11


「状況は分かった。……不味いな」

 大規模魔術による爆撃痕に酷似した大穴の前に立つ、水無月蓮華の表情は極めて硬い。

 一行から離脱したユカリと、彼女に続いたヒビキと千歳を追うべく動き、地形による足止めを食らった彼らは、大気中の魔力量の急速な増加と、殺意を乗せた金属音の合唱を受け発信源に向かった。

 最悪の事態を想定し、各々武器を構えながら辿り着いた場所には、小型の竜が猛り狂ったような荒廃した空間と大穴が広がり、そこで彼らはユカリと千歳を発見した。

 最後の一人、ヒビキは何処に行ったのか。

 呆けたように立ち尽くす千歳から聞き出せず、辛うじて話が出来たユカリから情報を引き出した結果、蓮華が先程投げた呟きに至る。


「ありがとう。降下して探すのは無理だな」


 鉄球を括りつけた命綱を降ろして、底までの距離を測っていた団員が、力なく首を振る様を見て、一つ可能性が消えたと蓮華は溜息を吐く。

 団員が装備する命綱は極限まで細く軽い物を採用し、七十メクトルと過剰に長い。計測を行った団員は更に『鋼縛糸』で長さを稼ぎ、合わせて百メクトル近くを探っていた。

 手応えが無かったとは即ち、穴の底は百メクトルより深い所に在る。

 そして、本当にヒビキが底まで落下したのか不明瞭な状況で、飛行魔術の熟練度が皆平均程度の一行では、貫かれた階層全ての探索は困難と結論が出てしまう。

 ――船移動の弊害がこんな所で……いや、今はそこじゃない。

 選択肢はヒビキを探すか、彼の言葉に従い上を目指すかの二つ。

 両取りに賭けるのも一つのだが、無理な博打は破滅への片道切符と経験から分かっている蓮華は、軽々しくそれを口に出せない。ただ、最悪の選択が何なのかも重々承知している。

「状況を変える、素晴らしい策を持ってる奴はいないか?」

 努めて軽い調子で投げた問いは、無意味に空気を震わせるだけに終わる。

 頭を張る者が沈んでいては、全体の士気を落として全滅の危険を呼び込む。

 亡き父から受けた数少ない教えに則った試みも、状況の悪さから反響は皆無。「雇われなんかほっといて上に行きましょう!」なる発言が飛び出さない辺り、団員の人選に狂いはなかったと図らずも認識させられるが、それを喜ぶ暇があるのかは言うまでもない。

「行きましょう。シグナの遺産を探しに……!」

 体感も実際に流れた時間も長く、そして痛い沈黙を破ったのは、一行で最も特異な存在のユカリだった。

 ヒビキだけでなく、急襲してきたティナとそれなりの関係を持つ彼女なら、一も二もなく彼らの捜索を希望する。蓮華に加え付き合いの長い友人達も抱いていた予測。

 それを裏切った少女の目には迷いが残り、声も震えている。彼女がヒビキを最後に見たのは崩落に呑まれる姿だ。最悪の結末に至る恐れが多分にある選択は、決して容易ではないだろう。


「ユカリさんが酷薄な×××××でないと知っていますけれど、理由を教えてくれませんか?」


 切り込み役を買って出たルーゲルダの問いを受け、何とも形容し難い顔になった少女は、未だ揺らぎが残る目で一同を見た後、躊躇いながらも口を開く。

 それを受けた蓮華が懐から煙草を取り出し、彼女の言葉を待つ姿勢に入り、部下も彼に倣い動きを止める。

「始まりが私の浅慮な行動ですから、単に希望を言うとすぐ助けに行きたいです。でも、その行動に何の意味があるでしょうか?」

「ゆかりちゃんの感情が満たされる意味はあるだろうな」

「今満たす意味はありません。……ヒビキ君は落ちる前に『先に行け』と言いました。私より遥かに強い彼が、ラフェイアが遺産を手にする事を恐れていた。みすみすそれを許してしまう事が、一番の悪と思うんです。……それに」

 何か躊躇するように、目を泳がせて言葉を切ったユカリの肩をライラが叩く。口にこそしなかったが「恐れるな」とばかりに頷いた紫髪の友人に、一瞬だけユカリは笑みを返す。

「私と千歳に先へ行けと言ったけれど、ヒビキ君の目に諦めは無かった。良くない形で会ってしまったティナも、本質はとても良い人です。……二人は絶対に生きて私達の前に来る。だから私達は探すべきなんです」


