第170話 栞、病院へ

 大月陽からの着信に出てみると、別人の声が聞こえてきた。


「大月陽さんに頼まれて、携帯をお借りしてかけています。木暮栞さんですか?」




 その男性の話を聞いて一瞬目の前が暗くなり、栞は壁に手をついて体を支えた。


「ちょっと待って……」

「大丈夫ですか?」


 電話の向こうで栞を気遣う声。そのさらに奥から、聞き慣れた声が漏れ聞こえてくる。


「おい、起きろ! バカ優馬! アホ優馬! 目ぇ開けろってばクソ優馬! 天パ野郎!」


 大月陽は何故か、思いつく限りの罵声を優馬に浴びせているらしい。

 随分と罵声の語彙が乏しいわね、と他人事の様な考えが過ぎったのは、おそらく一時的な現実逃避だった。



「……すみません。もう大丈夫です」


 救急隊員が搬送中の優馬の容態を説明し始めると、即座に仕事モードのスイッチが入った。電話を片手に必要なものをまとめ、てきぱきと出かける準備を整える。


 話を聞き終えた栞は、冷静に隊員に礼を言って電話を切った。

 すぐに実家に電話して、落ち着いた口調で優馬が事故に遭った事を伝え、病院へ来るよう要請する。


 電話を切ると、不思議そうにこちらを見上げている我が子に微笑みかけ、身支度を整えてやる。


「優侍、今からちょっとお出かけするのよ。じいじとばあばも来るからね」


 祖父母が大好きな優侍は無邪気に歓声を上げ、お出かけ用の小さなリュックを掴んだ。部屋の戸締りを確認する栞を他所に、リュックを引きずりながらぽてぽてと廊下を行き、玄関でスタンバイしている。


「おりこうさん。さあ、行こうね」

 準備を終えた栞は優侍に長靴を履かせ、靴箱の上のトレイから家の鍵を手に取る。が、車の鍵が見当たらない。


「あれ? あれ? おかしいな、いつもここに……」


 呟いたところで、既に自分の右手が車の鍵をしっかり握っている事に気づいた。



 どうやら自分で思っているほど冷静ではなかったらしい。大きく深呼吸すると、やはり息が震えている。


 それを自覚した途端、心臓が徐々にせり上がってくる気がした。この悪天候の中、病院まで安全に運転出来る自信は保てそうにない。


 車の鍵を置いてもう一度深呼吸し、再び電話を手に取ると、栞は小刻みに震える指で、懇意にしているタクシー会社に電話をかけた。



   † † †




 救急に運び込まれる患者とその付き添いの方の姿には、いつも胸を締め付けられる思いがする。それが知り合いだったりその関係者であれば、なおのこと。


 木暮先輩の旦那さんが搬送されるという話は、身内に一瞬で広まった。木暮先輩がここに勤める(正確には育児休暇中なのだが)ナースであると、患者の連れが搬送する病院を指定したとの事だった。



 患者が運ばれて来た時、付き添っていた青年は既に声を枯らしていた。おそらく救急車の中でもずっと呼びかけ続けていたのだろう。


「優侍とキャッチボールするんだろ?! バスケも! 楽器も教えるんだろ?!」


 運ばれるストレッチャーにしがみつくみたいにして、必死に話しかけていた。全身ずぶ濡れで、今にも泣きそうな、それでいて怒っている様な表情で。

 つられて、私も胸が詰まってしまう。優侍くんとは一度会ったことがあったから、木暮先輩に抱っこされた小さな可愛らしい赤ちゃんを思い出してしまったのだ。



「頑張れよクソ優馬! 絶対死ぬなよ! おい、聞こえてんのか! 『任しとけ』って言えよ!」


 患者さんが処置室に運び込まれる直前まで、彼は患者さんから一歩も離れなかった。私ともう一人のナースが彼の腕を取り、引き離すまで。


 患者さんが見えなくなった時、妙に虚ろな目をして、彼は言った。聞こえるか聞こえないかぐらいの涙声。小さな子どもみたいな口調で。


「俺を、ひとりにしないでよ……」



 急にへたり込みかけた彼の肘を抱えてベンチに誘導し座らせると、彼は深く項垂れて何事か呟きながら体を揺すり、何故か胸の真ん中を強く擦ったり殴ったりし始めた。

 話しかけようとしたが、異様な様子に何と声をかけていいものか分からなくなってしまい、私はその場で見守ることしか出来なかった。



「ご家族の方、見えられました」


 木暮先輩と直接面識の無い後輩ナースが、足早にやって来た。この子の敬語の使い方にはいつも若干イラッとさせられるが、今はそんな事を言ってる場合じゃない。

 後輩の後ろから、赤ちゃんを抱えた木暮先輩が小走りでついて来ていた。


「先輩!」


 木暮先輩は深刻な表情で頷くと、「容態は」と短く尋ねた。聞きながら無意識に赤ちゃんを揺すってあやしているのに気付き、妙なところに感心してしまう。


 必要なことを伝え終え、付き添いの青年に引き合わせようと振り返った時、ベンチには誰も居なかった。


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