第168話 五島の失敗
五島は転びそうになりながら、雨の中を走っていた。すぐそこの角を曲がれば、大通りだ。人混みに紛れて逃げられる。
通りの喧騒が近づいてきて車の走る音が聞こえた時、我に返り立ち止まった。ナイフを、握りしめたままだ。
ナイフをしまおうとするが、滑り止めつきの軍手を嵌めた右手は頑として開かない。左手で無理やり抉じ開けてみても、右手は固く握られたままだ。
(くそっ……)
軍手ごと引き剥がしながらビルの壁に何度も手を打ちつけて、なんとかナイフを手放した。ナイフは音を立てて道路に落ち、くるくると回転して止まった。五島はつま先で落ちたナイフを蹴り、側溝に落とす。
失敗することを想定しておらず、ケースを捨ててしまっていた.。剥き身のナイフを持ち歩くのは危険だ。
ぐっしょりと濡れた軍手を拾おうと、腰を屈める。その瞬間、とてつもない疲労感が襲ってきて、五島は思わず膝をついた。
……しくじってしまった。
見紛いようもない。髪を後頭部で一つに括った、あの後ろ姿を見た瞬間。急激に視界が狭まり、奴の姿しか目に入らなくなってしまった。その向こうに立っていた木暮優馬の存在が、消し飛んだ。
ポケットからナイフを取り出しケースをかなぐり捨てると、一直線に大月陽に突っ込んで行った。
ほんの一瞬だった。まるで瞬間移動のように人影が躍り出て、大月陽との間に立ちふさがったのだ。
突き出そうとしていたナイフを咄嗟に引っ込められたのは、幸運だったと思う。大月陽以外の人間を傷つけるつもりは、毛頭無かったのだから。
ナイフを持つ腕を不自然に引いたせいで体のバランスを崩したため、ショルダータックルを仕掛ける格好になってしまったが、あの時の感触では骨折等の重症は負っていないはずだ。木暮優馬が果敢にも掴みかかってきた時も、蹴り飛ばしはしたが、それは逃げる隙を作るためで、なるべくダメージを与えない様に蹴った。
あの時は、ああするしか無かったのだ。捕まるわけにはいかなかった。大月陽を、消し去るまでは。
あれが俺だということは、もうバレているだろうか。フードで顔を隠してはいたが、あるいは………
どちらにしても大月一人を襲うことは出来るが、助けを呼ばれてしまうと面倒だ。
今は、逃げなければ。
一旦体勢を立て直して、再び機会を狙うのだ。
夏蓮の苦しみを、消し去るために。
五島はズボンの腿の辺りで両手を拭い濡れた顔を擦ると、フードを深くかぶりなおした。壁に手をついてゆらりと立ち上がり角を曲がって、街の喧騒の中に踏み入る。
本能的に歩道橋に足が向いたのは、交通量の多い広い道路の向こう側へ渡ってしまえば心理的に距離を取れる気がしたからだろうか。
半ば俯いて階段を足早に登っていた時、視界に強烈な違和感、いや、既視感を覚えた。
(夏蓮!)
振り返る間も無く、五島は床を蹴っていた。
傘を風に煽られ階段から足を踏み外し、小さく悲鳴を上げた女性に手を伸ばす。手首を掴んで胸に引き入れ、半回転しながら女性の頭を抱え込むと、五島はそのまま背中から階段を落ちていった。
周囲から悲鳴が上がる。
胸の上から女性が身を起こすのを見届けると同時に視界一面が白黒に変わり、すぐに消えた。
五島は意識を失った。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます