第113話 胸の炎


 陽の胸には、美しい薔薇のつぼみがある。


……いや、薔薇のつぼみかどうかはわからない。

 が、とにかく、赤ちゃんが両手を合わせて少し膨らませたみたいな形の、もしくは灯された炎の様な形の、美しい紅の痣があるのだ。


 胸の真ん中に咲く痣を初めて目にした時、夏蓮はほんの一瞬、畏怖を感じた。禍々しいまでに美しい紅に、怯んだのかもしれなかった。


 そっと指先で触れると、陽はピクリと身を震わせた。


「痛い?」


 痛みも無いし、身体の異常でもないのだと陽は笑った。



 痣に唇で触れると、頭の芯が甘く痺れた気がした。


 ほんの少し舌先を這わせた時、陽と同じ場所、胸の真ん中が、ギュゥッと引き絞られた。急に息が出来なくなり、夏蓮は目を閉じて陽にしがみついた。



「……どうかした?」

「いま、胸がギュゥってなったの……まるで、魂と魂が固く結びつけられたみたいだった」


 引き絞られた感じは一瞬で過ぎ去ったが、胸の奥にはまだ余韻が残っていた。大きく息をつくと、息が少し震えた。


「……もう、大丈夫」



「きっとさ……ほんとに結びついたんだよ」


 眠たそうな声の陽を見上げると、目が合った。

 いまにも眠りに落ちそうなのに、その瞳は星空を映す綺麗な水を湛えた湖みたいに煌めいていて、引き込まれてしまう。


「だって俺達、運命の恋人同士なんでしょ?」


 眠た気な目で、陽が優しく微笑んだ。


……この人は、本当に信じているのだろうか。陽を手に入れる為に、いや、屈服させる為に私が放った、思いつきの戯れ言を。



「そうよ……アポロンとヴィーナス」


……まさか、そんな筈は無い。それじゃ、純粋を通り越してただの馬鹿だわ。きっと、全て分ったうえで、口を合わせているだけ。



 そう思っても、陽の瞳はどこまでも深く透き通っていて、とても心にも無いことを言う人間には見えない。


 この人には、邪心とか澱みとか、妬み嫉み、猜疑心、ドロドロと渦巻く穢れた感情などは無いのだろうか。いや、そういうものが全く無い人間なんて、居るはずが無い。でも、この人は……この瞳は……そういうものを隠し持つには、美しすぎる。



 伸び上がって、陽の顔を両手で挟み瞳を覗き込む。

 こちらを見つめ返す瞳はやはり、星空を映す、冷たい湖。


 もし、この湖にもぐりこめたら。


 押し入って、掻き分けて……一番奥に辿り着いたら、何が待ち受けているのだろう。

 それが何であろうと、私は印を刻む。これは私のものだと。永遠に消えない印を、刻み付けたいと思う。深く、ふかぁく………




   † † †




 短いながらも充実した時間を思い出しながら、夏蓮は薄く微笑み、倒した座席に背を預けた。名古屋へ向かう新幹線は、最終便だというのにあらかた指定席が埋まっている。



 ほんの数時間の逢瀬。

 それだけのために、カズの呆れ顔にも構わず新幹線に飛び乗ってしまった。

 最終で向こうに着けば明日の仕事に支障が無いとはいえ、こんなことをするのは初めてだ。普段は余裕を持って移動し存分に休息を取り、万全のコンディションで仕事に臨むのに。


 まさかこんなに、しかもこんな短期間で、陽にのめり込んでしまうなんて思ってもみなかった。

 私はいつも、追いかけられる側だった。ちょっとした微笑みや視線という餌をちらつかせさえすれれば、思う通りに相手は私に夢中になり追いかけた。



 ちょっと手こずったにせよ、初めは陽も同じだと思っていた。でも。


 陽に会う度に、彼のことをもっと知りたくなる。

 表情は読みやすいのに、深いところに窺い知れない何かがあるように感じる。それが何なのか知りたくて、更に陽を求めてしまう。


 それだけじゃない。

 説明出来ない、不思議な何か。どうしようもなく惹き付けられる何かが、私を陽の元に走らせる。




 運命の恋人。

 アポロンとヴィーナス。


 自分が放った言葉の罠に、私は捕らわれてしまったのかもしれない。

 だとしても、そこから逃げるつもりは無い。



 夏蓮は流れていく窓の外の夜景から視線を逸らし、目を閉じた。


 捕らわれの身になったとしても、私は高く足を組んで優雅に座り、羽根布団とふかふかのソファ、美しい食器で供される食事と酒を、当然のように要求する。それが私だ。

 自らが仕掛けた罠の真ん中で婉然と微笑み、陽もろとも深く搦め捕ってしまうのだ。誰にも切り離せないほど、深く。



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