第50話 深夜の電話


 陽の着信音。心配でずっと待っていた恵流は、1コール鳴り終わらぬうちに電話を取った。


「陽? 随分遅かったんだね」

「ごめん。もしかして、心配してた?」

「うん、ちょっとはね……」



   † † †



 あの後、恵流が大分落ち着いたのを見て取ると、陽は彼女をベンチに連れて行き座らせた。昼間、恵流が座っていたところだ。

 近くの自動販売機へ走り、温かい飲み物を買ってきて恵流に手渡す。


「片付けて来るから、これ飲んで待ってて」


 駆け戻り急いで後片付けを始めた陽を、恵流はぼんやりと眺めていた。


 束ねた絵を取り上げた陽は、一瞬絵を捻り潰すような動作をしかけたが、思い直して再び絵をまとめると、バッグに仕舞った。



 きっと、私に見えないところで処分するつもりなんだ。

 陽は、そういう人だ。そういう、心の優しい人だ。


 落款のことを気にしてくれたのを思い出し、胸の中がじんわりと熱くなる。


(私、この人、ほんとに好きだ。大好きだ………)




 本当はさっき、すごく怖かった。


 暴力を間近で見るのは初めてだったし、何より陽が怒ったのを見るのも初めてだった。

 でも、陽の怒りが、恵流にはよくわかった。自分が力を注いだ作品にあんな事をされたら、怒らない方がおかしいのだ。


(私が男だったら、絶対2、3発殴ってる。いや、男じゃなくても殴ってやれば良かった)


 出来もしないことをあれこれ想像しながら、恵流は温かな紅茶の缶を握りしめ、陽の背中を見守っていた。



「恵流、ごめん。ちょっと今日は、メシ行けない。楽しく過ごせそうに無いや」


 片付けを終えた陽が済まなそうに申し入れてきた時、恵流はすぐにそれを受け入れた。自分もそう思っていたからだ。

 きっと私は、また興奮するか怒るか怯えるかして、陽に気を遣わせてしまう。

 それに陽だって、ひとりになりたいだろう。



「俺、もうちょっと頭冷やさなきゃ。ほんと、ごめんな。必ず埋め合わせするから」


 恵流は笑って、陽に紅茶の缶を差し出した。

「埋め合わせなんて、いいよ。私もそう思ってたの。今日は、これ飲んで解散しよ」



   † † †




 もうすぐ日付が変わろうとしている。



・・・私を家まで送り届けた後、陽はこんな時間まで何をしていたんだろう。



「陽、もしかして、ちょっと酔っぱらってる?」

「……うん。やっぱ、わかる?」


 電話の向こうからでも、少し舌がもつれているのが聞き取れた。


「なんか、気持ちが鎮まらなくてさ。そこらじゅうぐるぐる歩き回りながら、コンビニ見つける度に酒買って飲みました。ごめんなさい」


 咎めるつもりなんて、恵流にはさらさら無かった。


「大丈夫? あの人達に、また会ったりしなかった?」

「あはは。大丈夫、大丈夫。あいつら探しまわって歩いてたわけじゃないから」

「うん、それはわかってるけど……」


「ただ、一回転んじゃった」


 恵流が声を上げる前に、陽が慌てて言い募った。

「でも大丈夫。ゴミ置き場のところに突っ込んだだけで、怪我はしてないから」


「ゴミ置き場に突っ込むって……結構派手に転んだんじゃ……」


「うん、杖ついた変なおじいさんとちょっとぶつかっちゃって。よくわかんないんだけど、ふわって飛ばされたみたいにね、ゴミの山に背中から落ちたんだ。でも、全然痛くなかった。だから、心配要らないから」


