第132話 この世界
『この世界が嫌い』
そんな風に考えたことはなかった。
両親が嫌いだった。
思い切って悩みを打ち明けた自分をあっけなく突き放した両親が、嫌いだった。助けを求めた手を振り払ったくせに、その後まるで腫れ物に触れるように猫撫で声で接してくる両親が、嫌いだった。
教師や学友達には、好き嫌い以前に興味がなかった。宮内を含め、何人か親しくした者は居たが、それはあくまでも表面上の付き合いで、特別な友情を感じることもなかった。
何より、そんな自分が大嫌いだった。
人に興味を持てない、人を信じられない、愛する気持ちにも優しい気持ちにもなれない。
子供の頃からそうだった。自分はどこかおかしいのだと感じていた。
成長して知識が増えるにつれ、自分が恐ろしくなっていった。
冷血漢、モンスター、サイコパス……いつか自分も、そんな言葉で呼ばれる存在になってしまうのではないかと、怯えていた。
……この世界で自分が異質な存在であるなら、誰にも理解されない、愛されない存在であるなら。たしかにこの世界が嫌いで当然なのかもしれない……
「うん……嫌い。俺はこの世界が、嫌いです」
「そっか」
……『そっか?』それだけ? 普通何かあるんじゃないの? 説得とかセッキョーとか、慰めとか?
「……随分軽く流してくれますね」
「いや、流したつもりは無いんだけど」
ずっと悩んできたこと、ひどく辛い経験をないがしろにされた気がして、腹の底が少し熱くなる。
「ならもっと言い様が……普通もっと、何か言いません?」
「いや。俺は別に、何も」
余りにもあっけらかんと言ってのけた陽に虚を突かれ、言葉を失ってしまう。渡辺のその反応に、陽は初めて焦った様子を見せた。
「いや、だって……あの、君の経験は君だけのものだし。不幸とか悩みって、他人と比べてどうこう言えるものじゃないもん。世界が嫌いだっていうなら、『へえ、そうなんだ~』って思うよ。そういうのって人それぞれじゃん?」
なんなんだ、この人……
宏ねえも探偵の佐伯さんも、じっくり話を聞いてくれた。上手く話せない時も、親身になって話を聞いて、理解しようとしてくれた。
でもこの人……何も聞かずに、丸ごと、肯定した?
「人それぞれ……それは、そうだけど……」
……まさか、そんなわけない。
親は「くだらない、聞きたくない」って言ったし、学校の先生も「気のせいだ」って済ませた。宏ねえと佐伯さんは、「いつか変わるかもしれない。悲観せずに長い目で様子を見よう」って感じだった。でも、この人は……
「この世界を好きじゃなきゃ生きていけないってわけじゃないし、別にいいんじゃないの? まあ、好きな方が生きやすいとは思うけどね」
世間話みたいなノリでそう言い、ヘラっと笑った陽に、渡辺はなんとも言えない居心地の悪さ、反発感を覚えた。脳がモゾモゾする。
嘘だ。こんな話を聞いたら、もっと何か言う筈だ。もっと何か……否定したり、説得したり、気休めみたいなことや理解を示すようなことを。だって、今まではみんなそうだった。
「俺、昔から……人が好きになれないんです。親友と思える友達も居ない。恋愛感情とかもわかんない。宏ねえは好きだったけど、話を聞いてくれたから懐いてただけだったのかもしれない。ほんとに好きだったのか自信無い」
勝手に言葉が迸る。
自分の言葉に縋り付きながら、自分の言葉に押し流されている様な、奇妙な感覚だった。止めなきゃと思うのに、言葉が勝手にこぼれていく。
何か、言って欲しい。何を言われたいのか、自分でもわからない。でも、何か。
「誰も好きになれずに、誰からも好かれずに、ずっと孤独なままです。周りの人たちは、普通に恋愛したり友達付き合いしてるのに、なんで自分はそれが出来ないんだろう……周りは楽しそうに笑い合って歩いて行くのに、自分だけひとりぼっちで取り残されていくみたいで」
「……怖いの?」
「うん。怖い……怖くて悲しくて、辛い、です。でも、冷めてるっていうか、ちょっと諦めてる感じもあって」
「どうでもいいや、って?」
「はい」
そして、この画家は信じられないことを言った。二本指でつまんだ鉛筆をプルプル振って弄びながら。
「うん。わりとね、どうでもいいんだと思うよ?」
……何だ、この人。そう思うのは、今日何度めだろう。
どうでもいい? どうでもいいだって?
「そりゃ……大月さんにとっては他人事でしょうけど」
「そうじゃなくてさ。まず、周りがそうだからって、自分も同じじゃなきゃいけないわけじゃないじゃん? 俺としては、別に人と違っててもよくね? って思うんだけどね」
鉛筆のプルプルを、今度は顎にペチペチと当てながら、陽は言葉を選んでいる様子だ。
「でも渡辺君はさ、皆と一緒がいいけど、そう出来ないんでしょ? なら、しょうがないじゃん?」
「しょうがない……ですか」
「自分で選べないことって、どうしてもあるからさ。自分で出来ることなら頑張るし、周りを変えられるならそうすればいい。でも、悩んでも苦しんでも、泣いても喚いても、どう足掻いても無理ならさ、とりあえず、今の状態を受け入れるしかないじゃん?」
「……受け入れられないから悩んでるんですが」
「そうだけどさぁ。嫌いな自分、嫌いな世界でもさ、それしか無いんだし。なら取り合えず、持ってるものでなんとかやってくしかないじゃん?」
「……身も蓋もない……」
「まあね。でも、どうしようもないことを悩むのは、時間の無駄じゃない? マジで。そんならいっそ開き直って、絵でも描いてた方がマシっていうか」
一瞬、期待してしまった。この人も、同じなんだろうか。だからこの人の絵に、こんなにも惹かれるんだろうか。
「大月さんもこの世界が嫌いなんですか? だから絵を描くんですか?」
「え。違うよ」
意外なことを言われたかのように、陽は目を見開いた。
「そういう現実逃避っぽいのも、絵を描く動機として否定はしないけどさ。俺はこの世界がわりと好きだもん。クソみたいなことや悲しいこと、醜いものもいっぱいあるけど、それでも好きだよ」
……同じじゃなかった。落胆する気持ちもあったが、それ以上に驚いた。
「この世界が好き」という、あまりにもストレートな言葉に。そんな言葉、生まれて初めて聞いた気がする。
「見ようによっては、という注釈つきだけどさぁ……この世界は、とても美しいよ」
嘘だ。
そんな、当たり前みたいな顔して言うけど……そんなの、嘘だ。
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