昼間訪ねた部屋のドアノブに手をかける。
施錠されていれば伝わってくる筈の反発が無く、ドアノブが回る軽い感触に、ユカリの身体が震える。
この先に、見てはならない最悪の絵があるのでは?
推測を振り切るように、ユカリは荒々しくドアを開け放って中に踏み込んだ。
最初に感じ取ったのは、熱風と何かが弾ける短い音。
そして、噎せ返る程の臭気だった。
「……ジェンジ、さん?」
震える声で名を呼ぶが返答は無い。
更に一歩踏み出した彼女は、靴の裏から届いた、何かを砕く乾いた音に反応して視線を下方に移し、赤い絨毯の広がりに気付く。
最悪の答に向かう一本道が敷かれていると気付きながら、ありもしない希望を求めてユカリは歩む。
昼間訪れた部屋に辿り着き、回答を目にした彼女の呼吸が途絶。
部屋に置かれた機械が無残に破壊され、時折何かが弾ける短音を発し、疑問の回答を見せている事に、彼女は気付かなかった。
窓の無い壁に、男の死体が一つ張り付いていた。
胸部と腹部で鈍く光る金属の杭が身体を縫い止め、死体が崩れ落ちる事を食い止めていた。出血が止まり乾き始めた傷口が、男の生命の終焉を目撃者に朗々と告げる。
無意味な口の開閉を行っている内に膝が曲がり、血だまりに崩れ落ちて死体を拝む形となった、ユカリの視線は必然的に頭部に届く。
苦痛に歪み、見開かれた目の近辺に涙の痕跡が残る、生気が消失した男の顔は、彼女が昼間交渉したジェンジ・エスパロガロに間違いない。
不格好な音が喉から零れ、ユカリは自分自身の身体を抱くように両腕を回し、無意識の内に爪を皮膚に食い込ませる。痛みを感じていないと、正気を保てそうになかった。
斑点の意味は、今ここでようやく理解出来た。
砂川の取り巻きの誰かが、マッセンネに向かう最中の自分に付着させたのだ。それによって、行動は相手に筒抜けで、目的地近辺での小細工は無駄だった。
更に今日行動を起こす事も、相手に見抜かれていた事になる。
いつ、何処で、誰に? いや、そんな下らない話ではない。
もっと早く気付いていれば。
この町には敵しかいない事実を、もっと重く受け止めていれば。これは起こる筈が無かった。
砂川当人以外への警戒が甘かった事で、罪のない者を死に至らしめた己の底無しの愚かさと、関連人物と言えど、ここまで軽く他人を殺せる級友に対する怒りが綯い交ぜになり、彼女の心の制御が破壊された。
「くそがああああああああああああああ」
生まれて初めての、純粋な憎悪と怒りに起因する咆哮が、ユカリの口から吐き出された。
◆
万物に永遠などない。
当然の節理通り、タドハクス砂漠全域に濛々と広がっていた砂煙はやがて晴れる。砂煙の発信源だった場所に屹立する巨大な影と、転がる二つの点。
「進化の破片がやってくれるじゃねぇか……」
体を覆っていた堅牢な砂の装甲が殆ど砕け散り、本来の鱗が露になった「砂王竜」ラッバームは、九の怒りと一の驚愕で構成された台詞を吐き、弱々しく立ち上がった二つの点を睨む。
「喜べ、俺達ホメられたぞ」
「……それどころではないだろう」
竜に対峙した愚者二人、即ちヒビキとハンナの状況は悲惨極まりなかった。
前者は右耳が吹き飛び、砂塊が貫通したと思しき大穴を右太腿に穿たれて黒と赤を垂れ流している。後者は竜の爪が直撃したのか、巨大な裂傷が腹部に刻まれ、脚の強打を受けたせいで呼吸の度に口と鼻から出血。両者共通の負傷として、全身に無数の細かい裂傷が刻まれ、血の川を身体に描いていた。