 単に希望を口にしただけと、ユカリの言葉を切り捨てるのは容易。


 しかし、一行で最初に指針を示したのは彼女だ。どんな選択をしても何処かに穴が生まれる、全方位に完壁な答えを出せない状況故に、誰もが躊躇していた中で口火を切った事実は大きい。

 ふとヒルベリアの住民に視線を遣ると、彼女に否定や疑念を差し挟もうとする気配はなく、寧ろ得心が行った様に、明るい空気を纏っていた。

 ――未知の、そして悪意塗れの場所でもヒビキを信じられる、か。……若いって良いな。

 年寄り臭い感想を抱きつつ、放り捨てた煙草を靴底で揉み消しながら、蓮華は両の手を打ち鳴らす。

「フリーダ達はゆかり君に同意した。そして俺達は覆す名案を提示出来ない。……決まりだ、シグナの遺産を目指す。異存はあるか!?」

 煽りを乗せた問いに、賛意を乗せた咆哮を上げた団員が再始動の準備に散り、蓮華もそれに倣う、その前に方針を決めた少女の前に立つ。

 下げられようとした頭を物理的に止め、蓮華は笑う。

「提案を飲んだなら全員の責任だ。あのままだと何も生まれなかったしな。そういう意味で、俺は君に感謝しているよ」

「そうじゃなくて……」

 ユカリの言いたい事を、そこでようやく理解した蓮華は破顔して両手を振り、相手の言葉を押し留める。

「……それに腹は立ったけど、別にもう気にしちゃいない。どうしてもってんなら、決着を付けてからにしよう」

「なら一つだけ。……ありがとうございます」

「それはありがたく受け取るよ」 

 少女の額を小突いて背を向け、再度大穴に目を遣る。魔術や鍛錬で強化が為された視力を以てしても、虚無のみが映る深いそれは、態々調べるまでもなく、突入して救助に向かう事が不可能な代物だった。


 黙したままそれを見つめる中で、侍の目には純粋な感情が浮かぶ。


「戻るまで、俺はお前の友人を守る。……このくらいしか、責任を取る手段が無いってのが情けないけどな。必ず戻って来いよ、ヒビキ」

 投げられた言葉は、発信者以外に捉えられることもなく、何処かへ消えた。 

 

               ◆


 受け手側はそんな事情を知る由もないまま、丸二日が経過した。

「もうちょい協力してくれても良いんじゃね?」

「断る」

「あぁそうかよ……」


 落下した二人の間に流れる空気は、未だ薄ら寒い代物だった。


 直前の熱砂吹き荒れる階層から一変し、足首まで完全に沈むぬかるんだ地面と、異様な湿度を持つこの階層では、おちおち休む事も苛立ちの発散も出来ず、ひたすら上を目指す他ない。

 常識の螺子が飛んだ空間を二人は幾層も突破し、協力の必要性がある時はそうして動いている。ただ出会いに繋がった物が、相互理解を阻んでいるのだ。

「あの時、俺は自分で動ける状態じゃなかった。だからユカリがザルバドに向かってくれて、そこでお前に出会った。ハルク・ファルケリアと俺は、戦うどころかお互いの姿や声すら知らない」

 彼に可能な全ての説明を、二人で抜けてきた階層の数より多く行っているが、理解は未だ得られていない。ここまで我慢強かったのかと己の新たな側面を自賛する、低俗極まる思考も、度々ヒビキの中で挿まれるようになっていた。

 ――進展がないなら今は考えんな。そういう時に限って……。

「止まれ」

 無愛想極まる制止を受け、前方に戻されたヒビキの目が、眼前に広がる紫水を捉える。

 一目見ただけで有害な何かを想像させるそれに、ティナが適当な石ころを投げ入れる。

「何してんだ?」

「このような場所にある、紫の水溜まりは危険と教わった」

「……マジだなそりゃ」

 無粋な音を立てて水中に飲まれる途中、握り拳大の石ころから泡と白煙が噴出し、瞬く間に水と同化して姿を消す。人体が鉱物より脆く弱い一般常識と組み合わせると、足を踏み入れて生じるのは不愉快な事態だろう。

 礼を言おうと向き直るなり、高速で顔を逸らされ、幾度目かの溜息がヒビキの口から転げ落ちた。

 手持ちの情報を全て開示し、抑えきれない殺意を向けるティナに誠心誠意説明を試みたが、結果は御覧の有り様だ。決めた事に対して邁進する意思の固さには、普通なら感銘を受けるべきだろうが、着地点が自分への敵意ではそれも難しい。

