2:御伽噺に住まう者

 職業上当たり前と言えば当たり前だろうが、確実に数人殺っていそうな凶相の軍人に、三人は首都ウラプルタへ強制連行。数時間の事情聴取を経て辛くも解放された。

「あーもう、なんなのさ! 私達はもごごごご!」

「声が大きい。言いたい事は分かるけど、場所を考えて」

 ついさっきまで押し込まれていた建物に、再び突入しかねないライラを抑え込みながら、フリーダがゆかりに目配せを飛ばす。


 ここからどうする?


 答えとなる札を持たないゆかりは、首を力なく横に振る。

 有り得た可能性を見過ごしていたのは、完全に迂闊だった。

 歴史上の英雄が現れた地は、元の世界でも大抵は何らかの形で保護されるパターンが多い。馬の骨同然の子供三人に、許可が降りる筈も無かった。

 情報提供を最小限に絞ったカロンへの怒りが過るが、御膳立てだけでも十分な援護射撃を貰ったと言える上、出発までにチャンスは幾らでもあった。活かせなかったのは、大嶺ゆかりの失策以外何物でもない。

 結論付け、悔恨を封じたゆかりはフリーダに向き直る。

「正攻法で入るのは難しい。けれど、尻尾を巻いて帰る訳にはいかない。……誰か地元の人に協力を仰ごう」

「共犯者を探そうって訳だね。うん、僕も賛成だ」

 いきなり灰色に転じたが、好転策について合意に至った二人とその片方に抱えられたライラは、統治機構が並ぶ区画を離れる。共犯者を何処で探すのか。道中で議論を交わすが、やはり何も分からない状況では名案は出てこない。

「とりあえず傭兵とかの詰所に行こうよ。『ケヴァルス』みたいなのはあるでしょ、これだけ自然が近くにあるなら」

 狩りや戦いを生業とする者なら、ファナント島に入る権利を有しているのでは。

 ライラの発言に籠められた意図は実に真っ当で、その方向性で行くと決めた三人は、顔と名前が割れているウラプルタから一旦離れる事を決めた。

 購入した地図を難儀して読み取り、隣接する町ワルキマへ向かうべく、滑り込んできた路面電車に乗り込む。

 アークスに於いて鉄道の敷設は都市部とそこから延伸した一部に限られ、異世界で多くの日々を過ごしたヒルベリアには当然存在しない。

 通学に地下鉄を利用していたゆかりは、異世界で久方ぶりに乗り込んだ電車に感慨を抱くが、そうするだけの余裕はすぐに失せた。

「人、多くない……?」

「ま、まぁこういう物じゃないかな? 僕達が慣れていないだけだよ」

 すし詰め状態の車内で、ライラとフリーダの呻き声が響く。

 慣れがどうこうの問題ではない。指摘したくなったゆかりだが、人波に押し流された彼女は、二人の姿が見えないところまで引き離されていた。

 足と頭の位置が一本の線で繋がらない。ここまでは朝や夜のラッシュであり得る話だ。しかし、硝子が取り払われた窓から軽々しく人が飛び乗り、走行中も乗客が増え続けるのは元の世界でもなかなかお目にかかれない光景。

 人に挟まれて窒息する、最低の終わり方は避けなければならない。元の世界で培ったノウハウを最大限に活用し、微妙に体勢を変えて人波に抗うゆかり。

 目的地まで延々と続く暗闘の途中。

 不届き者の手がライラの上着から、財布をすり取る様をゆかりは目撃する。

「――ッ!」

 慣れない満員電車の環境からか、ライラやフリーダが掏りに気付いた様子はない。ゆかりが気付けたのも、揺れで視線が動いた事に起因する偶然だ。

 手際よくことを済ませた相手は、既に電車から降りようと動いている。発見した以上、見逃せる筈も無い。

「……どいて、ください!」

 内心で謝罪したものの、彼女の選択はなかなか迷惑な代物だった。

 強引に人を押しのけ、摺りに追従する形で窓から飛び出す。フリーダやライラの驚愕の表情と、呼び止める叫びを認識したような気がしたが、中身を斟酌している余裕はなかった。

