第97話 異国の風


 ミュンヘン国際空港の到着ロビーで待っていると、ガラスの仕切りの向こうに陽の姿が現れた。

 夏蓮が背伸びして手を振ると、気付いた陽がホッとした様子で手を振り返してきた。


 税関職員と少し話し、笑顔に見送られながらソワソワした様子でゲートを抜けて来る。



「陽! お疲れさま! 大丈夫? トラブルは無かった?」

 問答無用でハグをしながら、夏蓮が矢継ぎ早に訊ねた。


「ええ、飛行機では日本語話せるCAさんが居たし、なんか色んな手続きも簡単過ぎて逆に戸惑っちゃいました。今だって、ほとんどチェックとかされなかったし」


「わりとそんなもんよ。悪人には見えなかったんでしょ」


 スーツケースに手をかけた五島を制し、陽は数着の衣類と洗面道具、絵の道具しか入っていないスーツケースを持ち上げた。


「わざわざお迎えありがとうございます」

「どういたしまして。さ、まずはビールよ!」



(運転して来たのは俺なんだが……)


 密かにそう思いつつ、五島は夏蓮にぐいぐい腕を引かれ、陽と共にガラスを多用した美しい空港内のビアホールへと引きずり込まれた。





 塩気の効いたプレッツェルを齧り、華やかな香りのするビールで喉を潤しながら(五島はアルコールフリーのビールを頼んだ)、夏蓮がこの後の予定を発表した。


「ホテルに荷物を置いたら、ちょっとブラブラしてから夕食にしましょ。リクエストはある? ……じゃあ、おススメの店があるからそこね。明日と明後日の昼間は、私達ちょっと仕事があるから、あなたは自由に過ごして。観光したいところがあれば手配するわ。それから……」


 夏蓮の視線を受け、五島はポケットから携帯電話を取り出し、テーブルの上を滑らせる。


「レンタルしておいた。ホテルと俺の電話番号は登録してあるから、何かあったら使うといい」


「わあ、何から何まですみません」


 陽はテーブルに額が付くぐらい深々と、頭を下げた。




   † † †



 ホテルは客室数が少なくこぢんまりとしていたが、とても居心地の良いアットホームな雰囲気があった。


「全室スイートで、バスルームがふたつ。ミニキッチンも付いてるの。交通の便もわりといいし、ミュンヘンに来る時は毎回ここに泊まるのよ」


 個室に案内され荷解きを済ませてリビングへ行くと、ふたりは途中で買って来た食料や飲み物を仕舞っているところだった。



「手伝うことありますか?」


 陽が声を掛けると、夏蓮が驚いて振り向いた。


「もう荷解き終わったの?」

「ええ。荷物少ないし」


「こっちはもう終わるから、出掛ける準備でもしておいてくれ。夜になると冷え込むから、上着を持った方がいい」




 美味しそうな料理の匂いが漂う通りを数分歩くと、広場に出た。ネオゴシック様式で建てられた新市庁舎が視界に飛び込んで来る。


「うわ……すっげえ」


 陽はその場に立ち尽くし、威風堂々としたその建物に見惚れている。


 あまりにも動かないので、とうとう夏蓮が手を引っぱった。


「中庭にも入れるのよ」


 建物を見上げたまま夏蓮に手を引かれ、石畳の広場をゆっくりと歩く。中庭を一回り見て、再び正面に戻ると、陽は写真を撮りまくりながら建物の前を2往復した。



「ちょっと、ここで躓いてたら他を見られないわよ」

「そうですけど、凄過ぎて。俺、デジカメのメモリー足りるかな……」



 街路樹の新緑が美しい街並を眺めながら数分歩き、大きなビアホールの入り口をくぐる。広大な店内には客がひしめき、冗談かと思うほどの大きなグラスでビールを楽しんでいる。


 空席を探しながら店内を見て回る。

 民族衣装を纏った男女が踊り、生演奏の奏者はビールを飲みながら楽しそうに音楽を奏で、客達は音楽に合わせジョッキを振り回しながら歌っている。


 幸運にも席はすぐに見つかり、五島がウエイターを捕まえてビールを注文した。

 天井に描かれた絵を写真に撮るうちに、ビールが運ばれてくる。いざ実物を目の前に置かれると、陽は思わず笑い出さずにはいられなかった。


「デカイよ。何だこれ、花瓶?」


 3人が乾杯すると、周囲の客がジョッキを差し出して来る。見知らぬ客達とも乾杯を繰り返し、少し濁ったビールをごくごくと流し込んだ。



「空港で飲んだのと味が違う。花みたいな香りがするんですね」

「そう。私、このビールが一番好きなの」


 両手でジョッキを抱える夏蓮の顔は、ほとんどジョッキに隠れてしまう。


 プレッツェルを抱えた売り子から特大のをひとつもらい、3人で分けながら食べる。ジョッキが半分も空かないうちに、頼んだ料理がやってきた。



「ちょ、デカ! デカくね? 何で何もかもこんなにデカイんだ」


 目の前には、大皿の上で湯気を立てるソーセージや肉の煮込み、ポテトや酢漬けキャベツの付け合わせが並ぶ。信じ難いほどのボリュームに笑いこけている陽を、周りの客が微笑ましく眺めている。



 陽はいつになく、あっという間にビールを飲み干してしまった。


「あれ。なんか飲めちゃう。美味しいからかな。全然酔っぱらわないし」


「1リットルだ」

「え?」


「このジョッキ、1リットル入りなのよ」

「……まじすか」


 五島が少し離れたところに居たウェイターに声をかけ、指を3本立てると、ウェイターは笑顔で頷いてまたビールを持ってやって来た。


「おお、強制執行……」

「余れば俺が飲む」




 結局2杯半ほど飲んだ陽は、ホロ酔い気分で店を出た。


 ブラブラと散歩しながら、ゆっくりホテルまでの道を戻る。夜の通りは、昼間とは雰囲気が一変していた。

 ライトアップされた市庁舎を眺めながら広場を横切り、人込みを縫って通りを進む。少しひんやりとした風が、酔った頬に心地いい。



「気持ちいいですねえ。なんか、日本とは空気の質が違う気がします」


「わかるわ。国によって、空気って違うわよね」

「そうだな」


「何カ国ぐらい行ってるんですか?」



 夏蓮が「そんなの憶えてないわよ」と笑う隣で、五島は律儀に指を折って数えている。


「小さい頃はドイツとウイーン、数年日本に戻って、ダンス留学でまたドイツ。各国の舞踊やストリート系のダンスを習いに、スペイン、アルゼンチン、アメリカ、ブラジル……」


「公演や他の仕事では、フランスやイギリス、アジア各地にも行ったわね。あとはただの旅行や、家族に会いにいったのを含めると……やっぱり思い出せない。そりゃ、マイルも溜まるわよね」



 陽はすっかり面喰らった様子だ。


「すげえ……想像もつかない」


「本物のダンスを知りたいから。いくらインターネットが発達しても、テレビの画像が綺麗になっても、行って体験しなきゃわからないことって、たくさんあるもの。やっぱり、現地で学ぶのが一番よ」


 夏蓮はスッと前へ進み出ると、歩きながら可愛らしい、しかし複雑なステップを踏んだ。くるりと振り返り、「ね?」と笑いかける。陽はパチパチと拍手を送った。


「ベリーダンスやラテンなんかも習ったけど、まだ本場では見たことが無いの。そのうち行くわ、絶対」



 気付けばホテルの前に到着していた。


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