第96話 強制夏季休暇
ドイツへ行こうと陽を誘ったのは、6月の初め、夏蓮の叔父が指揮した演奏のクラシックCD発売記念パーティーの最中だった。
そのCDのブックレットに陽の描いた例の2点の絵が使われており、陽もパーティーに招待されていたのだ。
最初に皆に紹介された際に短い挨拶を述べただけでそそくさと壁際に引っ込んでしまった陽を、夏蓮は容赦なく捕まえ、片時も離さずあちこち引っ張りまわす。
「だって、最近仕事ばっかりで全然会ってくれないじゃない」
「いや、今日来ましたけど」
「これだって仕事絡みでしょ」
「ああ……あの、すみません。ほんとに忙しかったので……」
よく考えれば謝る必要なんて無いのに、陽はぺこりと頭を下げる。
なんて素直な……キュートな男の子かしら。今まで私の周りには居なかったタイプ。思っていたよりずっと、面白そう。
夏蓮は胸の内の企みを覆い隠すように、艶やかに笑って見せた。
「だから、ドイツに行くのよ。街並が綺麗だし、お城や庭園、美術館もたくさんある。きっと気に入ると思うわ。パーッと遊んでリフレッシュしなきゃ」
「いやでも、急に言われても……仕事休めないし」
「今頃のミュンヘンはいい季節よ。日本はこれから梅雨じゃない。私、梅雨って大嫌い。一緒に脱出して、バカンスを楽しみましょ」
「えっと、うん。すごく楽しそうではあるけど、でも休みが」
今にも後ずさりを始めそうな陽の言葉を全く聞いていない夏蓮が、ヒラヒラと手を振った。
「カズ、こっちこっち」
携帯電話をポケットに仕舞いながら人込みを縫ってやって来た五島に、夏蓮が浮き浮きした調子で訊ねる。
「どうだった?」
五島は陽に向かって頷いた。
「木暮さん経由で天本社長と話して、7月1日から9日まで、夏季休暇が貰えた」
「え?」
陽はキョトンとした顔で五島を見返すばかりだ。
「木暮さんも工房の皆さんも、大賛成してくれた。ここ数ヶ月働き詰めで心配だったから、ゆっくり羽を休めて来いと」
「え、ちょっと待って……夏季休暇? 誰が?」
「もちろん、君だ」
話が伝わってないのか? と怪訝そうな表情を向ける五島を遮り、夏蓮がテキパキと話を進める。
「というわけで、決定ね。絵の仕事の方はなんとか都合を付けて頂戴。旅費はこっち持ちだから、パスポートとお小遣いだけ持って来て」
「航空券と宿はこちらで手配する。費用のことは心配しなくていい。マイレージが使い切れないほど溜まってるんだ」
「・・・・」
畳み掛けられて唖然としている陽の肩を、五島がポンと叩いた。
「じゃ、そういうことで。詳しいことは追ってメールする。あと2、3電話をかけなきゃならないので、俺はこれで」
未だ事態が飲み込めていない陽を残し、五島は足早に会場の外へ消えていく。
「えええ……」
隣では、腕を絡ませていることに気づきもせず茫然とする陽に構わず、夏蓮が嬉しそうにはしゃいでいた。
† † †
月曜日、竹内が大きなスーツケースを抱えて出勤して来た。
「おお、陽。これ貸してやる。多少傷つけても構わないから」
村本も寄って来て、「俺も昔、柔道の大会でドイツに行ったことがある。いいところだ。ビールが旨い」としきりに頷く。
「ね、陽ちゃん。お城の写真いっぱい撮って来てよ。あたし、子供の頃からの夢だったのよねえ。王子様とお姫さまが住んでいるみたいな、素敵なお城。あと、なんとかっていう白ワインが美味しいらしいわよ」
「陽、お前高校の修学旅行で10年のパスポート取ったって言ってたろ。行って来い行って来い、使わなきゃパスポートが無駄になる」
寄ってたかって、ドイツ行きをけしかけて来る。
「あの……これってもしかして、決定事項?」
「「「「その通り」」」」
無駄だと悟りつつも、一応言ってみる。
「……俺の夏休みなのに?」
一斉に、重々しく頷かれてしまう。
陽はガクリと項垂れた。が、覚悟を決めて顔を上げる。
「一足早く、夏休みいただきます」
勢い良く頭を下げると、全員から拍手が送られた。竹内など、「ヨッ!!」と声を上げ囃し立てる始末だ。
「よーし、じゃあ体操の後、陽以外の夏休み申請と、仕事の割り振りやるぞ」
毎朝のラジオ体操のために全員で屋上へ向かう中、静江が陽の背中をバシッと叩いた。
「陽ちゃん、お土産よろしくねっ」
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