 受け身は左半身を強かに打ちつける失敗寸前の成功。痛む身体に喝を入れ、ゆかりは逃げる下手人を追って走り出す。

 対峙する敵や周囲の人々がかなり異常なせいで自覚こそ薄いが、命を賭け金にした生活を一年近く続ける中で、彼女の身体はそれなり以上に強化されていた。具体的には、地の利と実践形式で鍛えた足を持つ不届き者を追走し、距離を詰められる程度には。

 ヒルベリアより多少マシな道路で展開される追走劇の果て、不届き者が細い路地に飛び込む。何らかの思考を回すよりも速く、ゆかりの足は相手に追従し、そしてそこに待っていた物を目撃して止まった。

「××××××」

「××××××」

 路地の先に在った小さな広場。バディエイグの公用語と思しき音を発しながら、不届き者とその仲間達がナイフを抜いて待っていた。

「嵌められたってこと、かな?」

 ゆかりがそうであるように、相手も彼女の言葉を理解していない様子。

 この状況下で向けられる物として、最も適切な表情を浮かべている辺りから、自分をどう見ているかを即座に理解するのだが。

 凡庸な相手だが、六対一の数的不利を覆せる可能性は低い。無傷で乗り切るとなると、可能性は更に低下する。尻尾を巻いて逃げるのも一つだが、どのような出費が待ち受けているかも不明瞭な状態で、持ち金が大きく減じるのは危険だ。

 ――それに泥棒を許せる程、私は器が大きくないから、ね

 一筋の汗が頬を伝って落ち、地面に小さな染みを作ると同時。小さく息を吐いてゆかりは一歩を踏み出す。

「おねーさんおねーさん。流石に六人倒すのは難しいと思うぜ?」


 澄んだ声が上から振って来たのはその時だった。


 声だけでは性別の、そして敵味方の判別は付かない。ゆかりが身を硬くした時、既に声の主が彼女の前に無音の着地を果たしていた。

 先端で括られた艶やかな黒髪を揺らし、見る者の目を奪う扇情的な衣装と、それを上回る美しさを醸し出す細い四肢を露わにした乱入者が、淑女のように洗練された挙動で立ち上がり、ゆかりに振り返る。 

 やはり性別の判別が難しい、あどけない顔に嵌め込まれた黒瞳が僅かに細められた後、乱入者は邪気の無い笑みを浮かべた。

「話は後でな! ……××××××!」

 身構えるゆかりに一言だけ残し、乱入者は腕を大きく広げながら掏り集団に呼びかける。

 不思議な紋様の刺青が踊る両腕の、肘に括り付けられた無数の金属環が奏でる不可思議な音を聴きながら、ゆかりは乱入者と摺り集団のやり取りを見守る。

 決着は、ライラの財布が乱入者の手に投げ渡される物だった。

「××××××!」

「××××××」

 相手方が吐き捨てた捨て台詞と思しき音を、乱入者は虫の羽ばたきも同然の調子で聞き流す。相手の気配まで完全に消えた頃、乱入者の腕が無造作に振られる。

 咄嗟に伸ばした右手に重い感触。引き寄せると、ライラの財布がそこに収まっていた。中身に異常が無いと確認し、ゆかりは安堵の息を吐いた。

「路面電車か何かに乗っただろ? そんな綺麗な格好してたら、そりゃ狙われるさ。ファナント島に向かおうってのに、ちょっと無警戒なんじゃないかな?」

 ゆかりの足が、無意識に数歩後退した。

 グァネシア群島に降り立って言葉を交わしたのは、友人二人の他は取り押さえと取り調べで対峙した軍人のみ。眼前の性別不詳な人物とは当然初対面だ。

 ――敵、かもしれないね。気を緩めずに……

 決意を新たに身構え、腰に括り付けた武器を抜かんと構えたゆかりに、乱入者は大仰な仕草で両手を掲げる。

「話を聞いてくれると嬉しいね。オレはハンヴィー・バージェス。おねーさんの敵じゃないどころか、願いを叶えてあげられる存在だと思う。後、オレは男だからな。そこんとこ、よろしく」

