13

 アークス最大の医療施設、統一医療センターの地下。

 本来静謐で満たされているべき空間が、今日は金髪の雷狼が放つ咆哮で乱れ続けていた。

「止まってください! あそこまで損壊した遺体に手を加えると……」

「抜かせ! オズは死んじゃいない! だったらお前等の領分だろうが!」

「心臓が完全に破壊されているのですよ!? 貴方ならそれがどのような意味を持つのか、分かる筈です!」

「屁理屈捏ねてんじゃねぇ!」

 八人の警護スタッフに抑え込まれながらも、クレイトン・ヒンチクリフは吼え、藻掻き続ける。

 日を跨ぐ頃まで同僚が戻らず、懸念と不安を抱いた彼が探しに行こうと家を出た時、ルチアから通信を受けた。


「オズが何者かと交戦した末、死んだ」と。


 すぐさまこの場所に向かったクレイだったが、検死があると行く手を阻まれ、混乱したまま朝を迎えた。

 そしてつい五分前、変わり果てた姿の友人と対面し、彼のタガは外れた。

 頭が冷えなければ忠告を受け入れないだろうが、四天王を制圧出来る存在など病院にいる筈もなく、彼が暴発すれば八人全員墓の下だ。

 職員に焦りが見え始めた頃、地上とこの空間を繋ぐ扉が音もなく開かれ、清潔な床が杖で叩かれる音が響く。

「部下が粗相をしているようだね。……すまない」

 倦みに侵されているものの、最後の一線を辛うじて守っている声。

 スズハ・カザギリの姿がそこにあった。

「スズさ――」

「しばらく寝ていろ」

 鈍い衝撃が腹部を襲う。

 何をされたのか理解出来ぬまま、クレイの視界は黒に引き摺り込まれた。

「……」

 目が覚めてすぐ、自分が医療センターから引き剥がされたと気付く。

 何処に目を遣っても突き当たる、インファリス大陸に無い様式の調度品で満たされ部屋を、彼はよく知っていた。

「起きたか」

 部屋の主、スズハ・カザギリが静かに立っていた。

 五本のカタナや戦闘衣装を解除し、何の力も持たない浴衣を纏った姿の女傑は、クレイの傍らに座して呟く。

「手荒な真似をしてすまない。……眠っている間に、ルチアには話した。オズは死んだ、これは不変の」

 撃ち出されたクレイの両手が、スズハの襟首を掴む。

 絶望の戦場を駆け数多の大敵を屠った猛者の、あまりの軽さに驚きはしたが、今のクレイはそんな物で止まれる冷静さは無かった。

「アンタが四天王に誘った。道を示した。なのに、なんで冷静でいられる!? アンタ悔しくないのかッ!? 憎くないのかッ!? ……どうして、簡単に死を受け入れるッ!?」

 感情の奔流を、スズハは俯いたまま受け止める。少しでも波紋が生まれていれば、彼の溜飲は下がっていただろうが現実は違う。

 何の正当性も無い激情を更にぶつけようとした瞬間、クレイの視界が回る。

 投げられたと彼が気付いたのは、床に落ち涙を溢すスズハの顔を見た時だった。

「……受け入れられる、筈が無いだろう!」

 嗚咽混じりの叫びが、部屋を震わせた。

 世界は彼女を絶対勝者と呼んだ。

 無慈悲に生命を蹂躙する怪物とも呼んだ。

 何が起ころうと殺戮に励む、闘争に魂を売った下女とも呼んだ。

 ならば、何故彼女は泣いているのか。心を持たぬ怪物が敗者を想い泣くのか。戦いに全てを捧げた者が立ち止まるのか。答えは全て否だ。


 スズハ・カザギリも、どうしようもない程に一人のヒトなのだ。


「彼には他の道もあった。……彼の可能性に希望を抱き、この道に連れて行った。触れてはならない物に手を伸ばしていたと、私は知っていた。四人で歩む道の崩壊を恐れ、何も出来なかった。……教えてくれ、私は、どうすれば償える」

