第169話 陽、為す術もなく


 遠くに、救急車のサイレンが聞こえる。


「優馬さん、聞こえる? 救急車だ! もう大丈夫だからね!」


 優馬は答えず、ぐったりと目を閉じ天を仰いでいる。



「優馬さん! 起きて! 優馬さん!」


 頭部から流血している優馬を揺さぶることも出来ず、陽は半ば優馬に覆いかぶさった格好のまま、オロオロと上着の胸の辺りを掴む。


「起きろ! 起きろってば! おい、バカ優馬!!」


「……誰が、バカだって?」


 漸く応えた声は、頼りなく掠れている。うっすらと見開いた目は焦点が合っていない様に見えた。


「しっかりしろ! もうすぐ助けが来るから」

「なあ、陽……」


 譫言を呟く様な声が、陽の叫び声を遮る。



「俺が、悪かったんだ……俺がお前をけしかけて、引っ張り込んだ」

「何? 何の話?」


 陽は優馬の上着から手を離すと、両手で傘を握りしめた。優馬が雨に濡れない様に体の角度を変えつつ、優馬の口元に耳を近づける。


「俺がしゃしゃり出ずに、お前が自分のペースで描いてりゃ、こんなことには……あんなジジイに捕まることも無かった」

「……あいつは! あいつもこの痣も、優馬さんには関係ない! 全部俺のせいだ。優馬さんにまで迷惑かけて……」


 優馬の手が、陽の胸倉を掴んだ。


「いいか、お前のせいじゃない。お前は悪くない。わかったか」

「でも……」


 顔を歪ませながら陽の目を覗き込み、濡れたTシャツを掴む力が強くなる。


「わかったな」


「……わかった」

 気迫に押され、陽は震える声で頷いた。


「よし」

 安心した様に、優馬の手がぽとりと落ちた。血の気の失せた唇が震え、深いため息が漏れる。


「ちゃんとお祓いしてもらえよ。何が何でも、だ。それと、あのジジイには近づくな。何か言ってきても……全力で、逃げろ」

「わかったから。後は病院で聞くから、もう喋らないで」


「大丈夫、もうそんなに痛くないんだ……でも、ちょっと寒いな……」


 狼狽えた陽が辺りを見渡すが、当然、優馬の体を温められそうなものは無かった。自分の服を着せかけようにもずぶ濡れだ。陽は咄嗟に、冷え切った優馬の体を抱きかかえ、背中や腕を懸命に擦り始める。


「救急車……すぐそこまで来てるのに……なんでだよ! そうだ、栞さん! 栞さんに電話して」


 携帯電話を取ろうとした陽の手に、優馬の冷たい指先が触れた。


「駄目だ。栞には……」

「なんで! 応急処置とか聞けば」

「頼む。栞には、近づくな」

「え……?」


 弱々しい呼吸の下、もはや青くなった唇から発する声は、囁き声程度になっていた。陽は一瞬、自分が聞き間違えたのかと優馬の口元を凝視する。


「お前は、悪くない。お前が悪いんじゃない。だけど……怖いんだ。もし、栞たちに何か起きたら……」


 眉根を寄せ、言いづらそうに躊躇う様子に、陽は引き下がった。優馬が何に怯えているのか、察したのだ。


「……わかった。近づかない。約束する」

「陽、すまない……」

「優馬さんが謝ることじゃないよ」


 その時、曲がり角の向こうに、数人の慌ただしい足音が聞こえた。「こっちです!」と叫んでいるのは、先ほどの男性の声だ。陽はハッと顔を上げ、救急隊員の姿を認めると優馬の耳元で叫んだ。


「優馬さん、来たよ! もう大丈夫」


 だが優馬の目は既に閉じられ、体からは完全に力が抜けきっていた。



「ごめんな……」


 誰に向けられたものかわからないか細い声を最後に、優馬は全く反応を示さなくなった。




 雨の音が、やけに大きく響いた。




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