 見た目からは真偽の判断が難しい、男であるとの主張も気にはなる。しかし、本題はその前にあった。

「願いを、叶える……?」

「そ。オレの願いとおねーさんの希望は、大体同じ所に被さる。……そこにいる友達も一緒に、総統官邸に行こうか。それで大体分かる筈だろ?」

 返答を待たずハンヴィーと名乗った、本人の主張を尊重すると少年は軽い足取りで路地を去っていく。残されたゆかりは、言葉通り立っていたライラとフリーダと視線を交える。

 胡散臭いが賭ける価値はあるのでは。

 そのような判断を無言で下し、三人はハンヴィーの後を慌てて追った。

 

                   ◆


 バディエイグの軍事政権への転換は十八年前と、かなり日の浅い出来事だ。

 正当性が極めて怪しい王政が崩壊した後、長きに渡って続いていた議会制民主主義は、ベラクス・シュナイダーが指揮する国民軍に破壊された。

 彼を最高指導者とする新生バディエイグは、強化が為された軍事力を背景に、他国への資源流出や不条理な貿易の改善、汚職の一掃など旧体制が残した負の遺産の大半を拭い去った。

 国の外形は急激に清められた。だが、裏側は苛烈だった。

 穢れを拭いとる事を名目に、軍を頂点とする統治が確立された結果、国民の死者数は跳ね上がった。標準的な大きさの用紙一枚では、到底列挙しきれない数の執行理由で極刑が毎年執行され、国民は怯えと共に日々を過ごしている。

「途中退学だから、不完全な知識だけど」

 そんな前置きでフリーダが語ってくれた、バディエイグの体制と統治者の構図は、元の世界の歴史書で悪逆非道の独裁者と形容されるような代物だった。

 鼻歌混じりに先導するハンヴィーとは真逆の、最大限の警戒を行いながら歩んでいたゆかりだったが、案内された軍の詰所も同然の質素極まる官邸に出鼻を挫かれる。

 そして、彼共々通された官邸の最奥で、無数の映像に視線を行き来させて待っていたベラクス・シュナイダーの姿を見て、抱いていた想像が完膚なきまでに打ち砕かれた。

 話を聞く限り五十代に突入している筈だが、目尻の小さな皺や暗い茶髪に混ざる微量の白髪を見なければ三十代後半で通る、張り詰めた貌。

 それを支える素っ気ない軍服に覆われた身体も、独裁者の単語から想像される弛みは皆無。寧ろ、単独での殺し合いも十分に可能な程に引き締まっていた。

 経歴からすると当然の話だが、こんな場所に収まっている事が間違っている。

 確信を三人に一目で抱かせたバディエイグ最高指導者と、彼女達を導いたハンヴィー・バージェスなる少年(?)は、彼女達には通じないバディエイグの公用語『グァロス語』でやり取りを行っていた。

