第2話 夜桜に見蕩れる
「へえ。こんなんなったんだ・・・」
木暮優馬は仕事の疲れも忘れ、その絵に見入っていた。
街中の一角にある、小さな工房。看板には、『天本 木工房』と書かれている。
軽トラ一台がギリギリ納まる駐車スペースの奥に隣接された資材置き場。そのシャッターに、それは描かれていたのだった。
月夜の桜吹雪の絵。
シャッターの右上には人や車が通ると点灯する照明が設置されており、闇の中に絵を照らし出す。
照明は上手く隠されてあるため、まるで絵の中の月が風景を照らしているかのような効果をもたらしている。
満月の下側をうっすらと隠す薄雲が良いアクセントになっていた。
左端に描かれた桜の樹は、銀色の月に向かって手を差し伸べるように枝を伸ばしている。
枝にはほんのりと薄桃色の桜の花が咲き誇り、強い風にキラキラとした花びらを舞い散らせる。景色を映す湖面には散り落ちた花びらがたゆたっている。
月にかかった雲と桜吹雪が風の動きを上手く表している、と彼は思う。
そして、湖面の木陰に咲く紅い花。
風になど負けはしないと背筋を伸ばしているようで、凛とした生命力が感じられる。遠くから見ると、花の紅色が闇にぼうっと浮かぶ炎の様にも見え、ほんの少し恐ろしくも感じる。
桜の樹はおそらく、地面から三分の二程しか描かれていない。そのため、自分が地面に座って夜桜を見上げている様に感じるのだった。
初めて青年を見かけたのは、確か二週間程も前だったろうか。脚立に登り一心不乱にシャッターを塗りつぶしていた。
頭にはタオルを巻き、汚れた作業着の袖をまくり、両手に軍手を着け黙々と刷毛をふるっていたその青年は、そのひたむきな眼差しのせいか、二十歳を越えたばかりぐらいに見えた。
珍しく仕事が早く終わり、たまにはゆっくり風呂に浸かろうかなどと考えながら歩いていた時に、チラリと見かけただけの光景だった。
だが、その青年の真剣な眼差しが非常に印象的で、木暮優馬の心の片隅にずっと残っていたのだ。
とは言え、今こうしてそのシャッター絵を見るまでは、その光景が心に残っていたことにすら気付かなかったのだが。
青年はその時、平凡な薄灰色のシャッターを真っ黒に塗りつぶしているだけだった。
なのに、額の汗を拭う合間にも、ローラーと刷毛を持ち替える瞬間にも、シャッターから片時も視線を外さなかった。射抜くような、強く鋭い視線。
今、完成した絵を眺めて思う。
彼にはあの時既に、完成した絵が見えていたのではないだろうか。真っ黒に塗りつぶされたシャッターの上に、ありありと。
イメージしたものを形にする才能。
それを見事に実現させる情熱。
そして何より、疑いなく真っ直ぐに自分の力を信じる若さを思い、木暮優馬は密かに嘆息した。
その場から動くことが出来ず、馬鹿みたいにうっすらと口を開けたまま、ただただその絵を見上げていた。
そのシャッターの真上、二階の窓の端から、件の青年が自分を見下ろしていることにも気付かずに。
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