第94話 お別れ


 その時部屋にあった一番大きなキャンバスに、暖かな色調のアクリル絵の具で、それは描かれていた。



 丹念な下描きと大まかな色づけが終わるまで、陽は憑かれたように描き続けた。歯を食い縛り、時にくぐもった低い唸りを漏らしながら。

 体力の限界まで描き、力尽きるように数分眠り、またノロノロと身を起し、何時間もぶっ続けで描いた。


 優馬は出勤前、昼休み、会社帰りに訪れては陽を見守り、陽が短い眠りから覚めたタイミングで、ごく柔らかい食べ物を口に含ませた。

 描いている間はどれだけ言っても反応しないし、食べ物を無理に口に入れようとすれば顔を振って拒否し、振り払って、力を振り絞るように絵に向かう。

 寝起きで意識が朦朧としている僅かな間だけ、陽は虚ろな目でそれを飲み下し、這い上るようにして椅子に腰掛け、またフラフラとキャンバスへ向かうのだ。



 細部を描き込む段階になり、陽の目に少し生気が戻った。

 慈しむようにゆっくりと、丁寧に丁寧に色を重ね、筆でそっと撫でるように色を塗り、優しく指を触れて馴染ませた。

 昼間は相変わらずだったが、夜になると2時間ほど続けて眠るようになり、朝と晩の2回、置いておいた食事を少量ながら自力で摂るようになった。


 完成に近づくにつれ、筆が止まりがちになってきた。

 一筋の髪の流れ、肌の透明感の表現、微かな陰影。そういった細かい仕上げをする度、手を止めて長い間絵を見つめている。そんな時の陽の目はとても優しくて、恵流との思い出の中に居るように見えた。