 感情の起伏は見えないが、万が一罠に嵌められていたり、交渉が破談に終わった場合は命のやり取りに発展する。

 身構えるゆかり達を他所に、淡々と会話は進む。唾を飲み込んで渇きを抑える必要が生まれる程に長い時間が経過した頃、会話が不意に途切れる。

「伝説の継承者が望むならば、私に止める権利は無い。一つだけ条件を付けさせて貰うが、君達のファナント島への上陸を許可しよう」

「条件とは一体?」

 三人にも通じる言語で放たれた言葉に対するフリーダの問いは、肯定で緩みかけたゆかりに冷水を浴びせる物だった。

 ファナント島への上陸と探索を認められても、行動に無数の枷を嵌められてしまえば望みから遠くなる。目先の餌に釣られて軽率に受ければ、確実に地獄を見る。

 警戒心満載のフリーダに、ベラクスは無表情で首を振り、小さく指を打ち鳴らした。

「警戒するのは悪くない。だが、もう少し隠すべきだ。私も含めての話になるが、半端な実力の持ち主の過剰警戒は身を滅ぼすだけだよ。簡単な条件だ……コルヴァン」

「ここに」

 簡潔を突き詰めた男の声が、背後から届く。

 人面を模した仮面を被っているのか。馬鹿げた想像をしたくなる、お手本のような無表情を貼り付けた軍人が、先刻ゆかり達も用いた扉の前に立っていた。

 背に屹立する、布で刀身を覆い隠した両手剣から推測するに、個人戦闘を主たる仕事としている風情で、所作はベラクス同様一切の遊びがない。最高指導者直々に指名された事実から推測可能な、高い階級を示す物も見受けられない。

 万が一敵に回った場合、非常に厄介な相手になる。確信したゆかりを他所に、ベラクスの淡々とした言葉が再び紡がれる。

「君達の監視に割ける余裕は我が国にも多くないが、継承者の守護に半端者を出す訳にもいかない。このコルヴァンならば、全てをこなす事が出来る。受けて貰おう」 

 ベラクスにとって不都合を招く真似をした瞬間、首を落とす。

 眼前の鉄面皮を同道させる意味は、このような側面もあり、状況次第でそれは容易に成されるだろう。恐れはある。だが高い実力を持っているとは即ち、ファナント島探索で生じる戦闘に於いて心強い味方になる。


 断る理由は何処にも無かった。


「……よろしくお願いします」

「出発は明日の朝五時だ」

 名乗りも何もかもを飛ばして、一言だけ残してコルヴァンは去っていく。

「それじゃ、オレ達も準備にしないとな! 付いてきなよ!」

 意気揚々の形容が良く似合う調子でハンヴィーも続く。

「『継承者』の意味は気になるけれど、道は開けた。戦力も増えたし、悪い状況じゃない。僕達も行こう」

「まっ、何かあったらその時考えれば良いんだよ!」

 友人達も追従し、ゆかりもそれに倣おうとした時、彼女の胸に痛みが走る。ネックレスの赤い石が放つ熱を感知すると同時、視界の端に在るモニターに映る物に気付き、呼吸が一瞬途絶する。

