第162話 台風襲来


 西から台風が近づいている。


 強い風と激しさを増す雨の中、優馬はただ闇雲に歩き回っていた。



 待ちに待ったお祓いを明日に控えたこの日、台風が予想以上に速度を増し、飛行機や新幹線の運行が止まってしまい、戻ってくる筈だった神主が足止めされているのだ。

 それに加え今朝、栞が洗い物をしていると突然食器が割れ、顔と指に怪我を負った。


 祓うことを、何かに妨害されている。優馬はそう感じた。


 台風だけなら、季節的に有り得ることだ。こうまで焦らなかったかもしれない。


 だが、栞が怪我をした。

 幸いそれほど深い傷ではなかったが、仕事柄注意深く食器を割ることなどほぼ無かった栞が、炊事用のビニール手袋を嵌めていたにも拘わらず、怪我をした。しかも割れたガラスの破片が飛んで、目のすぐ下を掠めたのだ。



 ……まさか、栞にまで?!


 ただの偶然だと思おうとした。

 が、一度頭に取り付いてしまった思いは消えず、居ても立ってもいられなくなってしまった。




 陽はあれから、今までに増して絵に没頭している。

 清水恵流を描いたあの時以上に、取り憑かれたように鬼気迫る勢いで描き続けている。まるで、何かに追い立てられているみたいに。


 そんな様子を心配する気持ちも、もちろんあった。無理にでも休憩させるべきなのだ。

 だが正直、今はそれどころじゃない。


 一刻も早く、あいつを……謎の老人を見つけなければ。

 お祓いが出来ないのだとしたら、直接会って対決するしか道は無い。




 佐伯の追跡調査によれば、謎の老人に出会うのはひと気の無い細い路地である確率が高かった。



(どこだ。どこにいる。出てこい、ステッキじじい)


 薄暗い空の下風雨に晒されながら、路地裏から路地裏へ、優馬は猛然と歩き続けた。





   † † †





 強風が、ガタガタと窓を揺らす。

 マンションの中層階とはいえ、風で何か飛んできたらガラスが割れるかもしれない。


 栞はカーテンを閉め、我が子を抱き上げて窓の側から移動させた。

 優侍は外の様子に全く動じることなく、だーだーと何やら話しながらおもちゃで一人遊びを続けている。


(優馬より、この子の方がよっぽど肝が据わってるわね)



 栞は手鏡を手に取り、今朝の傷をチェックした。

 目の下を横切るようにうっすらと滲んでいた血は、完全に止まっている。指先で触れてみたが、痛みも無い。

 指の方の傷は、まだ少しズキズキと熱を伴う痛みがあった。




 今朝の優馬は、少し様子がおかしかった。


 確かに私は慎重なタイプで、普段から物を落としたり壊したりすることはほとんど無い。

 それに、あの食器の割れ方はなんだか不思議だった。シンクに置いてあったグラスを手に取った瞬間、ピシッと音を立てて亀裂が入り、弾けるように割れたのだ。


 私がそう言うと、優馬は一瞬、愕然とした表情を浮かべた。

 すぐに取り繕ったけれど、慌てふためいているのは歴然だった。


「ガラスの欠片を踏むから」と、わざわざ私を抱き上げて優侍と共にリビングへ隔離、ソファに座らせて素早く傷の手当てをしてくれた。

 そして、丁寧すぎるほどに床を掃除し、手のひらで何度も何度も床を擦り破片の有無を確認して、洗い物の続きをやってくれた。


「嬉しいけど、有り難いけど。そこまでしてくれなくても、大丈夫よ」


 苦笑まじりにそう言った私に、優馬は明らかに無理に作った硬い笑みを返した。


「……そうだな。心配し過ぎだよな」


 動揺を抑える様に下唇を噛んでいた優馬だったが、すぐに足早に部屋を出ると、家中を引っ掻き回してお守りだのパワーストーンの付いたストラップだのを集めて戻って来た。出産に際し、出先で片っ端からお参りして集めたお守りの類は、両手で掴んでもこぼれ落ちるほどだ。


「これ、持ってて。今日は家から出るなよ?」

「うん……こんな天気だし、出る予定もないけど」


 戸惑う私に構わず、優馬はお守りの束をしっかりと握らせた。


「よし。俺は仕事行くけど、何かあったら電話して。あ、揚げ物とか、危ないことはすんなよ?」

「危ないこと? 揚げ物が?」


「あ、いや……」

「優馬、どうしたの? 今日なんか変よ?」


 何かトラブルが起きた時、優馬は殊更鷹揚に構える。別に大したことじゃない、とばかりにのらりくらりしてみせ、飄々と解決するタイプなのだ。

 そりゃ、私の出産の時は盛大にあたふたしていたけれど、こんな風な……なんだろう、焦燥感? 悲壮感? のようなものは見られなかった。



「いいんだ。何でもない。ホラ、怪我したしさ。気をつけてねって」


 優馬は曖昧に笑って、私の頭をポンポンと撫でた。そして、「いい子にしてるんだぞ」と、優侍にも同様に。



「じゃあ、行ってくるから」


 そう言って背を向けた時に一瞬見えた優馬の横顔は、不安を覚えざるを得ないほど、固く険しかった。




「……変なパパだねえ、優侍?」

 栞は不安をかき消す様に、子供のお腹をくすぐった。キャキャ、と無邪気に笑う我が子の声に、少しホッとする。


「よし。晩御飯は、パパの好きなものにしよう。ね?」


「んねー」


 通じているのかいないのか、男児はご機嫌で某キャラクターのおもちゃを振り回した。



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