8:ディヴィエーション・フロム・フォーチュン
回想:少女の日常
一日の終わりを告げる担任の声を合図に、教室内に喧騒が生まれる。
賑やかなやり取りをすり抜けて、大嶺ゆかりは鞄を肩に引っ掛けて教室を出る。
――本は昨日借りたから、今日は図書室に寄らなくて良いかな。
そんな事を考えながら階段を下り、下駄箱に到着。ローファーに足を通し、ポケットからイヤホンを取り出す。
「おー今日も早いお帰りで。学生の鑑やなほんま!」
「あ痛っ! ……色葉か」
「そりゃアタシ以外おらんやろ!」
ウォークマンのボタンを押す寸前、背を勢いよく叩かれて噎せながら振り返る。
一六〇センチのゆかりより僅かに背が高く、スカートが数センチ短い点を除いて、規則を遵守した制服を纏う少女が、快活な笑みを浮かべて立っていた。生まれたままの物らしいが、夕焼けに似た赤い髪が他者を異様に引き付ける少女『獅子神色葉』は、自らもスニーカーに足を通して扉へ向かう。
「今日は……スーパーの方やっけ?」
「うん。テストで最近行けてなかったから、そろそろね」
「真面目やなぁ。アタシは無理やわ、人に頭下げんのは」
「その代わり、良い感じで好きな事やれてるじゃない。次は『○○と虎』でやるんだっけ?」
「せや。またゆかりも来てな……って、ゆかりの好みは違うからなぁ」
曰く「祖父さんの代までは金持ちやったけど、今は庶民。後、けったいな髪色は偶に出る遺伝。葉月大叔母さんとか雪みたいな白やったらしい」
そんな彼女はゆかりと同じ帰宅部だが、校外でバンドを組んでいる。授業が終わるなり練習かライブ、そしてバイトに直行する毎日を過ごしてはや一年。商業への道はまだ遠いが、最近ではライブハウスに金を払って黒字が出ている、らしい。
ゆかりも何度か足を運んだ事もある。刃物同然のギターサウンドと、紳士淑女の皆々様が顔を顰める、夢も希望も無い罵声同然の歌詞を赤毛少女がぶっ放すライブは、スターダムを駆け上がる光景を幻視させるには十分な代物だった。
「でも色葉の書く歌詞、好きだけど刺さらないんだよね」
「syr〇pやらそのオマージュバンドを聴き漁ってるのに、なんで刺さらんねん。大体近いやろ」
「元気な暗さと、静かな暗さの違い? 色葉の曲は元気な暗さでしょ」
「つまりそれ、アタシの歌詞がSNSでアホが書いてる『私可哀相な女の子♡』アピってことかい! 清純派気取ってる割に、スパスパ言うなやっぱ!」
大袈裟に頭を抱えて仰け反る友人に、ゆかりは苦笑を浮かべる。清純派って形容は古くない? と突っ込もうとした時。
上体を戻した色葉が大真面目な表情で顔を近付けてくる。
名前の通り、コロコロと様々な方向に思考を切り替える友人の先を読むのは難しい。どんな爆弾発言が飛んでくるのか。
「ゆかりもこっち来て三年目やろ。ええ加減、こっちの喋りにならんの?」
身構えていたゆかりに、予想通り予想外の問いが来た。
「えぇと、練習はしてるんだけど……」
「練習するようなものなんか。先は長いなぁ」
父は沖縄で母は千葉生まれ。ゆかり自身は東京で生まれ育ち、中学三年の夏にこの兵庫に家族揃って移り住んだ。既に三年目になるのだが、彼女は関西地域の話し方が未だにしっくり来ていない。
気のせいだと分かっているが、微妙に浮いているというか、他者との距離があるのはこれに依る物だろうか。
「それは違う。寧ろ、その喋りと物腰やから影で人気あるんやろ。こないだも芦沼に告られてたみたいやしな」
「……なんで知ってるの?」
「芦沼に泣きつかれた」
イカしたセンスの持ち主だが、裏表の無い性格故に性別問わずそれなりの友人と無数のそれ以外がいる色葉なら、知っていてもおかしくはない。
ただ、色葉に話せばこうなる可能性があるのに泣きつくのはどうなんだろうか。そんな思いから曖昧な笑みを浮かべる他ないゆかりに、赤髪の少女は人差し指を立てる。
「『どうして大嶺は彼氏もいないのに、全部告白を断っとるねん』やと。そこんとこどうなん、ゆかりさんや。まー顔も悪ないし、喋りも普通やしで優良物件ちゃうの」