「……ごめん。先に行っててくれるかな? この人と少し話がしたいんだ」

「丁度良い。私も異邦人に興味が有る」


 ゆかりが異邦人だと知っている。


 露骨に顔を引き攣らせ、片方に至っては臨戦態勢に入った二人に、ゆかりは小さく頭を下げ、先に行くように促す。

「……気を付けて」

「何かあったら、遠慮なくぶっ放して良いんだよ!」

「いやライラ、そんな事をここで言うんじゃない」

「何言ってんの! 密室に男女が二人っきりなんて絶対……あーこら放せー!」

 相手次第で即刻戦闘に突入しかねない、物騒な一撃を飛ばしたライラを引き摺り、フリーダも部屋を出て行く。

 望んだとは言え、独裁者と評される男と一対一の構図に緊張を覚えながら、ゆかりは先程座していた椅子に再び腰を降ろし、ベラクスの灰色の目を見据える。

 先刻のやり取りでは無表情に見えたが、対面すると人間らしい熱を感じさせる男は、ゆかりの視線を真っ向から受け止めながら、モニターの一つを引き寄せる。

「君が注意を引かれたのは、この映像だろう」

「!」

 ベラクスが提示した刹那、画面の向こう側に並んでいた男達の頭部が赤く染まり爆散する様がゆかりの目に飛び込む。

 ライラの財布を掏った集団が、呆気なく殺害された。

 確かに窃盗は犯罪行為だが、極刑を処す程の物では無い。愕然するゆかりを対照的に、ベラクスに揺らぎはない。

「君の友人への窃盗未遂以前に、彼等には無数の罪状が多数あった。犯罪歴が多過ぎる以上、慈悲は不要だ」

「窃盗で極刑は行き過ぎていませんか?」

「一度なら。だが、二桁も行えば十分社会を乱す悪になる。改善の意思もない存在を生かす余裕もまた、無いのでね」

「……それは、法で規定されたルールですか?」

「そうだ。私達が決めた」

 多くの罪を重ねた存在なら、極刑を課しても良い。

 ルールがあるのならば、バディエイグではそれが正解だと言えるのだろう。

 だが、ルールがそもそも間違っている場合、正当性は担保されない。

 ゆかりの問いに、ベラクスの目が幽かに細められる。

「君は私の、我々の統治形態が間違っていると言いたいのだろう。ならば私からも問わせて貰う」

 冷徹な声を受けたゆかりは鼻白むが、最高指導者は淡々と、手心を加えるつもりなど無いとばかりに言葉を継いでいく。

「諸外国に血税を献上し、自国の富や資源の簒奪を許す。何の意味も無い催しを開く自慰行為の横で、幾人もの命が貧困で失われた。強い言葉を適当に並べて支持率を稼ぎ、気付きに至った者との議論を放棄し、国民を扇動して非国民と罵り叩き潰す。

 現状を変えようにも、血統を持たぬ者は機会さえ与えられず退場を余儀なくされる。民主主義を否定するつもりはないが、それが我が国に齎したのは単なる緩慢な自殺だ」

「けれど、それは……」

「民主主義がそれなりに上手く機能していた、君の世界を否定するつもりは毛頭ない。だが、君が私を否定するのであれば、民主主義が齎した堕落を脱する方法を問いたい」

 椅子に深く身を沈めたベラクスに、ゆかりは反論の言葉を持たない。

 元の世界を見渡しても、負の側面は多く見えた。自分の回りで決定的な破綻を迎えていなかった、そして変える力を持たないが故に、それらについての打開策に思いを馳せず見過ごしていただけの話だ。

 元は優秀な軍人だったベラクスなら、物語に登場する三下の悪役のように、国民を殺める事を軽々しく肯定などしない筈。緩慢な自殺を図っていた祖国を救う為に立ち上がり、悪政を破壊して幸福への道を模索したのだろう。

 単純な結果を見れば、グァネシアの国力自体は強化され国民の生活水準も向上している。所詮領土を踏み荒らすだけの余所者が、どうこう言う権利など無いとゆかりも理解はしている。

「……それでも、私はあなたのやり方は正しくないと思います」

「だろうね。代わりが現れてくれるなら、喜んで捨てるさ。地位も、命もね」

 鋼鉄の意思が内包された声は、酷く倦んでいた。

 ベラクスの視線が、ゆかりから手元の書類に移る。これ以上の時間と言葉を消費する必要は無いとの判断は、図らずとも両者一致を見た。

 おざなりに頭を下げて執務室を退出。

「失礼」

「……すみません」

 途中、軍服を纏った長身の女性と接触しそうになった以外は特段のアクシデントはないまま官邸を辞し、傾き始めた日の光に思わず目を眇める。

 予想外に時間を消費した事に何らかの感情を抱く前に、ライラ達と共に律儀に待っていてくれたハンヴィーに肩を叩かれる。

「それじゃ、パパッと準備に行こうか! 大丈夫、オレがいるから楽に終わるよ!」

 名目上は護衛だが、コルヴァンを付けた真意は監視。気付いている筈だが、明るさを崩さないハンヴィーの姿は少々呑気が過ぎる。

 ベラクスが発していた「継承者」なる単語が、彼を特別たらしめる鍵になっているのは明白。しかし、単語の有する意味について知る者はいなかった。

「ケブレスの魔剣みたいな奴かなぁ」

「グァネシア群島でそういう話は聞いた事ないよ。寧ろ、宗教的な何かじゃないか?」

 ライラに対するフリーダの言葉に、ゆかりは少しだけ首を傾げる。

 彼女の反応を受け、茶髪の少年は道路標識を指差す。彼の指を追うと、絡み合う二頭の蛇を象った標識が道路の端にあった。

『エトランゼ』とはまた異なる伝説の役者なのか、二頭の蛇は標識や銅像、果ては路上の落書きにまで用いられており、バディエイグにとって重要な意味を持つのだと三人に告げていた。

