第161話 台風が近づいている


 今年初の大型台風が近づいているとの予報通り、遠くに黒い雲が見える。生ぬるい風も、どことなく湿っているようだ。


 朝一で関係者との打ち合わせを終えた五島が病院に着いたのは、もうすぐ面会時間が始まるという時刻だった。雨が降り出す前に到着出来たのは幸運だ。

 前日の検査結果も不調に終わったとのメールが入っていたので、夏蓮はきっとがっかりしているだろう。嫌な天気になりそうだし、何か明るい話でもしてやれるといいのだが。


 そう思いながら病院の前庭を渡っている時、電話が鳴った。何だろう、病院からだ。


「もしもし」


 不審に思う間もなく電話の向こうから聞こえてきたのは、担当ナースの慌てた声だった。


 夏蓮が、突然暴れ出したというのだ。物を投げテレビを引き倒し、大声で泣き叫んでいると。


 今から来られるかとの問いに「すぐ行きます」と答えるより早く、五島は駆け出していた。




 病室に近づく前から、夏蓮のわめき声と看護師たちがとりなす声が聞こえていた。

 五島が病室に飛び込んだ時、看護師たちは3人がかりで夏蓮を抑え込もうとしていたが、かなり苦戦していた。五島に気づいたひとりの看護師が、ホッとした表情を見せた。



「離して! 私に触らないで!」


 五島は夏蓮が枕を振り回し暴れているベッドを大回りし、頭の方へと回り込む。


「皇月さん、落ち着いて。いま先生が来ますから」

「鎮静剤を入れますからね~」


「いや! 陽がいいの! 触らないで! 出て行って!」

 振り回す腕を捕まえようとした看護師が振り払われ、勢い余って弾き飛ばされる。



「夏蓮! 止めろ! どうした」


 五島の声に振り返った夏蓮は、一瞬動きを止めた。振り乱した長い髪が顔に張り付き、額は汗で光っている。見開いた目に、みるみる涙が溜まっていく。


 か細く震える声が、こぼれ落ちた。



「……陽に、会いたい……」



 振り回していた枕を抱きしめたかと思うと、膝の上に叩きつけた。


「陽に、会いたい! 会いたいの!」


 ボロボロと涙を零し泣きじゃくりながら、何度も枕を叩きつける夏蓮を背中から抱え込み、五島は落ち着いた声で話しかける。



「わかった。すぐに呼ぶから。もう暴れるんじゃない」


 夏蓮は暴れるのを止めたが、今度は枕に顔を埋めて頭を振った。



「……嫌。駄目よ、呼ばないで!」


 枕越しのくぐもった声は、嗚咽している。看護師たちが手を出しかねオロオロと見守る中、担当医師が入ってきた。



「……会いたいの。会いたいけど、会いたくないの」


 小さな子供のようにしゃくりあげ、何度も首を振る。


「大好きなのに、憎くてたまらないの。悔しいの。心が、苦しいの……大好きなのに、どうして」



 ぐったりと力の抜けた腕からそっと枕を抜き去り、ゆっくりとベッドの上に横たえる。夏蓮はされるがまま、しゃくりあげ続けている。


 看護師が素早く準備を終え医師が鎮静剤を投与する間、五島は夏蓮の顔に張り付いた髪を綺麗に撫でつけ、汗と涙に濡れた頬を優しく拭ってやった。


 子供の様に悲しみに顔を歪ませ虚ろな目をした夏蓮が、薄れてゆく意識の中、消え入りそうな声で五島に訴えかけた。



「……むーちゃん、たすけて」


 スイッチが切れたように瞼が閉じられる。と同時に、両の目尻から涙の粒が零れ落ちた。



 医師たちがほっと息を吐く中、床に転がったテレビは消えずに騒がしい音を立て続けている。

 画面の向こうでは、何か海外のイベントだろうか、盾の様な物を手にした大月陽がステージに立ち、フラッシュを浴びながら取材に答えていた。



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