 答えなき問いを受け、只々スズハの慟哭が収まる事を待つ以外、クレイに出来る事はなかった。


                 ◆            


 雨が止むように、スズハの感情の奔流もやがて鎮まる。

 赤くなった、まだ濡れた眼を拭って居住まいを正した女傑は、改めてクレイと相対する。落ち着かない物を感じながら、クレイは問うた。

「……アンタは『統治者』って単語を知っているか?」

「大昔に一度だけある。文字通り世界を管理し、導く者と聞いた」

「この惑星をか?」

「……全ての世界、即ちここではない何処かをも掌中に収める力を持つ。私が知る情報はここまでだ」

「オズはこの国で『統治者』が生み出されようとしていると言った。そんな大それた存在がヒトの手で、しかも技術力で頂点に立っていないアークスに出来るのか?」

 科学技術で確実に上回っているロザリスですら、生体に影響を及ぼさない義肢の量産がやっと。態々公表する筈も無いだろうが、人造生命の開発など噂ですらない。アークスには実現不可能の筈だ。

 五年前の時点で自律行動が可能な代物を作り出していた、あの映像が楽観論を砕き、クレイに止まぬ不安を齎し続けているのだが。

 問いに対する答えは、スズハも持ち合わせていない様子で、沈黙が部屋に降りる。行き詰まり、厭な空気が忍び寄る部屋の中心。不意に、スズハの黒瞳が動く。

「クレイ、オズが持っていた資料は何処にある?」

「詳細は戻ってから話す、だったからな。俺は何も持っていない」

 損傷の激しい遺体と共に残されていたのは、主を失った『不定剣オルケスタ』と、予備の短刀が数本。資料と言えそうな物は何もなく、念の為に検査が為されたオルケスタにも仕掛けは無かった。

 彼の持っていた資料は敵に持ち去られた。

 妥当な着地点はこうだが、スズハにすら開示を躊躇うまで警戒していた彼が、そう易々と奪取を許すとも考え難い。

 誇りと共に戦い、全てを立てるべく藻掻く。

 スズハの精神を最も色濃く受け継いだ男なら、何をするだろうか。

「そう言えば、殺害現場に『転瞬位トラノペイン』の発動痕跡があった。ヒトの移動が困難な展開規模だ」

 単独で現場検証を終えていた女傑の投げた言葉は、まさしく正解を提示した。心身共に限界が近い状態で、最善の行動を執っていた長の意思の強さに改めて敬意を、乱れているだけだった自分に羞恥を抱きながら、クレイは立ち上がる。

「託しても良いと判断しそうな場所全てを洗い出す。資料を見つけ出して、アイツの道を辿って、真相を暴く。今の俺に出来る事はそれだけだ」

「そうだな。クレイ、この事を他人に話したか?」

「昨日の今日だ。アンタ以外には誰も」

「そうか……このことは、もう少し二人だけで伏せておこう」

 高潔な精神を持つ女傑らしからぬ提案に、目を丸くして動きが止まる。彼の反応をどう見たのか、スズハは取り成すような微笑を浮かべて傍らのカタナを撫でる。

「確証がない段階で周囲を巻き込みたくない。……分かってくれ」

 人道的な理由をスズハは提示した。

 それが嘘だと、未だ心が乱れていると自覚のあるクレイにも、すぐに読み取れた。二人だけで伏せておくとは即ち、ルチアやサイモンにすら隠すという事。言うまでも無く、許されざる背信行為だ。

 高潔な精神を持つ彼女が、提示した理由を正確には読み取れない。だが、オズワルドもそうしていたように、これは大っぴらに出来るような話ではない。

 真実であると裏が取れた段階で協力を仰ぐ方が、真相に近付けるという見方も決して不可能ではなく、その方が犠牲が少なく済む確信はクレイにもある。

「……分かった。まずは俺達で行ける所まで行く、その先は辿り着いてから考えれば良い」

「ありがとう。オズの仇を討つ。そして、彼が求めていた何かを必ず見つけ出そう」

 固く手を握り合い、二人の戦いが始動した。


                  ◆ 


 決意と共に動き出して、しかし成果を出せぬまま二年の時が流れた。

 持てる力を捜索に振り向ける事は立場が許さず、許された時間で行う捜索に於いても進捗は悪い。

 行動が結実しない苛立ちに身を焼かれ続ける男と、彼の同僚は今日も立場が求める物を果たすべく、戦場となるラティノック平原に降り立った。

「本作戦はブレア・アスタウトの殺害によって完了する。その為には手段も、どのような犠牲も厭わん!」

 喧しく喚き立てる連隊長、ヤニック・ゴルドマン中佐の話も上の空。既に捜索を終えた場所に見落としは無いか。無いのならば、可能性がありそうな場所は何処か。どうやって理屈を付けてそこに向かうか。

