第76話 天本夫妻の心配事
陽のことで相談がある、と神妙な面持ちで静江が言ってきたのは、昨夜のことだ。
「取り越し苦労なら良いんですけどね、やっぱり心配で。いくら若いからっていっても、頑張り過ぎじゃないかしら。前にもほら、『痣がどうの』って言ってたし」
ある朝、静江が早朝に工房を訪れた際、陽の部屋の窓が開いており、そこから絵を描いている陽が見えたと言うのだ。時間は朝5時過ぎだったという。
その前日、良治は12時近くまで陽の部屋の電気が点いていたのを見ていた。
「吉田さんから聞いたんだけど、陽くん、絵の収入がけっこう増えてるって。うちの仕事もしっかりやってくれてるし、それは構わないんだけど……あの子、ちゃんと寝てるのかしらね……」
吉田というのは、うちの税理士だ。
陽が似顔絵屋をやり始めて以来、わずかながら絵で副収入を得ているので、ついでと言っては何だが税金関係の相談に乗ってもらっている。
静江の心配もわかるが、陽はどこも調子が悪そうには見えない。それどころか、以前にも増して精力的で、力が漲っているように見える。食欲も旺盛だし、血色もいい。気力が充実し、精神的にも落ち着いているようだ。
社員全員で昼食をとることは、それぞれの健康状態にも目を配れるという利点があるのだ。
相手は健康で体力もある若者だ。仕事をしっかりこなしたうえで、業務時間外に何をしようが、干渉するつもりは無かった。
が、静江も心配していることだし、さり気なく聞いてみるか……
「陽、お前、朝っぱらから何やらゴソゴソしてるって?」
陽はキョトンとした顔で振り向いた。
「え? ……ああ、絵を描いてます。朝は絵描きのゴールデンタイムなんで」
へへ、と屈託なく笑う。
「ちゃんと寝てるのか?」
「んー……4時間ぐらいは寝てますね。夏場は夜明けが早いから」
事も無げに言われて、正直面喰らってしまった。連日そんな短時間の睡眠で、大丈夫なのか?
「え、だいぶ前からずっとそうですよ? 最近、やたらやる気出ちゃって、寝てる時間がもったいなんですよね。絶好調って感じで」
ガッツポーズなどしてみせ、あっけらかんとしている。
聞けば、週3~4回、夕方に走り込みまでしているらしい。そういえば、また少し体格が逞しくなった様にも見える。
「高校の頃、校庭3周走り終えないと部室に入れてもらえなかったもん。で、早く絵を描きたいからって毎日頑張って走ってたら、どんどんタイムが上がって……校内のマラソン大会では、毎年上位に美術部員が数人入ってるっていう」
大友が自分の後輩ということもあり、陽はよく当時の話をしてくれる。そんな時の陽は実に楽しげだ。
そういえば大友は、学生時代から暇さえあればしょっちゅう走っていた。
「絵を描くには気力から。気力は体力の充実から」というのが彼の持論だった。
「で、部活終了時に腹筋背筋腕立てやらされて。腕立てとかは筆や彫刻刀を持つ手が震えるから、部活の後なんです。おかげで今も、夕方近くなると身体動かしたくなってくる」
言いながら陽は、その場で腿上げを繰り返し始めた。次第にスピード上げ「ぐおおおおお!」と吠えたと思うとピタリと止まり、「って感じです」と笑っている。
まあ、本人が大丈夫だと言っているし、傍目にも無理している様には見えない。大丈夫なのだろう。きっと。
眩しいほどの若い力を改めて目の当たりにし、天本良治は急に自分の年齢を意識した。老け込んだような気がして、ほんの少し、疲れを感じた。
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陽「ちなみに雨の日は、屋上まで階段5往復とスクワットです。闘う美術部と呼ばれてました」
天本「大友のやつ、何と闘うつもりなんだ……」
陽「芸術とは体力! らしいっす。未だに意味わかんないけど」
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