第93話 真相



 うろたえた声の天本が電話してきたのは、遅めの昼休みを終えた優馬が午後の仕事に取りかかろうとしているときだった。



「陽がおかしいんだ。こっちじゃどうにもならない。助けてくれ」


 そう繰り返すばかりで、一向に要領を得ない。普段の天本を知っている身として、かなりの緊急事態だと察せられた。

 何食わぬ顔を装い同僚に外出を告げ、ホワイトボードに名前を書き入れると、優馬は急いで工房へ向かった。



 10分とかからずにタクシーで工房へ着くと、静江さんが泣きそうな顔で走り寄り、陽の部屋を指差した。天本さんがドア越しに何やら話しかけ、ドアを叩いている。工房の奥では、竹内さんがオロオロと歩き回り、窓から外の様子を覗き見てはしきりに額を擦っていた。


「どういう……?」

 問いかけた優馬に、「私にも、何がなんだか。木暮くん、お願い」と懇願し、静江は鍵を握らせて背中を押してくる。


 優馬が急いで階段を上がると、天本がホッとした表情を浮かべた。


「ああ、木暮くん、急に呼び出してしまって済まない」

「いえ、何がどうしたんです? 陽は?」



 聞けば、陽にちょっとしたお遣いを頼んだのだが、真っ青な顔で帰ってくるなり預けていた社用の財布を押し付けると、階段を駆け上がり部屋へ帰ろうとしたという。驚いた天本が話を聞こうと何度か腕を掴んだが、それを振り払い勝手に部屋へ籠ってしまったのだと。


 こんなことは初めてだし、手は氷のように冷たく顔は真っ青で、身体が震えていたように思う。それに、うわ言の様にずっと何かを呟いており、目が据わっていて尋常な様子じゃなかった。心配で声をかけ続けているが、応答が無い。部屋の中で物音がしている。



 優馬は静江から預かった鍵を見せると、天本は小刻みに頷き、優馬と場所を入れ替わった。


 扉をドンドンと叩き、中へ向かって叫ぶ。


「陽、俺だ。入るぞ」




 脱ぎ捨てた上着の傍で、背中を丸めて床に座り込む陽が居た。

 床に片手をつき、一心不乱に右腕を揮っている。


「おい、陽……」


 足早に回り込むと、陽は床に手をついているのではなく、床に置いた大きなキャンバスを掴んでいた。右手には木炭が握られ、猛然とキャンバスの上を走らせている。


 跪いて起そうとした優馬の手を振り払ったその顔は未だ蒼白で、歯を食いしばっていた。優馬と目を合わそうともせず、またキャンバスに齧りつく。


 陽の右手首を掴み、強く肩を揺さぶる。


「陽! おい、陽!!! どうした! 何があった?!」


 唸り声をあげ、陽は優馬を突き飛ばした。飛びつくようにしてキャンバスを掴み、血走った目で尚も線を描こうとする。

 優馬は再び陽の右手を掴み、その頬を強く張った。


「しっかりしろ!」


 叩かれた姿勢で顔を背けたまま、陽は胸の奥から無理に絞り出したような掠れ声で、ボソリと囁いた。


「……恵流が、死んだ」



 時間が静止し、陽の右手首を掴む力が抜ける。


 優馬の束縛から逃れた陽は、唱えるような微かな声を食いしばった歯の隙間から押し出した。


「描かなきゃ……俺が、描いてやらなきゃ……」



 優馬は茫然とその姿を凝視していたが、キャンバスに描き出されつつあるものに気付いた。


 清水恵流だ。



 優馬は膝立ちして部屋を見回した。


 部屋向こうの棚の前には、下塗りを施した白キャンバスが床に散らばり、優馬のすぐ傍にあるイーゼルは傾き、作業台に倒れ掛かってかろうじて立っている。


 さらに見回すと、床に脱ぎ捨てられた陽の上着のポケットから携帯電話が覗いていた。着信を示すライトが点滅している。そっと抜き取って履歴を見ると、同じ相手からの着信が並んでいる。

 優馬はその場を離れながら、リダイヤルで電話をかけた。


 玄関口から覗き込んでいる天本に合図し、一緒に部屋を出る。手を挙げて質問を制し、階段を降りながら相手が出るのを待った。



「大月陽の携帯からかけております。わたくし、木暮優馬と申します。アヤさんでいらっしゃいますか?」




† † †




 アヤから聞いたおおよその事情を話すと、工房の面々は言葉を失い一様に項垂れた。


「恵流さんは既に、お父さま方の田舎のお墓に………」



 静江が堪えきれずに小さく声を上げ、ハンカチに顔を埋めた。



「なんてことだ……まだ若いのに気の毒な……」

 天本も、首に巻いたタオルを外し目元を拭う。



 突然、竹内が立ち上がった。


「俺が……俺が買い物を頼んだりしなけりゃ、陽がホムセンに行くことも無かったんだ…………彼女と別れて気まずいから、ってしばらく足を向けてなかったのに、俺が横着したばっかりに……」


 古株の村本が歩み寄り、竹内の肩に手を置く。

「お前さんのせいじゃない。いずれわかることだった」



「陽ちゃん、恵流ちゃんも、可哀想に………病気のこと秘密にしたままなんて、さぞ辛かったろうに……」

 しゃくりあげ、大きく洟をすすった静江は、化粧が剥げるのも構わずハンカチで目を擦っている。



 優馬は静かに息を吐いた。突然のことに動揺して、声が震えてしまいそうだった。


「今、陽は恵流さんの絵を描いています。それが彼なりの、精一杯の見送り方なんだと思うんです。だから、出来れば……しばらくそっとしておいてやって欲しいんですが」



 天本は何度も大きく頷いた。


「わかった。もともと有給は手つかずだし、気の済むまで好きにさせよう。私らも仕事の合間にちょくちょく様子を見に行くよ」



 感謝を示すように、優馬が頭を下げる。


「俺は、これからアヤさんって方に会って話を聞いてきます。陽のこと、お願いします」


 全員に向かって深く一礼し、優馬は待ち合わせの場所へ向かった。




______________________________________




恵流「陽がこのことを知るのは、うんと後でいい。何年も経って、家族なんかも出来て、陽がうんと幸せな時に……ううん、一生知らないままでもいいんだ」


アヤ(ごめん、恵流。案外早くバレちゃった……)





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