第133話 揺れ動く
「……俺にはそう思えない」
「うん。それもまた、人それぞれ」
そう言い放ち、陽はまた絵を描き始める。
……ちょっと待ってよ。話終わらせないでよ。あんまりじゃないか。
いつも不満だった。自分にも周りにも、いつも不満を抱いていた。周りの連中だって、しょっちゅう何かしらに文句つけてた。
なのに、この人は。
『この世界は、美しい』?
「どうすれば、そんな風に見えるんですか」
「んー……気の持ちよう?」
ことも無げにそう言って、陽は楽しそうに鉛筆を走らせている。
「気の持ちよう……って。わかりません。全然わかんない! それで結局、俺はずっと辛いまま?」
「うーん。開き直れないなら、そうなるかもねぇ」
ちょっと困った様子で眉尻を下げたのは、同情を示しているのだろうか。ただ、相変わらず手は止まらずに絵を描き続けている。
違う。俺が欲しかったのは、こんな言葉じゃない。あんな素敵な絵を描く人なら、何か言ってくれると思ったのに。救ってくれると思ったのに。
要は、「諦めろ」ってこと?あんまりじゃないか。
「……大月さん、キツイっす」
「あはは、ごめんごめん。まあ、あれだ。無人の建物ってのも、趣があって悪くないよ。それに、綺麗な建物だったら向こうから人がやって来るかもしれないし」
……建物の話、続いてたんだ。すっかり忘れてた……っていうか!! そうじゃなくてさあ!
「それ、慰めになってません」
「別に慰めてないし。あ、じゃあさ、せめて宏ねえさん? の写真ぐらいは置いてあげようよ。あと、ピロちゃんは入居決定ね。陽当たりのいい広い部屋を用意してあげて、と……あ、宮内君は? 仲良いんでしょ?」
「ええまあ、上辺だけですけど」
「上辺だけでも、やってたことは友達付き合いには違いないじゃん? じゃあ、宮内君は飛行機の窓から顔を出して……海外からの友情出演ってことで」
……絵の話はもういいよ!
内心そう叫びたい渡辺に構わず、陽は楽しげに鉛筆を振るい、何事か描き足していく。
「俺も入っちゃお。俺は庭から部屋の中を見ていまーす」
迷いのない動きで素早く腕を振り、スケッチブックの上にザクザクと描きあげていく。こちらの心境など一切構わず、鼻歌でも歌い出すんじゃないかと思うくらい、楽しそうに見える。
「出来た」
ものの10分足らずで、陽は満足げな微笑みを浮かべた。ニコニコしながら、渡辺の方へスケッチブックを滑らせる。
粗い線で描かれたその絵を目にした途端、喉の奥が詰まって声が出せなくなった。
広い部屋の床に胡座をかき、ちょっと困ったような、でもすごく優しい笑顔で、頭の上に乗って前髪をついばむピロちゃんに向かい、そろりと手を差し伸べている自分。
窓の外では、庭の木陰に半分隠れながら、極度にデフォルメされた陽がそれを見ており、上空に小さく描かれたオモチャみたいな飛行機の窓からは、真面目くさった表情の宮内の細い顔が飛び出している。
窓辺に置いてあるたったひとつのフォトフレーム。光が反射して中の写真は見えないが、宏ねえが笑っているはずだ。
喉のつかえを突き破って何かが飛び出してきそうだ。それを堪えるため、渡辺は大きく唾を飲み込んだ。
「……俺、こんな顔してますか」
「してるよ。ピロちゃんと遊ぶ時、すごく優しい顔で笑ってた。自分で気づいてないだけだよ」
……そうなんだろうか。本当に、自分はこんな表情が出来ているのだろうか。
慈しみ深い柔らかなその表情は、少し宏ねえに似ている気がする。それだけで、なんだか少し安心するのが不思議だった。
「……ピロちゃん、宏ねえから譲り受けたんです。ピロちゃんを頼むって、最期の手紙に書いてあって」
「うん。なんとなく、そうかなとは思ってた」
本当は、動物なんて大して好きじゃなかった。
唯一、関心が持てるのは、建造物だけだった。だから自然に、建築を学ぶ道を選んだ。人工的で冷たくて硬質なものに触れていると安心できた。
なのに。
絵の中の自分とピロちゃんは、あたたかく親密で、とても幸せそうだ。表情だけでなく全体的な雰囲気まで、元気な頃の宏ねえとピロちゃんみたいだ。
大月さんには、わかってたんだ。
さっきは谷底へ突き落とされたような気がしたけど、ちゃんと見てくれてた。聞いてくれてた。宏ねえとピロちゃんのことも、自分を通してわかってくれたみたいで嬉しかった。
嬉しいような、照れくさいような。そのくせちょっと泣きたくなるような。
渡辺は誤魔化すように人差し指で前髪を払い、小さく鼻を啜った。
「……大月さんは、なんか睨んでる。やけにマンガっぽいし」
「あはは、睨んではいないんだけどさ。俺、自分の顔描くの苦手で」
楕円形の輪郭に、ひっつめた髪。耳の下から尻尾のように突き出したチョンマゲ。
直線で表した眉と半円状の目、引き結んだへの字口が木の陰から覗き、部屋の中を窺っている。
その顔をまじまじと見るうち可笑しくなり、ついクスリと笑ってしまう。
「なんかすごい怖い顔してる」
「うん。俺もピロちゃんと遊びたいな。でも、楽しそうだし邪魔しちゃ悪いかな。もうちょっと待とう……くそう、早く遊びたい……って、ジリジリしながら覗いてるんだ」
絵の中の彼とは全く似ていない楽しそうな笑顔でこちらを見守りつつ、鉛筆を振ってピロちゃんにちょっかいを出したりしている。
渡辺は名残惜しげに絵を眺めたまま、スケッチブックをテーブルに置いた。
大月陽という人は、話しているとわけがわからないのに、その絵を見るとやはり何故か癒される。不思議だ。
「やっぱり、大月さんは優しいんだと思う。絵を見てると、なんかつられてニコニコしてきちゃうから」
「違うよ渡辺くん。俺、べつに優しくないし、いい人でもないよ」
渡辺がスケッチブックから顔を上げると、陽はピロちゃんの首を優しく掻いてやりながら、微笑んだ。
「ただ、まわりにあんまり関心が無いっていうか……基本的に、他人に何も期待してないだけ」
窓から差し込んでいた陽射しが翳り、室温がすぅっと下がった気がした。
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