 要らないと言われても、心配するなと言う方が無理だろう。


「……わかった。そのおじいさんは? 怪我しなかった?」

「うん。転んだのは俺だけ。そのおじいさんに助け起してもらったぐらいだし」

「殴られたとこは? 痛くない?」

「ああ、あれは大丈夫。全然効いてない」



 例の騒ぎのことや、予定を潰してしまったことについて何度も謝る陽を遮り、恵流は気になっていたことを聞いてみる。


「あの人、逆恨みで仕返しとかしてこないかな。お友達の前でコテンパンだったし。工房の場所とか、調べたらすぐわかっちゃいそう……」


 陽は電話の向こうで、呑気にあははと笑った。


「平気平気。うちの工房の先輩達、俺以外はみんな強いから。柔道やら空手やらで凄かったらしいし。乗り込んで来たとしても、回れ右で帰るだろ」


「えと……訴えたりとか、してこないよね?」

「んー、大丈夫じゃない? 先に殴ったのは向こうだし。俺、殴ってないもん。振り回して投げたけど、怪我はしてないだろ。っていうか、そんなに心配しなくても大丈夫だって」



(陽の方こそ、なんでそんなに楽観的なのよ……)


 恵流は小さなため息をついたが、本人がそう言っている以上、それで納得するしか無いだろう。



「あのね、陽。今だから言うけどね……」


 腰掛けていたベッドから降り、クッションを引き寄せて床に座る。ベッドの側面にもたれかかると、べッドが少し軋んだ音を立てた。



「ほんとはちょっと怖かったの。喧嘩なんて初めて見たし、それに陽があんなこと言うなんて、思ってもみなかったし……」

 恵流は少し不安気に、スマホを両手でしっかりと持ち直した。


「あんなこと?」

「あの、角材がどうとかって……」


『うっ、ぁあああああああああ!! あれ! 違うから!!』


 心細そうな恵流の小さな声をかき消す様に、電話の向こうで取り乱した叫び声が上がった。驚いて、恵流はほんの一瞬、電話を耳から遠ざけた。


「あれはね、工房の竹内さんって人の受け売り。ずっと前、忘年会かなんかの帰りに、酔っぱらった大学生に絡まれたことがあったんだ。その時にさ……」

「あ、そうなんだ」

「そう。竹内さんなんて、もっと怖かったよ。俺なんかよりムッキムキだし背も高いし、ただでさえ顔も恐いしさ。相手にちょっと同情したぐらい」


「あはは」


 陽は何故か妙に饒舌だ。いつもより早口だし、声も僅かだが高くなっている。


「でさ、相手が逃げて行った後、シレッと言ってんの。『角材ぶん回すって、嘘は言ってないからな。相手がどう受け取るかは、向こうさん次第だ』ってさ」


「えっと、怖い集団の人と勘違いさせたってこと?」

「そういうこと。相手はうちが木工房だなんて知らなかったからね」

「すごい。頭いいかも」


「いかつい見た目の割にね。でも、その竹内さんに言わせると、ずっと年上の村松さんの方がよっぽど強いらしいんだ。寡黙ですごく優しい人なんだけどね」

「へえ……」


「だから、逆恨み襲撃については安心して。……と、言うわけで。例のやつは忘れて下さい。恥ずかしいから」



 恵流は精一杯の低音を作って言った。


「……こっちは、一日中角材ぶん回してなんちゃらかんちゃら」

『うわあああああああああやめてええええええ!』


 電話の向こうで、陽が悶絶しているのがわかる。


「マジで、自分があの台詞憶えてるなんて、あの時まで自分でも思わなかったんだよ? ましてや自分が使うなんて、思ってもみなかったの! でも、自然に出ちゃってたんだよぉ………ごめんなさい。お願い。何でもしますから、もう言わないで。勘弁して下さい。忘れて下さい。恥ずかしいです」



 あまりの狼狽ぶりがおかしくて、恵流は声を上げて笑った。腹筋が痙攣し、目尻から涙が流れる。そうするうちに、妙な緊張感や不安感は薄れていった。


「ひでえ……恵流、笑い過ぎ」

 そう言う陽の声も、笑いを含んでいる。


「だって……」

 笑い過ぎて咽せながら、恵流は涙を拭った。



「はあ、お腹痛い。でも、いっぱい笑ったらなんか気持ちが落ち着いたみたい」

「俺も。平常心復活したっぽい」

「じゃあ、今日のことで謝るのは、もう無しね.。あと、あの人の言った事、気にしちゃダメだよ。陽がカッコ良くて才能あるから、嫉妬してるだけなんだから。絶対、そうなんだから」


「わかった………恵流、ありがと。おやすみ」



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