「……クレイ、話を聞いておかないと」

 ルチアの指摘もロクに耳に入らぬまま、模索するクレイ。


 彼の視界に、突如星が飛んだ。


「上官の話も聞けぬか、下賤な『捨て子ストリート』が!」

 場に意識が回帰したクレイは痛む頬を拭って相手を睨むが、その先は踏み込めない。国王直属の四天王も、所属は一応アークス国軍であり、書類上の階級は少佐とされている。

 規律を維持する為に、組織立てて行動する際には階級に従う事が求められる。抗弁や暴力の返礼は、許される筈も無い。

 無いのだが、この日の彼は虫の居所が非常に悪かった。

「ブレア・アスタウトは砲術を核に扱う。こんな集団でかかる方がどうかしてるんじゃねぇか?」

「……何?」

「一度ぶつかった時、奴は『剛錬鍛弾ティー・ツァエル』を始めとした、集団を薙ぎ払う魔術を多用していた。お前がこの作戦を発案したのは知っているが、見通しが――」

「ならば、その時に殺しておけ!」

 再び拳が飛び、クレイは硬い地面と友好を深める羽目になった。

「本作戦の指揮官は私であり、貴様等とてその指揮下だ。通り魔に不覚を取る間抜けの同僚でも、その程度理解しろ!」

「――ッ!」

「抑えろ。ここは議場ではない、戦場だ」

 最大級の侮蔑を受け、踏み込もうとしたクレイの前に杖が差し出される。やはり死人寄りの色を浮かべたスズハに宿る激情を読み取り、不承不承ながら退いた彼にゴルドマン中佐は唾を吐いて先頭に戻る。

「ブレアとの交戦経験を持つのは、君とオズだけ。正確な記録も無い以上、上層部の考えも汲んでやれ。……これを早く片付ければ、また捜索に戻れる。今は目の前の任務だけを見ろ」

 彼にだけ聞こえる声量で放たれた後半の指摘に、ハッとする。

 下らないプライドを振りかざしている内にも、時間は無情に流れる。資料がどのような形態なのか定かではないが、時間経過による劣化、消失の危険は常に頭に置いておくべきだ。

 四天王の利点を活かして動いているのならば、立場が生み出す義務も果たせ。敵は嘗てのアークス国軍所属の強者、舐めてかかれば死ぬ。

 当たり前の理屈で迷いを消し、クレイは動き出した隊列に身を隠した。

 作戦の目的は堕ちたアークス国軍特殊攻撃部隊長、ブレア・アスタウトの殺害。

 六年前にアークスを去った男は『火竜砲ソルデス』を軸に、アークス各所に出没して無差別破壊を繰り広げるロクデナシだが、その技量は折り紙付き。最新式軍用大砲に匹敵する射程と威力を持つ攻撃の連打は、四天王とて決して侮れる物ではない。

 集団で挑むなど愚の骨頂。腹の底で抱えていたクレイの予想は、見事なまでに的中した。

「『剛鉄盾メルード』を使え! 死んでも途切れさせるな!」

 轟音に掻き消されぬよう、喉が潰れんばかりに叫ぶ内にも、不可視距離から飛来する砲撃で一人、また一人と死んでいく。四天王の三人は可能な限り撃墜するが、如何せん手数が違い過ぎる。

「持ち場を放棄するか! いい身分だな!」

 ルチアと目配せを交わし、ブレア当人を叩くべく踏み出したところで、分からず屋の罵声が飛ぶ。お偉方全員と括るつもりは断じてないが、ゴルドマンは特大のハズレだ。数の論理が通じるのは、真っ当な世界に身を置いている者に限定される。