「彼氏がいないと告白を受けなきゃいけないは繋がらないでしょ。人間関係はステータスじゃないんだから」
「それは分かる。けどな、あんまり物事を重く考えん方がええやろ。大体始まりなんて偶然やし」
色葉との繋がりが、町の本屋で偶然同じ参考書を掴んだ事からであるように、人間関係の始まりは千差万別。
どうせ高校生の恋愛で終わりまで駆け抜けることは稀だ。軽い理由で付き合いを始めるのも決して悪いことではなく、寧ろ人生経験を積む意味ではアリなのかもしれない。
もう少し、物事を軽く考える方が良い。
二年に上がる前にされた告白を断った時、誰かに言われた言葉が脳内で不意に再生される。曖昧な笑みで流した覚えがあるが、これは両者にとって良い対応ではなかったと、今では痛感している。
「でもさ、色葉はバンドを遊びで考えてないでしょ。きっとそういうことだと思うよ、うん」
「その返しされると、反論に困るなぁ。やったら、ゆかりはどんな奴が良いん?」
殺し文句を切った筈が逆に痛烈なカウンターを浴び、ゆかりは言葉に詰まる。
断り続けている友人の理想がどのようなものか。この手の興味を完全にスルー出来る高校生はそうおらず、色葉の問いは真っ当なものだろう。
とは言え、何もまとまっていない問いを受けて冷静に思考など回らない。少しだけ顔を赤くしたゆかりと、鞄からペットボトルを取り出して口に含んだ色葉の間から、暫し言葉が失われる。無言のまま二人の足は色葉が練習で利用するスタジオに向かう。
ゆかりのバイト先からは遠ざかっているのだが、そこに意識を回せる余裕はあまりなかった。
何処からか聞こえてくる、ヒットチャートを支配するアイドルの新曲が間奏に入った頃、多少整理が付いたゆかりはようやく口を開いた。
「見た目とかは……うん、あまり気にしないかな。流されずにちゃんと考えて、自分の道を決めて歩ける人が良いなって思うよ」
「それアタシらの年で求めるの厳しない? ゆかりもまだそういうの無いやん」
赤の他人や何もしていない相手ならともかく、夢に向かって邁進している色葉からのツッコミは重い。ただ、あくまで理想の話だ。
ある意味割り切りに近い思考の着地を行い、ゆかりは友人から微妙に視線を逸らしたまま言葉を繋ぐ。
「私は色葉とかみたいに夢とかないし、色々中途半端だからさ。だからそういうのを持っている人に憧れるんだよ、多分」
「憧れは……」
「理解から最も遠いだっけ? そうかもしれない。でも、どうせ好きになるなら、遠い人の方が良いよ。理解する手間を乗り越えてでも好きになれる人なら、ずっと好きでいられるからさ」
「意外と重いな。そりゃ芦沼とか宮原とかじゃアカンな。というか、王子様級やろそこまで行けるの」
王子様という非現実的な表現はさておき。自身のことをかなり棚に上げている自覚は一応ある。馬鹿なことを言っているなとも、少しだけ思っている。
だが、色葉に語った理想像は確かに求めていて、恐らくそれを持つ人に出会わない限り、愛だの恋だのに首を突っ込むことはないのだろうといった確信もまた、ゆかりは抱いていた。
「つまりアレやな。いざとなったらアタシが嫁に貰えば万事解決って奴やな!」
「どうしてそうなるのさ」
「論理的帰結!」
「多分意味が違うよ……」
よく分からない方向に着地して快活に笑い、肩を叩いてくる色葉に苦笑を浮かべ、ゆかりはされるがままになりながら彼女と共に町を歩む。
平和な街で他愛無い会話を繰り広げる、十代後半に差し掛かった少女達。
少しだけ意識すれば、この国の様々な場所で容易に見られる光景に影など無い。あるのは未来と、そこに待っている筈の光との対峙を盲目的に信じている人間の姿だ。
だが、世界は闘いによってのみ描き出され、盤面に登った者の痕跡は未来を生きる者に受け継がれる。
大嶺ゆかり十六歳。職業学生。
そして、盤面への参戦を生前から定められた者。
血と絶望と狂気が入り混じる戦いとの邂逅を、この時の彼女は知る由も無かった。
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