第95話 顛末


 少し眠る、と陽は言った。


 ここ数日、床にうずくまって僅かな仮眠をとるばかりだった陽に、きちんとベッドで寝ろと言い含め、結局最後まで陽の顔を見ること無く、優馬は部屋を出た。


 工房へ顔を出し天本に絵の完成を告げ、昼頃にでも顔を出してもらうよう頼むと、仕事へ向かった。



 遅刻した分昼休みを返上して仕事を終わらせ、帰りにまた工房へ寄ってみると、作業場は空っぽだった。


 電気が点いたままで店仕舞いしたわけでもなさそうなのに、誰も居ない。

 作業場の入り口でキョロキョロしていると、陽の部屋からどやどやと工房の人達が降りてくる。

 優馬が声を掛けると、全員で手を振って迎えてくれた。



 聞けば、陽は少しどころか夕方まで眠りこけ、慌てて飛び起きて工房に駆け込んだのだそうだ。


 全員に頭を下げてまわり、すぐに仕事に入ろうとする陽を押し止め、仕事を切り上げて皆で陽の両脇を抱え、無理矢理部屋へ押し掛けた。

「なんだこの部屋、絵ばっかじゃねえか」と揶揄する竹内が静江さんに小突かれ、村本は静江さんの差し入れの握り飯に手を出してまた叱られ……


 そんなドタバタした混沌の中、陽は皆にせっつかれて静江さん特製のうどんを山盛り食べさせられた後、竹内の豪腕により強制的にベッドに押し込まれたところだという。




「陽ちゃん、元気になって良かったわ。木暮くん、ほんとにありがとうね」


 優馬の両手を握りしめて何度も礼を言う静江さんからの、うどんを食べていけという魅力的な誘いをなんとか断り、優馬は栞の待つ自宅へ急いだ。



 道中、これから帰るという知らせと陽の様子を簡潔にメールすると、すぐに栞からメールが帰ってきた。


「お疲れさま。気を付けて帰ってきてね。今日はとても寒かったので、晩ご飯は味噌煮込みうどんです♪」




 うどんを断って、うどんを食べる、か。


 思わずほんの少し、顔がほころぶ。

 栞は、たまにこういうミラクルを起してくれる。自分には過ぎた女だと、つくづく思う。今回のことでも、出産間近にもかかわらず文句一つ言わずに協力してくれた。

今だって、聞きたいこともたくさんあるだろうに、こうして何も聞かずに労ってくれる。



 若干直情径行の気があると自覚する優馬にとって、栞のこうした気遣いの仕方は、自分には到底真似の出来ないこと、もはや神業とすら思えるものだ。


 彼女の洞察力、言葉の裏や隙間を読み取る力。

 自分とは少し異なる、しかも何通りもの角度からの目線は、いつも優馬の視界を広げてくれる。彼女の賢さと優しさに、自分はどれほど助けられていることか。



 お礼に、今日はケーキと花束でも買って帰ろう。

 うどんにケーキは合わないだろうが、それでも彼女は喜んでくれるに違いない。



 朝に見た、恵流の笑顔の絵を思い出す。大切な人の笑顔というのは、どれだけ見ても見飽きることが無いものだ。


 毎日しっかりと、心に刻み付けよう。何度も、何度も。




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