「ファルケリアさんよ、アンタは……」

「ティナで結構」

「……シグナの遺産を手にして、一足飛びに強くなれると思うか?」

 関係改善を目的としない、方向性を変えた問いにティナの瞳が眇められ、斜め上に視線が動く。「貴様を殺してから答える」と斬りかかられなかったことに、内心安堵しながら、ヒビキは彼女の言葉を待つ。

「手にした者次第だ。一定の才覚がある者なら、力量の変化が劇的に起こる」


 端的な返答は、彼の推測と大よその一致を見ていた。 


 怯え過ぎているだけなのでは? という甘ったれた推測を第三者に叩き壊され、改めて前進あるのみと認識したヒビキは、ティナと共に点在する紫水を避けて歩む。

 刺々しい沈黙の打開は、もう諦めるしかない。

 そのような着地点に思考が至りつつあったヒビキの目に、紫水に波紋が広がる様が映る。

「――っと」

 それを引き金に、散在する小石の類が揺れ、乾いた音がさざ波のように階層全体に広がる。空飛ぶ島に地震の概念は無いだろうが、魔力の激突を筆頭に震動の原因はそれなりの数推測が出来る。

 ただ、二日前に彼ら自身の手で引き起こした激震と比すれば、鼠の身震いに過ぎない揺れはすぐに収束し、空間に静寂が戻る。

 大きく息を吐くティナを他所に、五感の警戒信号を感じたヒビキは、スピカを抜ける体勢を整えつつ周囲を見渡すも敵影は無い。

「……何をしている?」

「別に」

 怪訝な眼差しを向けてくるティナと一歩距離を置いて構えを解き、探索を再開しようとして、降ろしかけていた左手で、眼前の少女の腕を思い切り引いた。

 灰の瞳が見開かれ、後方で地面が割れ異形が飛び出す様を捉えたヒビキの全身の皮膚が泡立ち、体温も連動して一気に低下する。

 魚卵に似た太い唇と、奥に並ぶ乱杭歯が最初に見え、それは次いで見えた桃色の皮膚の大半まで裂け目が伸びている。

 エリオバトラクスなどの大型両性類に近い、乾燥してひび割れた全身は十メクトル強の巨体。だがそこには目や鼻の器官が無かった。

 急襲に失敗し、四つん這いの姿勢で降り立ったそれが、向こう側が見えなくなる程に口を開き、血や脂で汚れ切った歯列を露わにし、異臭と高熱を含む吐息を盛大に噴出した。

 臭いに覚えがあったヒビキは、咄嗟に呼吸を止め上着の襟首を引き上げる。同様の動きを指示しようとした時、ティナは既に動いていた。 

 決闘時の如き流麗な作法で掲げられた銀の刀身に赤が宿り、柄に施された精緻な細工から、女の絶叫が響き渡る。

「『赫転塵炎旋レージェ・フラクナード』ッ!」

 切っ先から無数の赤が紡がれ、全てが炎の竜巻と化し、紫水や塵芥を蒸発させながら宙を駆ける。静止した怪物の全身を穿つべく、城壁の如く聳える口腔を回避する軌道で突進する炎渦を前に、ティナの表情が勝利を確信して緩む。


 もっとも、それは一瞬で驚愕に塗り替えられるのだが。


 炎渦が突如歪み、全てが怪物の大口と殺到する。攻撃の一点集中は基本中の基本。だが、発動者が当てる事を避けていた場所に向かうのは奇妙に過ぎる。そして、ティナの困惑した顔が、事態は意図的な操作の結果でないと朗々と告げていた。


 重低音を響かせて口が閉じられ、吸い込まれた炎渦が消失、上下左右に動く口の端から、食べ滓のように小さな炎が零れ落ちる。


「魔術が……食われた!?」

 ティナの口から漏れた嘆きに似た言葉は、続いて生じた現象で正解からまだ遠いと否定される。

 嚥下と思しき動きを見せた怪物の背が、痛々しい音を引き連れて割れ、ティナが放った物に酷似した炎槍が伸び、穂先が二人に向けられる。口の端から零れた炎が、口腔全体に纏わりつき、やがて身体に一本の線を描く。