相手も負傷しているが、地力に天と地の差がある現実を見れば、必敗の状況下にあると嫌でも理解できる。『
「死にたくないなら、やるしかねぇな」
「ラッバームの再生も、この戦いの間には完了しない筈。……倒すなら今しかない」
「良いのか? 俺が言えた事じゃないが、下手すりゃ勝敗関係なく死ぬぞ?」
「有利だから攻め、不利だから逃げる。これは軍人の理屈だ。……精神性の話で申し訳ないが、今の私は一介のドラケルンの戦士だ」
裂傷を『
巨体故か強大な力故か、動きは先刻同様活力に溢れているが、孔から砂の噴出が停止している。事実と高慢な気性を利用すれば、勝機は僅かにある、かもしれない。
「トドメは譲らなくて良いか?」
「譲り合う余裕はない。……だが、私が貰う」
純粋な虚勢を吐いて二人は突進。変わらぬ恐ろしさを内包する咆哮が響き渡らせるラッバームの選択は、意外にも二肢直立から繋ぐ叩きつけだった。
強烈な激震と砂の波濤を齎すが、隙が大きく何度も見ている為に回避可能は容易。
これまで高速の旋回や砂の放射といった、合理的な選択を常に下していた竜の選択。小さな変化だが、決して軽んじてはならない。
知能の高い竜が、ヒト如きが気付く穴に気付かぬ筈がない。では何故か? 丸太のような足の連撃を躱しながら思考する。
――俺達の攻撃は効いていて、相手は確実に消耗している! 魔術も砂も、乱発はもう不可能だ!
微かな希望を胸に、振り下ろされた足をスピカでいなしたヒビキは加速。ハンナが格闘している、急拵えの左前肢に向かう。
回避不可能なら潰せばいいとばかりに、砂王竜の身体が急速落下。もう何度目かの即席地震が生じるが、手応えが無いのか黄金の瞳には戸惑いの色。
「殺ァッ!」
跳躍から横転し、相手の射程距離から脱出したヒビキの足が強引に停止。
身体が激しく振られる勢いを活用し、弓矢の速力で低位置を疾駆。意図を解して魔剣を構えたハンナに合わせる形でスピカを振り抜く。
交差するように振るわれた、白銀の魔剣と蒼の異刃が一点に命中。
二つの刃が左前肢を駆け抜け、夜の空に無骨な金属塊と紅が舞う中、敵の姿勢の乱れを捉え追撃に動いた二人に猛烈な呼気と臭気が迫る。
失われた部位から血を垂れ流しながら、竜の口から赤の奔流が放出された。
ハンナが放ったそれを何もかも上回る炎が、二人を襲う。
砂を瞬時に炭の色に変え、陽炎を更に強める暴力的な熱を受け目が眩んだヒト族に、断頭の刃が迫る中、咆哮と金属音が耳に届く。竜騎士が咄嗟に伸ばしたフラスニールの刃が竜の咬撃を受け止めたのだ。
しかし、この体勢を続けていてはハンナと言えど死ぬ。彼女は傷が開く事を無視して体勢を変え、刀身から火花を散らしながら竜の頭をいなす。
生物の頭部は当然剣より可動域は広い。角度を変え再び口を開いてハンナの解体を試みる砂王竜の瞳に水塊が弾ける。僅かな時間、衝撃で視力が失われ攻撃が停止。
たたらを踏みながら、残った瞳で竜が捉えたのは、再び異刃に転じた得物で仕掛けに移るヒビキの姿。
「ウゼぇんだよガラクタ!」
竜が片側の孔から砂の激流を放出するも、先刻と比して量も速度も劣る。勝機と見たヒビキは全速力で砂の川を疾り、敵の右脚を蹴って飛翔し背部に降り立つ。
下から聞こえる金属音のお陰か、『重業歪曲歌』が発動していない今、容易く目的地に辿り着いた彼は、先刻付けた傷にスピカをもう一度――
「待ってたぜぇ!」
「!」
傷口からヒトの身の丈を優に超える岩石が射出。
