第82話 恵流の意地


 何度も唾を飲み込んで無理矢理涙を止めた恵流は、努めて明るい声で言った。


「だから私、陽を振ったの。いい思い出だけ持っていたかったから。死ぬまで陽を好きでいたかったから。陽を好きなままで死にたかったから」



「……うん」

 完全に鼻声の恵流の背中に額を押し付けたまま、アヤが頷く。



「私ね、思いっきりカッコつけたんだよ。『転勤の辞令が出た。新人としては異例の大抜擢だし、ウェブショップの仕事の依頼も増えた。夢の為に頑張りたいから、仕事に集中したい。お互いの為に、別れましょう』……とか言っちゃって。あはは」



「……大月くんは、なんて?」


「いきなりだったからかなり驚いて、混乱してた。でも、強引に別れちゃった。『いつかそれぞれの分野で成功して、また逢えるといいね』なんて、漫画のセリフみたいなこと言って、走って逃げた。電話もメールも着拒した。親にも話して、実家に電話が来ても断ってもらうように頼んである」


「うん……」


「ものすごく、傷つけたと思う。憎まれても仕方ないのはわかってる」


「……うん」



「でも、陽には見られたくなかったの。衰えていく自分の姿を、見せたくなかった。それが自分勝手な我が儘だってわかってる。エゴだってわかってるんだ。

だけど、私、お世辞にも美人じゃないけど……それでも、一番綺麗な私だけを憶えていて欲しかったの」



 アヤは喉の奥からなんとか声を絞り出し、恵流の隣に座るとその頭を強く撫でた。


「……わかるよ。女の意地だね」


「ふふ。そう、意地だね」


 目は真っ赤で、メイクもほとんど涙で流れてしまっていたが、強がって笑ってみせた恵流はとても美しかった。悲壮なまでに、美しかった。



「時間が無かったんだ。今はまだ、ピンとこないっていうか、さっきも言ったけど、自分がもうすぐ死ぬって実感が無くて。

でも、ぐずぐずしてたら、怖くなるかもしれない。怖くて悲しくて、陽に当たり散らすかもしれない。死にたくない! って、恥も外聞もかなぐり捨てて、最後まで側に居てって、縋ってしまうかもしれない。でもやっぱり、そんな姿、絶対に見せたくない。


……だから、今しか無かった。本当の恐怖がやってくる前に、強引であっても、陽を傷つけてでも、逃げたの。酷いでしょ」


 両手で髪を直すふりをして顔を伏せた恵流に、何と言葉をかければ良いだろう。何か、言ってやりたかった。たとえ、気休めだったとしても。



「……大月くんも、きっとわかってくれる」


「……うん。いずれ、ね」


 ハンカチでゴシゴシと顔を擦り、恵流は大きく息をついた。




「アヤさん、聞いてくれて……一緒に泣いてくれて、ありがとう。私、溺れずに済みそう。ちょっとは流せたと思うんだ。ジャーって」


 恵流は自分の言葉にフッと吹き出し、声を上げて笑った。



 その笑いは仮初めのものだと、ふたりともわかっていた。

 白く煌めく薄氷の下には、悲しみや理不尽な運命への怒り、絶望や生への執着が渦巻いている。ちょっとした刺激で足元はひび割れ、絶望の奔流に飲み込まれてしまうだろう。


それでもふたりは、薄氷のヒリヒリするような緊張感の上で、笑ってみせた。



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