 そして、先を行くハンヴィー・バージェスの露出した四肢にも、同じモチーフと思しき刺青が刻まれている。チンピラが身に刻む物と似た方向性で、厳かさの欠片も無い点は大きな相違点ではあるが。

「二頭の蛇、か。どういう意味なんだろう」

「下らん御伽噺だ」

 忽然と挿し込まれた無機質な声に、三人の肩が一斉に跳ねた。鼓動が急加速する胸を抑えながら振り返ると、鉄仮面の貌を持つ男コルヴァン・エラビトンが立っていた。

「え、ええっと。先に帰られたんじゃなかったんですか? どうしてここに?」

「居住可能区域の住民で、ハンヴィー・バージェスに勝てる者はいない。ならば、俺の仕事は君達の護衛になる。それだけの話だ」

 職業人の鑑のような回答に、問うたゆかりもただ首肯するしかない。

 護衛はありがたいが、監視役も兼ねている男との行動はやはり緊張の度合いが変わってくる。圧し潰されぬように動いたのは、ライラだった。

「御伽噺って、一体どんな奴なんですか? 恥ずかしい話、私達生まれも育ちもゴミ捨て場なんで、世界史とかあまり知らないんですよね」

「大戦以前の話だ。惑星は二頭の大蛇に支えられ、ヒトは奴等から知恵や技術を授かった。思い上がったヒトの様に心を痛めて眠りに就いたが、危機が接近した時、素質のある子どもに力を授けて再臨する。よくある御伽噺だ」

「それが、ハンヴィーなのですか?」

 首肯が返される。

 特権階級の子供なのだろうと流していたが、道行く人々の多くがハンヴィーを見る度に微量の熱を目に宿し、年長者は何らかの声を掛けていた。信仰が籠められていたとなれば、その現象に対して説明が付く上、ゆかりが対峙した窃盗団があっさり引いた事実にも納得が行く。

 再び口を閉ざしたコルヴァンのような少数を除いて、彼は人々からの期待を生まれた頃から背負い続けている存在なのだろう。

「……屋台で買い食いをする救世主。そんな構図はありなのかな」

 フリーダの呟きに、苦笑する他ないゆかり。彼女の腹部から、小さく音が鳴った。

 咄嗟に抑えたが、先行するハンヴィー以外には聞かれた。少しだけ頬を赤くしたゆかりだったが、自身の両隣からも似た音が響いた事に目を丸くする。

「そう言えば僕達……」

「ここに着いてから何も食べてなかったねぇ」

 よくよく考えると、砂浜に落とされてから今まで半日以上が経過しているが、全員何も食べていない。腹が鳴るのも当たり前の話だと、揃って苦笑する三人に、いつの間にか戻ってきていたハンヴィーの声が飛ぶ。

「なんも食べてないのは良くないな! コルヴァンも一緒にメシ行こうぜ!」

「お前が出すなら行くが」

「一杯金貰ってんのにケチくさいぞ!」

「お前にだけは言われたくはない」

 信仰対象と独裁者の部下。そのような組み合わせが織り成す緊張感皆無のやり取りを、毒気を抜かれた三人はただ見守るしかない。通行人からの視線を微妙に集め始めた頃、会話の決着は付いた。

「分かった。オレが四人分奢るよ! ……ついてきな!」

 根負けしたハンヴィーの音頭を合図に、ゆかり達は再び歩き出す。

 当地特有の生物対策に必要な物資を除けば、ヒルベリアの段階で準備は済んでいる。食事が終われば宿で休息を取り、そしてファナント島へ突撃する。

 カロンが提示した『二つの世界を繋ぐ門の保持』という使命以外にも、今回の旅には何かがある。この地に落ちてから、ゆかりの内側ではこのような確信が生まれていた。

 確信の原因が、事態を好転させるのか。それとも更なる泥沼へ誘うのか。正解は当然見えない。ヒビキからの拒絶を経た今、状況がこれ以上悪化する事への恐怖は確かに在る。

 ――停滞は後退に。後退は終幕に。……もう学んだ筈でしょう? それに私はもう選んで動いた。降りる事は許されない。

 悲壮感すら漂う決意を復唱し、迷いを心の隅に追いやったゆかりは、ライラやフリーダが投げてくる会話に応じながら歩む。

 彼女の内心は他者に悟られぬまま、一行はハンヴィーに導かれるままある食堂に到着。席に着くなり「いつもの奴お願い!」という言葉で、メニューを見る事も無いまま三人は料理を待つ。

