第77話 激しく動くもの
日の射さない薄暗い地下倉庫の中、藤枝は静かな興奮を湛え立ち尽くしていた。
壁に立てかけられているのは、大月陽の絵。
家に置く場所が無くなったからと、乾燥を兼ねて倉庫に引き取っているのだ。
「専属契約」こそ断られたが、結果的に数多くの絵を預かることになり、藤枝としては至極満足だった。
数歩うしろへ下がり、数点の絵を遠くから眺めてみる。爬虫類のような目が、ぬらりと瞬いた。
煌月カレンを描いて以降、あきらかに画力が上がっているのがわかる。特に、動きの中のある瞬間の切り取り方、その表現の仕方が格段に上手くなっている。
「あれ以来、激しく動くものを描くのが楽しくて」
大月陽はそう言って笑いながら、この数ヶ月驚くべきスピードで様々な絵を描き上げている。内から湧き出る止め処ない何かを、手当り次第にまき散らしているようだ。
そのまき散らされた何かは、観る者を包み込み突き放し、芳しく香るかと思えば鼻の奥に嫌な臭いを残す。思わず笑みがこぼれてしまうほんのり暖かな幸福感や、足元がぐらつき背中にベタつく汗を浮かべさせる不安感を漂わせる。
描かれているものは様々だ。
強い風に吹かれる樹々。舞い上がる落ち葉。風にうねる草と、波立つ水面。
燃えるような赤い空を自由に飛び交う、白い翼を持った大勢の人々。
朽ちかけた白い彫像に、泥水がぶちまけられた瞬間。
宇宙空間を泳ぎ駆け回る、異形の生き物たち。
柔らかく優しい色調の、しかし現実にはあり得ない色で描き出された田舎の風景でさえ、独特の臨場感を感じる。
美しい絵なのだがどこかミステリアスで、思わず振り返って周りを確認しそうになるのだ。
色の使い方や、わざとアンバランスに仕上げた構図など、一応の説明は出来る。だが、それだけでは無い、説明しきれない何かがある。
密度の異なる空気の塊がいくつもひしめき合い、少し歩く度にその密度の違いを感じられそうな世界。
そんな絵の世界に取り込まれそうな、そして心の底では自らそれを望んでいるような、甘い恐怖を感じる。
いくつかのモチーフをさまざまに反復させた絵は、見ているだけで目眩がした。
同系色で描かれたその絵は、不規則にうねり、こちらの意識を飲み込みながら収縮し、同時に際限なく広がっていくようだ。
いつだったか、大月陽は言っていた。
「ルソーの絵を観てると、窒息しそうになる。息苦しくて逃げ出したくなる」
うちのギャラリーが抱える若手画家が描いたアンリ・ルソーの複製を眺めながら、彼は悔しそうに眉を寄せた。
「絵は嫌いだけど、画家としては尊敬してる。身体に変調をきたすような絵をたくさん描いたから」
大月陽の絵を見れば、ルソーを嫌うのも理解出来る気がした。
彼の絵は、魂を今あるくびきから解き放ち、どこまでも遠い場所へと連れて行ってくれる。そんな高揚した気分と、自由への憧憬を感じさせてくれるのだ。
肖像画や風景画からいわゆる現代アートと呼ばれるもの、大胆で豪快なタッチ、もしくは緻密で細やかな筆使いまで、彼の絵に共通するのは、とてつもない躍動感。そして、満ち溢れ揺るがすエネルギーの開放だ。
そう思い至った瞬間、激しく心が揺さぶられ、藤枝は思わず身震いした。
身体の震えが止まっても、胸の中の細かい震えは止まらずに長く続いている。藤枝は目を閉じてその震えに身を任せ、全身で深く味わった。素晴らしい芸術だけがもたらす、極上の喜びを。
感動の余韻から目覚めた藤枝は、薄暗い倉庫の中、再び若き芸術家に思いを馳せた。
彼の言う、「激しく動くもの」。
それはおそらく、目に見えるものに限られないのだろう。それは、感情? 空気? もしくは………運命。
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陽「ルソーの絵は、なんか脂汗出てくる。頭がグラってなるし。苦い唾液わくし。食欲失せるし」
優馬「なら、そんな見なきゃいいだろ。そんなに嫌いならさ」
陽「だって、美術館代もったいないもん……っていうか、なんか見ちゃうんだよね。怖いもの見たさ?」
優馬「……ルソー、かわいそー(チラッ)」
陽「ダジャレは無視します」
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