第91話 画家と音楽家


 からりと晴れた寒空の下、冷たい風が体の輪郭を際立たせる。薄暗い店内から見える街路樹は葉を落とし、枯葉が空っ風に吹かれて歩道を転がって行く。



 1月も終わりの日曜、陽は藤枝の迎えでギャラリーへ絵を納品しに来ていた。

 そこへ示し合わせたかのようにタイミング良く現れたシルバーグレーの紳士が、その絵を仔細に眺めている。


 ひとつは、シャーベットの様なイエローオレンジと萌え立つ若草色が折り重なり複雑な濃淡で渦を巻いている。ところどころに水色と明るい紫色の飛沫が浮かび上がり、その間をくぐる金茶の太い帯が掠れた曲線を描く。軽快で柔らかな銀色の線が風に吹かれているかのように踊り漂っている。


 もうひとつは、まろやかな象牙色と心を打つ深い青がひしめき、銀と白の細い直線が様々な角度、長さでキャンバスを横切っている。白い細線からは雫が滴り落ちる。

僅かにアップルグリーンとコーラルピンクの曲線が見え隠れするが、不思議なことに最初はその存在に気付かない。一旦気付いても、目を離すと迫り来るような深刻な青色に飲み込まれて何故か見失ってしまい、目を凝らして僅かな色を見つけたくなってしまう。




 銀髪の紳士、世界的な指揮者である夏蓮の叔父は、並べられた2点の絵をひと目見て言い当てた。


「こっちが『パッサカリアとフーガ』、この青い方が『シャコンヌ』だね」


「わかりますか」



 驚く陽に向かい、にっこりと笑いかける。


「ああ。ふたつとも曲の雰囲気がよく出てる。繰り返される変奏、跳躍するリズム、べルトーン……色調、スケール感、螺旋を描いて昇っていくような感覚……」


 陽の戸惑い顔に気づき、首を傾げて促す。陽は言いづらそうに両手を腰の辺りに擦り付けた。


「あー……俺、音楽は全然わからなくて。実は、この2曲ともあんまり記憶に無いんです」


「……?」



「君は黙っていなさい」とばかりに、陽の背後に控えていた藤枝が進み出て滔々と講釈を始めた。


「音楽は彼の中で映像に変換され、たくさんのメモをとるが如く絵に描き、それらの絵を複合、咀嚼、昇華してまとめ上げたのがこの2点の作品です。目には見えぬ音の連なり。彼が感じた音楽が、彼の才能により吸収され目で見える形となって顕われたのが、まさにこの絵なのです」


 芝居っ気たっぷりに振り回した腕を胸に当て、緩く頭を振って目を閉じる。


「たとえ彼の中から音の記憶が消えてしまっても、音楽が彼の細胞を震わせその精神を揺るがし、迸る情熱に依って描かれたこれらこそが」


「気に入ったよ、大月くん。傑作だ。実に興味深い」



 自らの言葉により陶酔していく藤枝の声を遮り、陽の肩を叩く。


「この絵を是非譲っていただきたい。もちろん、まだ買い手が見つかっていなければということですが。それと、少し話をしたいんだが……この後、お時間はありますかな?」



 藤枝のギャラリーの最奥に、売約済みの赤いリボンが付いた2点の絵が並べて掛けられた。



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藤枝「納品直後に買い手が付くなんて、そうそうありません。もちろん、この私が手を回したのですよ。他にも諸々……ふふふふ」


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