 他愛の無い会話を交わしていると、やがて給仕が五枚のプレートを一人一人の前に滑り込ませてくる。肉又とナイフを意気揚々と構えるハンヴィーから、三人はプレートに視線を移し――

「さっ、食べようぜ! ……どした、三人とも?」

 継承者が可愛らしく小首を傾げる。対照的に、ゆかり達の視線はプレートに鎮座する物体に固定されたまま動かない。

 少し黒っぽいパンは、単に使用している粉の違いだろう。明るい色が多いサラダや、豪快に豚の骨が放り込まれたスープも、食文化の違いで説明が出来るし、何ら抵抗なく食す事が出来る。


 メインディッシュと思しき、乳白色の緩く湾曲した物体が唯一にして最大の問題なのだが。


「これって、もしかして……」

「『コラクテラ』の幼体か。思っていたよりマトモな感性だな」

「だろ? これで一人千二百ちょいだから、なかなかコスパ高いぜ?」

 淡々と切り分けて口に運ぶコルヴァンを見るに『コラクテラ』なる生物の幼体は、バディエイグ及びグァネシア群島に於いてありふれた食材なのだろう。

 ただ、ゆかりからするとカブトムシの幼虫としか形容出来ない。昆虫食は知識として持っていたが未経験。しかも、生を主張するように痙攣を繰り返す状態の代物では、軽々しく口にするのはなかなか困難だった。

 フリーダやライラもゆかりと似たような硬直状態に陥っている。二人も昆虫食は未経験のようだったと、仲間の存在に一瞬だけ安堵するゆかりだったが、ハンヴィーの表情を見てそれは吹き飛んだ。

「……あーうん、やっぱりキツかった?」

「いや、そういう訳じゃ、ないんだけどね……」

 何も手を付けていない現状では、否定の言葉など意味を持たない。燦然と輝いていたハンヴィーの表情が、コマ送り映像も同然の勢いで曇っていく。

 我関せずと食事に専念するコルヴァンからの援護は期待するだけ無駄。このままでは島に突入する前に関係にしこりが生まれる。

 何より、出された食事を残す行為は相手に対する最大限の侮辱だと、大嶺ゆかりは幼少期より両親から教え込まれていた。

 深く呼吸をし、ハンヴィーに笑みを返したゆかりは食器を手に取る。

「大丈夫、ちょっと驚いただけだから。うん、いただきます!」

 ハンヴィーの纏う空気が和らいでいく事を感じながら、ナイフと肉又を幼虫に突き刺し、切り分けた乳白色の物体を口に放り込んだ。

 味について深い言及はなかったが、兎にも角にもゆかり達は完食に至り、ハンヴィーが意気を取り戻した。それだけは確かな事実だった。


                  ◆    


 来て早々、激しく状況は動きました。

 躓きもしましたが、幸運にも恵まれて明日は目的地のファナント島に入ることが出来ます。同行してくれる人達は、私を除いて高い実力を持っています。足を引っ張らないように頑張ります。

 成し遂げて何か変わるのか。そもそもヒビキ君は再会を望んでいるのか。

 正直に言うと、不安しかありません。けれども、私が決めて皆を巻き込んだ以上、降りることなんか許されませんし、それを望みません。

 先に何も見えなかったとしても、もう待っているだけの状況に戻りたくないんです。

 ……生き残って、必ず何かを掴み取ります。

 そう言えば、ハンヴィーの性別は結局どちらなんでしょうか。本人は男だって言っていますが、声とか骨格、それに……とかはどう見ても女性の物なんですよね。

 全てが終わった後、ちゃんと聞いてみても良いかもしれません。

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