 ブレア・アスタウトは理屈を超越した存在ではない。それでも、相手の手札が判明して相性が見えた段階で集団戦を諦め、捨て石も兼ねて四天王個人をぶつけるべきだ。

 常道と言える手を面子優先で放棄する指揮官をどうすべきか。咄嗟に動いたクレイの目を見て「処置無し」とばかりに首を振ったスズハから、急速に色が失せる。

 視線を追った二人はそこに小さな家、しかも中に人がいると理解して彼女と同様の状況に陥る。アークス国内かつ私有地なら基本的に家を建てる場所に制限はない。

 自由が仇になった格好で、住人は既に避難する術を失っている。

「中佐、民間人が残っている。救助の許可を!」

「現実を見ろ! 損耗が著しい現状で、民間人の救助に人員を割けるか!」

「しかし!」

「くどい! 行くなら貴様一人で行け、カザギリ!」

 スズハとて、軍隊に於ける階級はクレイやルチアと同じ。ゴルドマンからの指示を覆す権限は無い。

「おい、アンタまさか――」

「後は任せた」

 性格から容易に想像可能な、最悪の答えを四天王の長はあっさりと選んだ。

 危うい足取りで民家へ向かうスズハを追いたい気持ちはあるが、彼女の意思は「先に行け」という物。ルチアに服の裾を引かれ、後ろ髪を引かれるような思いでクレイは前進する。

 既に損害は甚大。敵の首を取ったところで誇れる状況ではない上、無能を晒している上官が無傷なのは腹立たしい話だが、戦列を共にしている兵が更に死んでいくのは決して肯定出来る話ではない。

 ――博打になるが、魔力が強い方に『紅雷崩撃・第一階位ミストラル』で……。

 炎と硝煙の香りに息が詰まりそうになりながらも、最善手を模索するクレイ。腹を括って始動しかけた彼の手が、突然引かれた。

「伏せて!」

 飛来した豪風を浴び、手を引いたルチア共々吹き飛ばされ地面を転がる。爆裂音を聴きながら身体の各所を打ち付け、数十メクトル転がった所でようやく止まる。

 痛む身体を抑えながら跳ね起き、クレイは敵の仕掛けを探す。

 ――『剛錬鍛弾』と『焦延留炎バルドラム』の合わせ技か。ロクでもな……

 純粋な破壊と対象の焼失。二つを狙った仕掛けが炸裂したのは音で分かる。ラティノック平原には的になりそうな物体はそれなりに転がっている。気にせず進む事も出来ただろう。


 スズハが先刻踏み込んだ民家が赤に染まっていなければ、の話だが。


『焦延留炎』が齎す、水では消火困難な炎が彼を嘲笑するように黒煙を伴侶に立ち昇る。家主が野獣や盗賊からの襲撃を想定していたのか、瞬時に蒸発する事態は回避されたが、十分も保たぬ内に倒壊するだろう。

 そして、今のスズハに民間人を抱えて炎の海を突破するだけの体力はない。

「今の砲撃で位置が割れた。ヒンチクリフ、仕掛けろ」

 上官の言葉に、肺腑の加熱をクレイは強く感じた。

「スズさんと民間人はどうすんだ。救援に行くんだろ」

「阿呆か。通達を無視して居座っていた者と、独断専行の愚者を救う理由が何処にある?」

「テメエが行かせたんだろ! それに、敵の情報をロクに集めずに作戦を展開したのもテメエだ。偉そうにグダグダ語ってんじゃねぇよ××××××ッ!」

「上官に利く口がそれか! 組織は規則に基づいて動く。最低限の前提条件すら分からなくなったか! ……さっさとやれ!」

 会話は見事な平行線で、軟着陸の兆しは皆無。

 互いに譲る筈も無く、そうなればクレイの側が立場の優劣から不利になる。膠着状態に陥れば求める物は果てしなく遠ざかる。

 スズハを救い出し、かつブレアを打倒する方法はあるのか。

 必死で思考を回した末に、紅き雷狼は小さく息を吐いた。

 オー・ルージュを抜き、ビリヤードのキューの構えに似た体勢で穂先に『蜻雷球リンダール』を形成。振りまかれ続ける死の匂いを祓う、清浄な光に指揮官の緊張が緩む。

「規則に基づいて動くんだろ? だったら、俺の答えはこれだ」

 

 撃ち出された紅の雷球はゴルドマンの腹部を正確に捉えた。


 悲鳴を上げる暇すら与えず、全身をたっぷりと焼かれた軍人は奇妙なステップを踏んだ後に倒れ伏す。落命はしなかったが、一部が黒化するまでに焼かれた上に意識を手放しては、指揮など当然取れない。

