第49話 トリガー


「あのさあ」

 陽は目の前で苦悶の表情でもがいている男に目線を戻した。睨むでも無く蔑むでも無く、心底面倒くさそうに顔をしかめている。


「あんたも絵描いてんだろ? 絵筆握る手で人殴るって、どうよ。怪我でもしたら困るだろうが」

 そう言いながら、手首を握る手に更に力を加える。


「う、うるさい! うるさいうるさい!! お前なんかに、何がわかるっ」

 男は顔を紅潮させ、陽の腕から逃れようと不格好にもがいた。頬にかかる前髪が乱れ、男の目元を覆い隠す。

 力で敵わないと見るや、男は唸り声をあげ、シートに並べられた陽の絵を狂った様に踏みつけた。携帯用の筆洗いバケツが蹴られ、汚れた水がぶちまけられた。


 その瞬間、男が吹っ飛んだ。陽が突き飛ばしたのだ。そして大股でつかつかと歩み寄ると、今度は男の胸ぐらを掴み持ち上げた。



「おい」


 掴み上げられた男は声も出せずに口をパクパクさせる。ハッハッ、と浅く息を吐くばかりで、足が震え、自力で立つことも出来ない。


「お前、踏んだな……今、わざと、踏んだよな」


「だったら何だよ。あんな落書き、どうってこと」

 ワナワナと震えながら、男はどうにか細い声を上げた。が、それは途中で遮られた。


「仮にも絵を描く人間が、他人が描いた作品を、踏みつけるって、どういうことだ? ああ? 落書きだろうがなんだろうが、ひとの、作品に、泥を、付けるってのが、どういう、ことか、わかってんのか」


 一言一言区切りながら、胸ぐらを掴んだまま男を揺さぶり、ぶんぶん振り回す。

 声を荒げもせずほとんど無表情のまま怒っている陽が余程恐ろしいのか、男は完全に戦意喪失していた。


 陽は男を再び持ち上げると、額がくっつく程に顔を近づけた。


「あんた、さっき俺のことチャラついてるとか言ってたけどさぁ」


 冷たい目で男を睨み降ろしながら、低く押し殺した声で、唸る様に呟く。


「こっちは、あんたらが親の金で大学通って楽しくお絵描きしてる間、一日中角材ぶん回してんだよ。あんた、喧嘩慣れしてなさそうだけどさぁ、八つ当たりするなら、相手選べ。な?」



 陽は再び真っ白な顔色になったその男を、まるで荷物を放る様に放り投げた。取りなしに来た優男は、もんどりうって転がり込んで来た男を受け止めきれず、一緒に倒れ込む。


「それ、持って帰ってよ」


 離れたところで固まって竦んでいる仲間に向かい顎をしゃくって示すと、彼らは弾かれた様にコクコクと頷き、倒れている二人に慌てて駆け寄った。なんとか二人を助け起すと、グイグイと引っ張って逃げて行く。

 途中でひとりの女の子が立ち止まり振り返ると、「ごめんなさい! ほんとに、すみませんでした」と頭を下げた。


 陽はあやふやに手を振り、女の子が仲間の元へ駆け戻ったのを確認すると、恵流の居るテーブルを躊躇いがちにそろそろと見遣った。恵流はそこに居なかった。荷物も無い。


 慌てて見回すと、いつの間にか恵流は散らばった陽の絵をかき集め、泣きそうな顔で絵を見つめ立ち尽くしていた。



 陽はゆっくりと近づき、小さな声で「恵流、ごめん。怖かったよな」と謝った。それには応えず、恵流は唇を震わせながら絵を確かめている。


「これ……靴の跡……濡れちゃってるけど、いくつかは大丈夫みたい」


 陽は恵流の手からそっと絵を抜き取った。

 一点ずつビニールに入っているが、ほとんどの絵に隙間から汚れた水が入ってしまっている。


「ありがと。でもこれ、全部捨てたいんだ。なんか、ケチがついたみたいでさ」


「あ……うん、そっか。そうだね」

 恵流は鳩尾の辺りで両手の指を組み合わせ、そわそわと怯えた様子で落ち着き無く視線を彷徨わせている。


「……ごめんな。せっかく恵流が作ってくれた落款も押してあるのに」

「ううん。そんなのは、いいの。私のことは気にしないで」


 束ねた絵を折りたたみ椅子に放り投げると、陽はそっと恵流の両手を包み込んだ。いつもは温かな指先が、冷えきっている。


「ごめんな。怖がらせちゃったな。もう大丈夫だから。もう二度と、恵流の前であんなことしないから。ごめんな」


 恵流は顔を伏せ、そのまま陽の胸に額を押し当てた。


「私は大丈夫。怖くないけど、すごく悔しかった。陽の絵を、あんな風に……怒って当然だよ」



 パタパタと微かな物音が聞こえて視線を落とすと、地面に小さく丸い水の跡がついていた。


「あいつ、今度またあんなこと言ってきたら、私が目打ちで刺してやるんだから。で、裁ちバサミで丸坊主にして、それから、二度と馬鹿なこと言えない様に、口をワイヤーで縫い合わせて、それで、それで……」


 そう言っている最中にも、小さな丸い水玉模様が増えていく。

 陽は両手を離すと、恵流の頭を抱きしめて小さく笑った。恵流が陽の上着の裾をギュッと掴む。


「恵流を怒らせたら、怖いな。でも、恵流はそんなこと言わなくていいから、ね」


 まるで子守唄でも歌っているみたいに、ゆっくりと、陽は恵流の頭を撫で続けた。




______________________________________



(恵流ちゃん、可愛いのに結構猟奇的ですね……)

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る