それは回避の暇を与えず、物体が砕ける鈍い音を引き連れて、ヒビキを空の彼方へ追放する。
地上に堕ちるスピカを左手に握り、即席の二刀流で攻撃を仕掛けるハンナも、一対一で相手と戦う余力はなく、一撃で武器をヒビキ同様の運命を辿らされた後、砂王竜の踏みつけで動きを封じられる。
「散々侮辱してくれたなぁオイ。お前は徹底的に解体して殺す! ……何だそのクソみたいな顔は?」
至近距離で竜の声を浴び、本能に刻まれた恐れで涙を流しながらも、ハンナの表情には希望の色。
不快感も露わに、ラッバームが足に力を籠めた事で肋骨が砕け、身体を無様に痙攣させても尚、彼女の表情は変わらない。寧ろ、勝利への確信を強めている。
「私が何故、武器を空中に投げたのか分からないか?」
「あぁ? 意味があったとして、無駄って分かり切ってるだろ」
「無駄ではない。……貴方を打倒する只一点に於いて!」
「!」
背に追放した筈の存在が立っている。
認識の外にあった行動だが、相手の行動をきちんと見れば、彼にその方法があると理解出来ていた。
狼狽を露わに、ラッバームは背の存在を撃ち落とす魔術を紡ぐ。しかし、下方から伸びる炎にも意識を割かれた為に、彼女が立ち上がる事を許す。
砂の補給と魔術の同時展開を、強靭な肉体と膨大な魔力で成していた竜も、先刻の激突が機能不全を引き起こし、加えて腹部装甲は砕け散っている故にそれが不可能な状態に陥っていた。
葛藤の末、堅牢な構造の頭部装甲に縋って、先にハンナを潰す方向に舵を切った砂王竜の頭部で、ヒビキは既に準備を整えていた。
鼻はあらぬ方向に曲がり、額は割れ、骨が至る所から皮膚を突き破って飛び出している。
一撃を放てば力尽き、不発に終われば二人纏めて死に直行の状況。
――けどまぁ、アンタのお陰で何とかなりそうだ。
気力だけで足を押し返し、ラッバームの注意を引きつけ続けるハンナに謝意を送り、ヒビキが絶叫。
「『
残存する力を搔き集めてスピカを抜き放ち、蒼の奔流が竜の首を疾る。
異刃から放たれた蒼の衝撃波が竜の三肢と全身を解体し、ハンナを解放して吹き飛ばす。竜が陽光を遮っていた大地が、放出された魔力を受けて湖に転生を遂げる。
持ち主の前方を横断する形で描かれた異刃の軌跡は、竜の巨体を通り抜けて、砂の大地に川を新たに書き加えた。
使い果たしたヒビキが背に倒れ込むと同時に、怨嗟の声が届く。
「この俺が、出来損ないの同胞と、死ぬ為だけに存在するハズレに負ける? そ、んな、そんな馬鹿なことが、あって……」
哀切な感情を内包した声は途中で途切れ、竜の体が砂に深く沈み込む。
スピカが駆け抜けた箇所から、赤い血が滝のように流れ落ちる様を、ほんの少し捉えた黄金の瞳から生気が喪失。
砂王竜ラッバームの最期は、あまりにも呆気ない物だった。
そして、砂漠に沈黙が降りる。
「皮膚や肉は繋がっている? ヒビキ、君は一体どれだけの速さで……」
戻ってきたハンナの驚愕の声に、応じる余裕は無い。
力を使い果たしたヒビキの視界は、容赦ない黒の侵攻を受け、身体も脱力しようとしていた。
――出来損ないの同胞はハンナだ。じゃあ死ぬ為だけに存在するってのは俺か。一体、どういう意味だ?
体力の限界が訪れ、スピカが手から滑り落ちる。
竜騎士が慌てて背に登ってくる気配が伝わる中、意識を手放す瞬間まで、彼の中にその疑問が巡り続けていた。
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