「あー誤射しちまったわ。これじゃぁ中佐は指揮が出来ねえわな。……代替を立てるしかねぇよなぁ」

 指揮官の負傷に動揺する兵士達に聞こえるように、わざとらしい声を張り上げる。

 ゴルドマンが消えた今、連隊で最も階級が高い存在は四天王の三人。

 階級が同じであれば、個人が残した実績で序列が決まる。最上位のスズハが炎に呑まれ、残された二人を比較するとクレイの方が僅かに賞金首の討伐数が多い。

 規則を正しく解釈すると、この場の指揮官はクレイトン・ヒンチクリフとなる。

「ルチア・クルーバーは総員を率いて、ブレア・アスタウトを討伐しろ。手段は問わない」

「……隊長は何をされるのですか?」

 分かり切った事を敢えて問うてきたルチアに、獰猛な笑みを浮かべ全身に魔力を充填させていく。正真正銘『紅雷崩撃』を放つ体勢を整えながら、臨時の指揮官は宣告する。

「俺はスズハ・カザギリと民間人を救出する。……生きていれば、また会える。死ぬんじゃねぇぞ!」

「お互いに、ね」

 互いに背を向け、各々の目的を達成すべく動き出す。

 状況は一刻を争う。理想通り運ばないのが現実だと冷笑する世界を押し切って、スズハを含めた全てを救わねばならない。

 これ以上、仲間を失う訳にはいかないのだ。

 咆哮と共に、紅雷が平原を奔り抜けた。


 同じ頃、馬鹿とクズと敗北者が集う町ヒルベリア。

 町の中心に位置し、露店が立ち並ぶリディアル・ストリートを一人の幼子が覚束ない足取りで歩んでいた。

 一房だけの蒼が目立つ黒髪に、素人の手に依る物と一目で分かる雑な眼帯で左目を隠した幼子の名はヒビキ・セラリフ。

 二年前に突如この町に現われた彼は、未だ言葉を繰る事が出来ず、それを知る住民から空気のような扱いを現在進行形で受けていた。

 そんな彼の左手には、何やら異臭を放っている袋が握られ、時折破れる音を生みだしながらそれを引き摺っていた。目的地は当然家だが、ここからだとかなりの距離がある。

 到着まで袋が保つのか。そもそも、帰る事が出来るのか。

 不安が過り、右目の端に涙が滲み始めた幼子の体が急激に浮上した。

「おーう。こんな所にいたか。……ごめんな、また失敗した」

 抱え上げた存在を認識するなりヒビキの表情が晴れ、首が勢いよく横に振られる。その反応を見て、嘗ての殺戮兵器にしてヒビキの養父、カルス・セラリフは相好を崩す。

「『転瞬位トラノペイン』が簡単に使えるって言うからペルタ・チェインを作ってみたけど、あんまり上手く行かねえなぁ。……ん、どこで拾ったそれ?」

 ヒビキが抱えていた粗末な袋に目を引かれ、興味を抱いたカルスは断りを入れた上で袋を借り、無遠慮に手を突っ込んだ。

 伝わってくる柔らかさに顔を歪め、捨てる事を決意しかけたが、少し動かしたところで感じた硬い感触を受け、汚物を散らしながらそれを引き抜いた。

「書類か。日付は二年前、妙に綺麗だな。記録者は……」

 他に詰め込まれていた食料品が腐敗しきっていながら、ほぼ原形を留めていた紙束の末尾に記されていた名前を見て、カルスの纏う空気が急激に変化する。

 決して少なくない量の文書を貪るように読み進めた末、男は長い息を吐いた。

 ――『統治者』と、二年前に死んだ四天王の名前。こりゃ匂うな……。

 一介の戦士にして父親見習いの彼には、即座に真贋の判断は出来ない。だが、長年培ってきた勘が、この荒唐無稽な文書の中身を軽んじるなと告げていた。

「おっと、怖い顔になってたな。とりあえず帰ろうぜ。飯にしよう」

 研ぎ澄まされていく養父に恐怖を感じたのか、怯えた表情のヒビキの頭を雑に撫で、カルス・セラリフは自宅に向かって歩き出す。

 ――送り先は、スズハ・カザギリで良いな。アイツなら、何か知っている筈だ。

 図らずも、最善手を弾き出しながら。

 

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