第58話 陽と恵流のお正月 


 開いたままの『HEAVY DOOR』の扉。

 その陰から恵流が顔を覗かせたのは、1日の昼過ぎのことだった。



「陽、進んでる?」


 陽は壁から目を離すと、恵流を見て微笑んだ。


「順調。っても、まだ下描き段階だけどね」


 陽がこんなに嬉しそうなのは、きっと、昨夜一緒に初詣に行って深夜までふたりで過ごせたからじゃない。単に、大きな絵を描くことが嬉しいだけなのだと、恵流にはわかっていた。

 それでも、喜びに輝いている陽を見ていられるのは、自分にとっても幸せなことに思えた。



「あの後少しは眠ったの?」


 持ってきた手作り弁当の包みをカウンターに置き、傍にあったスツールに腰掛けた。換気のために扉を開け放してあるので、店内と言えども外気温とほぼ変わらない。コートと手袋は身につけたままだった。


「うん。10時集合だったから、割りと余裕あった。4時間ちょっと寝たかな」

「そっか」


 陽はまた壁に貼り付いて、絵の下描きを施している。

 壁に大きな額を描き、その中のスペースをキャンバスに見立てて絵を描くのだ。本当ならキャンバス部分を白く下塗りした方が良いのだろうが、ペンキ代が嵩むのと時間がかかるので、その作業は割愛してあった。



「もうちょっと待ってて。ここだけ描いちゃったら、休憩にする」

「はぁい」


 恵流はなるべく物音をたてないよう、包みの中身を並べ始めた。

 絵に集中している間の陽が騒音を嫌うのを、恵流は知っていた。作業の妨げになりたくなかった。


 2段のお重に、保温ジャー。おしぼりと、水筒。


 全て並べて大きなバッグを畳み終えた頃、陽も刷毛の後始末を終えた。青い養生シートの上には、いくつものペンキ缶が並ぶ。ドアを開けているとはいえ、室内にはペンキの匂いが漂っている。



「匂い、大丈夫? 具合悪くならないかな」


 軍手を外しながら、恵流の隣へスツールを運び腰掛ける。


「今のところ、大丈夫みたい。それより陽、寒くない?」

「いや、むしろちょっと暑いくらい」


 頭に巻いていたタオルを外し、汗ばんだ額を拭う。ほつれ落ちた前髪を搔き上げ撫で付けると、陽はタオルを首に巻いた。



「で、恵流さん。本日のメニューは」


 うふふ、と悪戯っぽく笑った恵流は、お重の蓋を外してみせた。


「じゃーーーん! おせちです。お母さんと一緒に作ったの」

「おおお、すげえ!!」


「お正月ですから。あと、こっちは……じゃじゃーん! お雑煮でーす!」

「まーじーでー!!」


「ふふ。だって、お正月ですから」


 保温ポットの蓋を開けると、湯気が立ちのぼった。ペンキの匂いの中に、美味しそうな出汁の香りが混じり合った。




 奇妙な状況の中でお正月料理を腹に収めると、陽は少しだけ、店の酒をグラスに注いだ。


「恵流、ウイスキー飲めたっけ?」

「うん。少しなら」


 琥珀色の液体の入ったショットグラスを手渡す。


「お屠蘇がわり?」

「あはは、そうじゃないけど。寒いからさ」


 小さく乾杯して、ちびちびと舐める様に口をつける。甘く芳しい刺激が喉を焼き、腹の中をカッと温めてくれる。


「ごめんな。せっかくの休みなのに、仕事で」

「ううん。楽しいよ。私、こういう店に来るの、初めてなの」

「なんか普段は、酔っぱらい達が床を転げまわったりしてるらしいよ」

「わあ……ディープな世界なんだね……こわーい」


 恵流はウイスキーを舐めながら、店内を物珍し気に見渡している。酔っぱらいどもが市松模様の床に転がっているところを想像しているのだろう。



 年越しパーティーと称して明け方まで営業していた店が、次に開くのは15日。

 一見時間がある様だが、陽には工房の仕事もある。だから、工房の正月休みの4日までに、なるべく作業を進めておきたかった。


「ねえ、せっかくだから、ちょっと見学してもいいかな」

「ああ。楽器と機材に気をつけてね」


 グラスを片手に、ステージに登った恵流の背中に、陽が声をかけた。

「あのさ、この仕事のギャラが入ったら、どっか旅行でも行かない?」


 恵流は首がもげそうな勢いで振り向くと、目をキラキラさせて頷いた。


「うん! 行く! どこに行く?」

「お望みのままに。どこへでも」


 陽の言葉に、恵流はグラスに残るウイスキーを一気に飲み干すと、とびきりの笑顔を見せた。


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