第79話 アヤ、寝耳に水

「んーと、ここから下品な例えになっちゃうんだけどね……


 彼は仕事で問題やらプレッシャーを与えられる。その大半は、仕事で消化したり、頑張って自分の中で解消したりしてる。でも、どうしても消化しきれなかったり、やりきれない思いが残ったり。それがストレスになる。要は、ストレスっていうのはウンコなわけ。

で、時に周りの人に当たっちゃう。その対象のひとつが、いつも家に居るあたしだった」


 ショックを受けたかの様に少し眉を寄せている恵流を見て、アヤは反省した。少し言葉がきつ過ぎたかもしれない。


「別に、殴られたとかそういうんじゃないのよ? ただ、言葉の端々に、態度の所々にね。棘やら毒やら、潜んでるの。いや、当人は最後まで認めなかったけど、わざと、潜ませてるの。そうやってこちらが不愉快に思うのを見て、それでも我慢するのを見て、溜飲を下げてるの」


「……なんか、陰険。ただの嫌がらせじゃない。八つ当たりとどう違うの?」

 恵流は紅茶の缶を両手で握りしめた。ペキッ、と小さな音が鳴った。



「まあ、八つ当たりよね。でも、わからなくも無いのよ。ヘラヘラ笑ってる相手にチクッと言いたくなることもあるよね、って。あたしはストレスが少ないんだから、ウンコ投げられてもニコニコして水に流せばいいや、って。ジャーって感じでさ。

チクチクねちねちタラタラ言われるけど、私は普段家に居るんだし、不愉快だけどこれくらい我慢するべきかなって」


 当時を振り返るように、アヤは小さくため息をついた。


「でもさ、さっきも言った様に、便器にもコンディションはある。

排水管が詰まりかけてシンドイ時にウンコガンガン流されてさ、あげくにあちこち小突かれたら、そりゃ、溢れちゃうのよ。一生懸命自己メンテしてても追いつかないの。んで、そういうのを何度も繰り返すうち、壊れちゃった……」


 いきなり顔を振り上げたかと思うと、髪が揺れるほどの勢いで恵流を振り返る。


「っていうか!! 自分を便器に例えて話すとか、思いっきり胸糞悪いんだけど。あ、また糞って言っちゃった」


 恵流に向かって肩をすくめ,、苦笑いしてみせる。

「まったく、お下品でごめんなさいねー」


 その顔を見た恵流はつい、吹き出してしまった。

「うん。すっごくお下品。でもその例え、ものすごくわかりやすいかも」


 笑うのを堪えようとして紅茶を含んだが、それは逆効果だった。熱い紅茶に咽せながら、恵流は腹を抱えて笑い出した。


「わかりやすいけど、すごくわかりやすいけど……そんな重たい話、なんて例えにするんですか」


 ハンカチで目尻を擦りながら、缶ジュースを持った腕でアヤの肩を叩く。

「ああ、こんな下ネタで大笑いするなんて……いや、下ネタじゃないか? もう、よくわかんない」


「ふふ。だからね……」



 アヤは体ごと恵流に向き直り、正面から恵流の目を覗き込んだ。


「言いたいことがあったら、ちゃんと口に出しなさい。あたしたちみたいにすれ違っちゃう前に、澱んでウンコになって人にぶつける前に、滅茶苦茶でも、まとまってなくても良いから、言葉にしちゃいなさい。

特にあんたはね、他人にぶつけるんじゃなくて自分を責めちゃうタイプみたいだから。自分のウンコに頭まで浸かって溺れちゃうとか、嫌でしょ?」


「それは、嫌だね……すごく、すごく嫌だ」

 俯いて、恵流は小さく頷いた。


「……あんたの我慢強さは、私は凄いと思ってる。

でもね、我慢するだけじゃなくて、発散することも頑張りなさい。でないと、澱んで澱んで、どんどん荒んで、嫌な人間になってく。自分も周りも壊れちゃう」


 言い終えたアヤはカフェオレを飲み干し、足元に空き缶を置いた。ちらりと見遣ると、恵流はいつの間にか、ハンカチに顔を埋め肩を震わせていた。



「……何で、悪い話だってわかったの?」

「わかるよ。何があったかまではわからないけど。年の功ってヤツかもね」


 ぐすん、と洟をすすり、恵流はまた紅茶を少しだけ飲んだ。

 大きくため息をつき、くしゃくしゃのハンカチにまた顔を埋める。



「……あのね。さっき、陽と別れてきた」


 ハンカチ越しのくぐもった声は、少し聞き取りづらかった。

 だが、恵流の言葉はちゃんと聞こえていて、アヤはひどく驚き混乱した。鳩が豆鉄砲を喰らうとはこのことだ。



「え……嘘! なんで、また? ……だって、ついこの間まで……」


 上手くいってたじゃない? 仲良くやってたじゃない?




「……でね、わたし、もうすぐ死ぬんだって」



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