第81話 恵流の選択



「彼女はとっても気さくな人で、関係ない私にも気を遣ってくれた。素敵な大人の女性、って感じ。凄い美人で、その世界では有名人らしいのに全然お高く止まってなくて。

でもね、なんか凄いの。踊る人だからか、指先の動き一つとっても、優雅でとんでもなく綺麗なのね。ちょっと首を傾げるとか、軽く髪を直すとか……そういう当たり前の仕草ですら、女の私でさえ見惚れてしまうの。

で、陽はと言えば……」


 恵流は弄んでいたフォークを皿に戻し、チラリとアヤに視線を投げたがすぐにまた、自分の皿を見つめた。

 笑ってみせるつもりだったが、顔がピクリとも動かなかったのだ。


「陽はね……夢中だった。彼女の動きや表情を一瞬たりとも見逃したくない、っていう感じ」

「でもそれは、彼女を描くから」


「うん。たしかに、そう。でもね、それだけじゃない。魂ごと引き寄せられてるみたいだった。瞳がキラキラしてた。まるで、女神を崇めてるみたいに……」



 思い出した様に、恵流はグラスを取ると一気に飲み干した。アヤが黙ってペットボトルからお茶を注ぎ足し、恵流は目礼を返す。


「で、凄いのがね、彼女、その視線を当然の様に受け入れたの」

「受け入れた?」


「そう。普通はさ、初対面の相手から、そんな崇拝みたいな熱烈な視線を浴びたら、たじろぐじゃない? たじろぐまではいかなくても、ちょっとは驚いたり引いたりしそうなもんじゃない?」

「ああ……うん。そうかも。経験ないけど」


「私も無いよ」

 恵流は今度こそ、短く笑った。


「でも、彼女にとっては、そんなのちっとも珍しいことじゃないんだな、って。よくある事なんだな~、って、思ったの。それって、凄くない? 世界が、次元が違うよ。とてもじゃないけど、太刀打ち出来ない。太刀打ちどころか、私じゃ同じステージに上がることすら出来ない」


「……でも、陽くんは? 彼だって同じなんじゃない?」


「ううん。陽はね、彼女と同じ次元に立つと思う。今じゃなくても、遠くない将来。まぁ、これは私のひいき目かもしれないけど」



 引き絞られる様な胸の痛みを感じ、アヤは涙ぐみそうになった。

 この子、どれだけ彼を好きなんだ。どうしたら、そんな慈しむ様な微笑みを浮かべていられるんだ。



「でも、それはどっちでもいいんだ。今後ふたりの関係がどうなるか、そんなのは、いいんだ」


 恵流は再びグラスを手に取り、ほんの少しだけお茶を口にした。唇を湿らせる程度に。膝の上に置いたハンカチを、ぎゅっと掴む。



「私ね、彼女に惹かれて行く陽を見るのが、耐えられなかったの」


 縋る様な気持ちで、思わず言葉が零れ出る。

「……でも、そんなのわかんないじゃない! 惹かれていくって言っても、画家として素晴らしいモデルに出逢ったっていうだけかもしれない」


「私も、それは考えた。そう思おうとしたよ。依頼された仕事が終われば、夢から醒めたみたいになるんじゃないかって。でもね」



 大きく息を吸込んだ恵流を見て、アヤは瞬間的に悟り、激しく後悔した。


 言わせてしまう。恵流、ゴメン。言わなくていい。頼むから言わないで……




「私には、時間が無いから」


 アヤは口を唇を噛み締めた。

 恵流が死ぬという事実を、まだ受け止めきれていない。私が下手な口をきく度に、恵流に辛い思いをさせてしまう……



「前にアヤさんに指摘された通り、私は彼女を描く陽の姿を見るのが嫌で、自分の仕事を理由にして少し距離を取ってしまった。この仕事が終わったら、また前みたいに、陽の部屋に行けるって、楽しく過ごせるって思おうとした。

でもね、陽が依頼された大きなサイズの絵を描くのにはね、3ヶ月以上もかかるの。それでもだいぶ早い方らしいんだけどね」


 恵流は大きく息をついた。肺の中の空気を全て押し出すみたいに。


「で、今日しばらくぶりに陽の部屋に行ってみたら……絵が、ガラッと変わってた。前からいろんなジャンルを描く人だったけど、んん………なんだろう。詳しいことは分らないし、解説なんて出来ないけど、圧倒されるっていうか………絵の力が……本当に、本当に凄まじかった」


 慎重に言葉を選びながら全ての息を吐き切った恵流は、大きく吸い込み新しい酸素を取り込んだ。



「その絵を見てね、負けを思い知らされた。3か月。たった3ヶ月ちょっとの間に、しかもカレンさんと陽が顔を合わせたのって、たった数回なのに、だよ? 私には、こんな風に陽に影響を与えることなんて出来ない。陽は私より、彼女の傍に居るべきだって」


「そんな‥……だって、恵流だって、今まで……」


「それにね、彼女は有名人だからやっぱり顔が広くて、彼女の知り合いとか親戚なんかから、たくさん絵の発注を受けてて。仕事への貢献度から言ってもね、全然敵わない。もう、完敗」


「貢献度ってアンタ……大月くんはそんなことで」

「うん」


 恵流は遮るように頷いた。


「陽はそんな理由で人を好きになったりしない。これは完全に、私の勝手な被害妄想」


「でもね。どのみち、私は死んじゃうの。どんどん弱っていって、醜くなって、死んでいくの。あの、貫く様な眼差しで真っ直ぐに彼女を見つめる陽を、凄い絵をたくさん描いて手の届かない場所に行っちゃう陽を、私は遠くから眺めながら、ゆっくり死んでいく」


 恵流はいまや、両手で握りしめたハンカチで目元を覆っている。


「辛すぎるでしょう? 悲しすぎるでしょう? 逃げたっていいでしょう? ……でなきゃ私、陽を憎んでしまう」



 気付くとアヤは、席を立って背中から恵流の両肩を握りしめていた。


 相槌を打つことすら出来ず、額を恵流の背中に付ける。恵流の嗚咽が伝わってくる。きっと恵流にも伝わっているのだろう。

 ボロボロと溢れ出る涙は止めようが無かったが、泣き声だけは漏らすまいと、アヤは歯を食いしばった。


「あのね、病気のことが分かって、最初は神様を恨んだ。なんで、どうして私が、って」



 恵流は大きく、深く息を吐いた。幾度か繰り返すうち、呼吸が落ち着いてくる。


「でもね、さっき陽の部屋へ行って、思ったの。陽と過ごした時間は、死んじゃう私への、神様からのプレゼントだったんだって。アヤさんやホムセンのみんなや公園のアイス屋さん。背中を押してくれた、見守ってくれた、みんなからのプレゼントだって」


 せっかく落ち着いた呼吸が、また乱れる。しゃくりあげながら、それでも恵流は笑おうとしている。



「ねえアヤさん、私ね、自分で言うのも何だけど、すごく大切にしてもらった。愛されてた。それはわかってるんだ。私、今まで本当に、すごく幸せだったの。だから……」


 恵流の背中に取り縋ったまま、アヤは無言で何度も頷く。



 そうしてふたりは、しばらく泣いた。



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