第78話 アヤ、昔語り


 今日、久々に恵流がホムセンへやって来た。

 最近は仕事やウェブショップの関係で忙しいらしく、会うどころかメールを交わす回数もかなり減っていた矢先だった。


「話がある」とのメールを受け取ったのは、昨夜遅くのことだ。いつもの砕けた文体ではなく、本当に必要最小限の短いメールに、嫌な予感がしていた。

 数カ月ぶりに顔を合わせた恵流は、妙に線が細く、向こうが透けて見えそうなほど儚気に見える。去年も着ていた細身のジャケットが、僅かにだぶついている。



「恵流、ちょっと痩せた?」


「うん……どうだろう。痩せたかな?」


 従業員用の駐輪場。私達はいつも、事務所となりの休憩室より、駐輪場脇の自販機の横にあるベンチで一服するのを好んだ。



 恵流の好きな果汁入りの温かい紅茶を買って、手渡す。


「ん、奢り」

「ありがとう」


 私はいつものカフェオレ。うんと甘いやつ。


 お互いに黙ってひとくち啜る。




「で? 話って?」


「うん……急にごめんね。ちょっと、色々あって」



 恵流は少し俯いて、曖昧に微笑もうとして見事に失敗した。唇の端が少し震えただけで、とても笑顔と呼べる表情ではない。


 恵流がこんな顔をするのは、何かを隠しているときなのだ。

 それも、秘密というのではなく、口に出したい何かがあるけれど言葉が見つからない時。もしくは、口に出すのを躊躇っている時。


 この顔は、うんざりするほど知っている。数年前の私だ。



「あのさぁ……」

 表情が読め過ぎて、思わずため息混じりになってしまう。


「あんた、あたしがバツイチだって、知ってるでしょ?」

「え、うん……前に聞いた」


「元夫とのこと、あまり話してなかったよね」



 アヤは恵流から目を逸らし、足元に視線を落とした。

 羽虫の死骸に蟻がたかっているのを眺めながら、淡々と話しだす。



「……当時、あたし達は二人とも、20代の終わり頃だった。若さを言い訳に出来る年じゃないけど、まぁ未熟だったのよね。お互いに。彼も、悪い人じゃなかったの」


 恵流は幾分ほっそりとした顔をこちらに向け、黙って頷いた。


「ある時期から、彼の仕事が忙しくなって。あたしはあたしで、体調を崩して仕事を辞めて、専業主婦やってた。で、お決まりの喧嘩ですよ」



 アヤがカフェオレをまたひとくち飲むと、恵流も同じ様にひとくち飲んだ。


 そう。この子はいつも、人に合わせようとする。

 今の場合で言えば、飲み物を飲むタイミングですら、私の話の邪魔にならない様に。無意識にそうしているのだ。



「彼はさ、毎日尋常じゃないほど仕事のストレスを抱えて、帰ってくるわけ。そしたら、のほほんとした妻がのほほんとした笑顔で迎えるわけよ。

 普段はね、それでいいのよ。でも、逆にそれがキツいときもあるわけ。って、後から言われて知ったんだけどね」


 恵流は神妙な顔で聞き入っている。この話がどこに着地するのか、まだ測りかねているのだろう。


「でもあたしはさ、彼がリラックス出来る様にと、自分に思うところがあっても押し隠して、努めてニコニコしてたわけ。まぁご存知のとおり仕事以外ではさ、不機嫌が顔に出やすいから……出来るだけ、ってレベルだったんだけどね。でも……」


 アヤはフッと短く笑った。

「便器にもね、その日のコンディションってあるわけよ」


 え、と恵流は驚いた顔をした。そりゃそうだ、とアヤは思う。



「んーと、ここから下品な例えになっちゃうんだけどね……」



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