第114話 せめてもの


 電話の向こうから、水音が微かに聞こえている。栞が食器を洗う音だろうか。特大のスコールのような夏蓮の来訪の後には、それは余計に穏やかに感じる。



 優馬に言われるまま、陽は通帳を開いた。高校3年の時に父親が蒸発した際に残していった、陽名義の預金通帳。


 前のアパートの家賃1年分以上に相当する金額が残されていたが、この部屋に越してからは一度も開いていなかった。

 父親に捨てられた以上、自分の収入のみで生活していくのだという、意地にも似た覚悟もあったが、正直、こんなもの見たくもないという気持ちの方が強かったのだ。



 優馬が指定してくるページを開いてみると、いくつかの入金が確認出来た。


「不定期だし金額もまちまちだけど、それ入金してるの、お前の親父さんじゃないか?」

「え‥‥」




   † † †




 電話越しに、陽が預金通帳をめくる音が微かに聴こえる。優馬も手元のコピーに再び目を落とした。


 金額は数万円、ひと月に2度の時もあれば2~3ヶ月間の空くときもあったが、この5年間、断続的に入金されていた。最後の入金は、3週間ほど前だ。


 優馬が通帳のコピーを確認しながら指摘すると、陽は低い声で呟いた。


「なんだよ、これ……何のつもりだよ。ったく、ふざけんな」


 長い沈黙の後の陽の声には、最初の戸惑いは消え、僅かに怒りが籠って聞こえた。優馬はなるべく軽い口調に聞こえるように気を配る。知り合いの近況報告でもするみたいに。


「何のつもりかは知らないけどさ、とりあえず元気に……かどうかはわかんないけど、生きてるっぽいじゃん?」


 答えず、沈黙している。まあ、色々複雑なのだろう。当たり前だが。



「ま、無事みたいで良かったじゃん。つーわけで、その口座はまとめずにそのまま残しとくからな」


 一方的ではあるが、陽の唯一の肉親の生存確認ツールなのだ。スタジオ設立にあたって整理してしまう訳にはいかない。


「……わかった」


 そう答えた陽の声にはほんの少し動揺が現れていたが、優馬はそれに気付かないふりをした。



「で? さっき通帳返しに行った時、部屋に居なかったけど」

「……ああ、夏蓮が来てて。駅まで送りに行ってたんだ」


 陽の声が少し明るくなり、洟をすする音が小さく聞こえた。が、それはどうでもいい。


「あれ? カレンさん、来週まで地方って言ってなかったか?」

「うん……なんか、ちょっと時間が空いたらしくて」



……親父さんの件で生じた、俺のこのヤキモキを返せ。


「お前ね……こっちが朝からヒーコラ走り回ってんのに、いい身分じゃねえか」

「ごめん、ごめんって。明日から死ぬ気で建て込みするから! 頑張るから!」



……全く、こっちの気も知らずに。だが、電話の向こうの声に笑いが滲んでいる。無理して笑ってるのかもしれないが、まあ、良しとするか。



 優馬の手の中で、陽の部屋の合鍵がチャリチャリと音を立てた。


 先日、恵流の両親に絵を渡しに行った際に返されたという、陽の部屋の合鍵。


 絵を渡して帰ってきた陽の真っ赤になった目を思い返しながら、優馬が引き継ぐことになったその合鍵をそっと握りしめ、心の中で語りかける。



(恵流ちゃん、許してやってな。あいつも色々大変なんだ……)



______________________________________



優馬「親父さん、絵葉書でも送ってくれりゃいいのにな」

陽「要らないよ、そんなの。どうせフラフラ写真でも撮ってんだろうけど……ま、どっかで生きててくれればそれでいいよ」


優馬「 ………グスッ」

栞「なんで優馬が泣いてるのよ」

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