 どう見ても正の方向に変貌を遂げた怪物は、瞋恚を桃色の体に宿し壊れた笛の音を奏でる。

 異様に過ぎる存在は闘争準備を整えた。最善の答えを出したヒビキは、しかしティナが真っ向から攻撃を仕掛ける様に目を剥く。

「……んの馬鹿がッ!」

 力を解放して距離を詰め、断頭台の速力で閉じられる大口とティナの間に割って入り、右手で彼女を抱えて後方に飛ぶ。

 怪物に背を向け、一切の戦闘行為を放棄してヒビキは走る。


 彼の左腕の肘から先が消失し、断面から盛大に血が噴き踊っていた。


「何を――」

「黙ってろッ!」

 咀嚼音と、地面を蹴る震動を一身に受け、激痛で顔を歪めたままヒビキは疾走。目に付いた、怪物が絶対に入れないサイズの穴に飛び込んで逃げを打つ。

 普通ならこれで終わりだが、殺意に満ちた登場を果たし、こちらが攻撃を仕掛けたとあれば敵が放つ手は一つだけ。


 轟音、そして震動。


 予想通り、空間を破壊しながら気配が追跡してくる。左腕が再生される感触と恐怖を噛み締めながら、ヒビキは只々走る。

 突き当りの石壁を飛び越え、着地するなり目に飛び込んだ分岐に対面。地面と靴底を削って急減速するも、気配の接近を受け利き手の方へ走るが、すぐに急停止を強いられる。

 聳える壁を見て舌打ちが漏れる。今度は上方に逃げ場がない。

 停滞の間にも、背後から音が迫る。彼らに猶予は一切ない。

「……!」

 全力の蹴りを三度打ち込み、生まれた穴に転がり込む。ティナの抗議が耳を叩くも、無視して足を回す。

 右に左にと、「下に行かない」以外の規則を放棄した逃走劇の果てに、最初に対峙した道へと二人はまろび出る。ようやく怪物の気配が消えた事実に安堵し、抱えていたティナを降ろす。

「何故逃げた? 魔術を食らい強化する能力があっても……」

「……勝ちに意味があんのか?」

 口を噤んだティナを見据えながら、ヒビキは淡々と言葉を継いでいく。

「確かに勝てたかもしれねぇな。手札が殆ど分からない相手との戦いによる、大きな消耗と引き換えに。俺の目的はあくまでユカリ達との再合流と、遺産の確保、そんでラフェイアの打倒だ。……アレを必死こいて倒す意味なんざ俺にはない」

「……なら」

 継ごうとした言葉は、ヒビキの怒りに満ちた視線で強制的に抑え込まれた。

「勘違いすんな。一度目は命を救われた借りを返しただけだ。……俺を殺したい、信用したくない。それは別に構わない。けどな、ユカリがテメエを信用していて、殺す事を望まなかった以上、アイツと話してオチを付けるまで、死ぬ事は許さない」

 雷に撃たれたように身を竦ませるティナに、刃の視線を向けたまま、ヒビキは再生が成された左手を伸ばす。

 狂的な意思を発現させた後に伸ばされる手、という流れの不自然さに自分で気付いたのか、少年は出来損ないの笑みを浮かべる。

「死にたかねぇのはお互い様だ。立てよ、さっさと登ろうぜ」

 無言のまま手を取り立ち上がったティナは、状態を確認するように左手を出鱈目に動かすヒビキを見つめる。

 父の遺言に合致するこの男は、しかし本当に犯人なのかという疑問も生まれ始めていたが、彼女の内部で今渦巻く物で、その比重は少ない。

 頭に血が上り過ぎていた事に起因する軽挙と、頭が冷えた彼女は先刻の行動をそう評していた。まして敵対的な意思を見せたとあれば、あのまま放置されて、無意味に消耗して果てる道を往かせることも、ヒビキには選べた。


「助けられた借りを返す」・「懸想している少女が信じている存在だから救う」


 二つを理由に命を張ってまで、殺しに来た輩を救う道を選べるのはかなり異常な思考だと、元四天王と強力なサムライから真っ当な教育を受け、常識的な神経が育まれたティナには判断できてしまう。

 異常性こそ、特別な何かを持っている証明なる安直な式は、基本的に成立せず、異常者は異常者としてゴミのように扱われるのが常道だ。

 無論例外は存在し、清濁を並立させて語られる歴史上の人物は皆、何らかの異常と、それを超える何かを抱えていたからこそ、そのような存在に成り得たのだろう。


 目の前の男はどちらなのか。

 

 両者が果てる頃になって、ようやく解が出される気の長い問いを抱えながら、ティナはヒビキの後を追う形で上を目指す。

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