 この頃には、錯乱した様子も消え、朝晩の食事の量もほぼまともになり、さらにはシャワーを浴びる習慣を思い出したらしかった。



 誰も、声をかけなかった。


 合鍵を使ってそっとドアを開け、陽が絵を描いていれば黙って食べ物を置いて去り、床で眠り込んでいれば毛布をかけてやる。

 とにかく、恵流と居る時間を邪魔しないよう、遠くから様子を見るにとどめていた。



 5日目の朝、優馬が顔を出すと、陽は床に立てかけた絵の前に背中を丸めて座り込み、じっと絵を眺めていた。絵はほぼ完成しているように見える。


 陽の背後にしゃがみ、控えめに声をかけた。



「……出来たのか?」


「うん。あと一筆で終わり」


 振り向かずに、掠れた声で答える。


「目の中に光を描いたら、終わり。もうこれ以上、一筆も足せない」


「……そうか」


 優馬はゆっくりと胡座をかいた。



「ちゃんと完成させたいけど、終わらせたくないよ」


「……ああ」



 キャンバスの中で、清水恵流が笑っている。


 明るい焦げ茶色に輝く好奇心旺盛な瞳が見開かれ、透明感のある頬をほんのりと桜色に染めた恵流が、笑いかけている。

 今にも可愛らしい笑い声が聞こえてきそうな口元、柔らかな唇からはほんの少し白い歯が覗き、色素の薄い髪が一筋、ふわりと頬にかかる。

 襟足から繊細なうなじが伸び、その首元には銀色のチェーンに吊るされたラリマーのペンダントが掛けられていた。


 絵全体から、掛け値無しの幸福感や際限ない優しさ、真っ直ぐな愛情が溢れ出ている。




「いつか、ちゃんと描いてあげようと思ってたんだ。こっそり練習して、たくさんの表情を描き留めて」


 傍らに置いてあったクロッキー帳とスケッチブックに、陽は手を這わせた。恵流の絵を眺めたまま、表紙をそっと撫でる。


「……でも、恵流ってコロコロ表情が変わってさ。どの恵流も可愛くて、大好きで、決めきれなくて。恵流の本質を顕した絵にしたかったから、ずっと見てて」



 目に涙が滲み、優馬は目を伏せた。

 視線の先にスケッチブックが映り、その表紙が僅かに擦れ縁が緩んで膨らんでいるのが目に入る。一見して、相当使い込んでいるのがわかった。


 そっと指先で目元を拭う。



「本質を、なんてカッコつけてないで、たくさん描いてやれば良かった。いや……俺が、描きたかったんだ」


 しばらくの間、陽は口を噤み、じっと絵を眺め続けた。

 優馬はそんな陽の背中を見守っていた。




「………なんで、言ってくれなかったんだろう」


「それは、綺麗な自分だけを憶えていて欲しかったって……」

「うん。それは、アヤさんに聞いたけどさ……でも、俺はきっと……絶対に、どんな恵流だって好きでいたのに」



 スケッチブックを撫でていた手が止まり、指先が細かく震えた。誤摩化すように拳を握って、膝を軽く叩く。



「なあ、陽。お前の言うこともわかるけどさ、それが恵流ちゃんの望みだったんだ。恵流ちゃんの、最後の望み、叶えてやれて良かったじゃないか」


「良かった?……良かったのか……そっか」


 何度か膝を叩いた後、その勢いを借りるように、陽は一気に立ち上がった。


「…そうだね。じゃあ、ちゃんと終わらせなきゃね。ちゃんと最後まで、描ききる。中途半端のままじゃ、恵流が可哀想だ」


「そうだな」



 キャンバスをそっと持ち上げ、イーゼルに架けた。パレットを取り上げ、絵の具に手を伸ばす。


「工房の皆にも、優馬さんと栞さんにもうんと迷惑かけちゃったし」



 優馬も立ち上がった。


「俺、出てた方がいいか?」


 筆で絵の具を溶きながら、陽は首を振った。


「ううん。そこに居てよ。すぐ終わるから、見てて欲しい」



 回転椅子に腰掛け背筋を伸ばすと、陽は短く息を吐いた。


 少し顔を寄せ腕を伸ばし、最後の色を乗せる。繊細に筆を重ね、微妙な色合いを出していく。




 筆を降ろしたとき、絵の中の恵流は先ほどとは比べ物にならないほど、生き生きとしていた。



「……終わっちゃった」


 陽の声が微かに震えている。



「凄いもんだ。さっきまでだってよく出来てたのに、ほんの少し描き足しただけで、こんなに変わるんだな」


 陽は筆を持ったまま、腕で目元を擦った。



「何度も見た顔だ。恵流ちゃん、ほんとに笑ってるな。すごく嬉しそうだ」


 優馬の言葉に、陽は大きく頷き、小さく洟をすすった。


 笑い出す0.5秒前の、一瞬の表情。楽しいこと、嬉しいことがあると、こんな風にハッとした笑顔になって、目がキラキラッときらめいて、それから目を細め声を立てて鈴を振るような声で笑うのだ。

 見ている方までつられて笑顔になってしまうくらい、彼女はキャンバスの中で、楽しそうに笑っていた。



「恵流、少しは喜んでくれるかな」

「喜ぶに決まってんだろ。恵流ちゃんが最期まで想っていたお前が、一番好きな恵流ちゃんの姿を、精魂込めて描いてくれてんだから」


「……だったらいいな。俺、まじで、描くことしか出来ないから……馬鹿で、間抜けで、鈍感で……」


「アホか」

 優馬は後ろから陽の脳天にチョップを落とした。


「恵流ちゃんが惚れた男を悪く言うヤツは、俺が許さん」



 へへ、と涙声で笑い、陽が頭をさすりながら言い返す。

「全部優馬さんに言われたことだよ。今だって、アホって言ったじゃん」


「……あー、俺はいいんだ.。って、嘘。もう言いません」


「何だよ、それ。別にいいよ、気にしてないし」



 顔は見えないが、声で苦笑しているのがわかる。

 きっといつものように、眉尻を下げて少し呆れた表情で笑っているだろう。



「あとは、仕上げのニス塗って、終了」


 パレットを作業台に置き、筆先を布で拭ってから水入れに落とす。



「ねえ、優馬さん」

「ん?」


「この絵、恵流んちに送ったら、迷惑かな。ご両親に」


「……どうだろうな。よく考えてから決めた方がいいんじゃないか」




 陽は恵流の絵に視線を据えたまま後ずさりして、優馬の隣に立った。


「……そうだね。よく考えるよ」



 しばらくの間、ふたりは並んで恵流の笑顔を見つめていた。




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