第163話 対峙
寂れた見慣れぬ裏路地に入った時、強い風が吹き、優馬の傘が煽られて飛んだ。
(くっそ……)
数歩後戻りして傘を拾い、顔を上げた時。
目の前に、男が立っていた。
黒い山高帽、真夏に似つかわしくない黒のロングコート。
あまりに突然のことに、優馬は傘をさすのも忘れ呆然と立ち尽くした。
「……私を呼んだのは、君だね」
言葉だけ聞けば問いかけるようだったが、嗄れたその声は断定的だった。
「何かを強く思い願う声が、私を呼ぶ。しかし、私自身を呼び出したのは、君が初めてだ」
にんまりと笑った口元から、黄ばんだ前歯が見えた。優馬の背中が、ぞっと総毛立つ。
雨に濡れることを全く厭わぬ様子で、醜い老人は優馬を見上げていた。が、その隻眼は未だ帽子のつばの影に隠れている。
「君の望みは、何だね」
「……陽。大月陽に、何をした」
ようやく絞り出した声は、唸るように低く、恐れよりも怒りが勝っていた。
「ほう、あの青年。彼の知り合いかね。良い目をした青年だ」
「陽に何をした。答えろ」
老人はゆっくりとした動作でステッキを持ち替えた。そしてその取っ手で、帽子のつばをほんの少し持ち上げる。
黄色く濁った隻眼がぬめぬめと光り、優馬を無表情に見返している。
「呼び出しておいて、随分と喧嘩腰じゃないか」
「うるさい! さっさと答えろ」
老人は、ふん、と鼻を鳴らし、ステッキを濡れた道路にぶつけた。コツン。
「まあ、いい。若さというのは性急なものだ」
優馬は今や、牙をむいて唸り出さんばかりの様子だ。それほどこの老人は不気味で、警戒心を呼び起こした。
「私が彼に、何をしたか。そう……私は彼に、望むものを与えた。彼の望みを叶える、力を」
空に閃光が走る。割れるように、雷が鳴った。
雨の音が大きくなり、老人のしゃがれ声を遮る。
両手を固く握りしめた優馬が、醜い老人に一歩近づいた。
「力? 力って何だ」
「力とは、何か。君は根源的な質問をする。そういう人間は嫌いじゃない。知識というのは奥深く、簡単には会得しがたいものだ。だが人は、あまりにも思い上がり」
「黙れ。戯言は聞きたくない。お前が、陽にしたことを答えろ」
優馬は湧き上がる嫌悪感を押しやり、また一歩、詰め寄った。
「やれやれ。まあ、いい。力というのは、言葉そのままの意味だ。私は単に、力を授けた。あとは彼が……彼らがそれを仕上げた」
「わかるように説明しろ!」
苛立った優馬が声を荒らげる。
「全く、せっかちな男だ。あー、与えられた力の働き方は、人それぞれだ。各々の特性により、それぞれが全く異なる作用をもたらす。彼の場合は、自分自身の特性と周囲からの影響によって、彼のためのシステムを独自に作り上げた」
「システム?」
「さよう。彼は与えられた力を変換装置として使った。いや、少し違うな。周囲の人間のエネルギーを取り込み己の力に変えて放出する……」
優馬が眉を険しくする。
「……アンプ、みたいなものか?」
「ふむ。まあ、遠くはないが……システムという表現が悪かったか」
老人はコツンと杖を鳴らした。
「彼を思い愛する人の心を吸収し、彼はそれを作品に変える。全くの無意識のうちに」
「……違う。それは嘘だ」
「嘘? 何故そう思う」
「陽には元々才能があった。お前と出会う前から、彼は素晴らしい絵をいくつも描いていた」
「さよう。彼には才能がある。だが考えてみたまえ。これだけの短期間で、しかも芸術の分野で、だ。世界的に評価され、金銭的にも成功する人間が世の中にどれだけいると思う?」
「それは……」
「無論、ゼロにいくら掛けてもゼロであるように、無から有は生み出せない。空っぽの畑にいくら水を撒いたところで、何も育ちはしないということだ。だが彼は、元々の才能に加え、特別な力を得た。才能の芽を早く大きく育てるには、それなりの養分が必要だのだよ」
「じゃあ、周りの者が不幸に見舞われる理由は? 陽を思っている人が不幸になるのは何故だ」
「わからんかね。彼らは皆、自分のエネルギーを彼に注ぎ続けているんだよ。人の持つエネルギーというのは、運や気力、精神力、または生命力、そういったものの総称だ。本来自分が保持すべきエネルギーを、気づかぬうち彼に ”養分” として分け与え続けてしまう。ついつい目をかけ、自然と手を差し伸べてしまう。それが、大月陽の持つ『特性』だ」
老人は、眉を吊り上げニヤリと嗤った。
それはまるで、思い当たる節があるだろう?とでも言っているように見えた。
「そして、与えられたエネルギーを絵を描くことに変換する。それが彼の得た『力』だ」
「なんで、そんなことに……」
「さあね。さっきも言っただろう。彼とその周囲の人間が、そのシステムを生み出したのだ。私の知ったことではない。だがひとつ、推測できることはある」
顔に張り付いた嗤いが広がる。地面が裂け、地獄への入り口が広がる様を連想させる。優馬は思わず身震いし、両手を固く握りしめた。
「彼の望みは、『絵を描くこと』だった。それを叶えるためには、それなりの対価が必要になる。支払うものが大きければ大きいほど、彼は素晴らしい絵を描ける」
「大きな対価、とは何か。彼にとってそれは、『周囲の人間の幸福』だった」
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