第167話 陽、眼前の悪夢



 優馬に突き飛ばされた陽はビルの壁に激突し、崩れ落ちるように膝をついた。同時に、重い物がぶつかるくぐもった音と腹の底から搾り出す様な優馬の呻き声が聞こえ、濡れた壁に手をついて顔を上げる。

 視線の先に、膝を折り腹を抑えて呻く優馬と、その向こうには黒く大柄な人影があった。


「なっ……」


 優馬がふらつきながらも体を起こし、相手に向かって手を伸ばした。黒いウインドブレーカー姿でフードを深く被った男が、一瞬たじろいだ仕草を見せた。その時、男の右手に白く光る物が握られているのに、陽は気づいた。


「やめろ!」


 上ずった声で叫ぶのに構わず、優馬は男に掴みかかろうとする。男はその腕をあっさりとなぎ払い、バランスを崩した優馬を蹴り飛ばした。

 為す術もなく飛ばされ、もんどり打って背中から突っ込んできた優馬を受け止める。優馬と壁に挟まれ肺から空気が抜けた陽は、再び力なく崩れ落ちた。頭上で何かが壊れる嫌な音がして、耳元を何かが掠め転がった。


 壁にもたれかかり座り込む格好から、陽は身を捩り、胸を押さえゲホゲホと咳き込みながらなんとか目を開けた。優馬は片手で腹を押さえ、もう一方で壁に手をつき陽に覆いかぶさる形で膝をついていた。苦しげに顔を歪め、荒い息をついている。

 優馬の腕の下から、ウインドブレーカー男が盛大に水しぶきを立て転がる様に走り去っていくのが見えた。


「ゆ、優馬さん……大丈夫?」

「……いってぇ……」


 掠れ声の陽に、優馬はなんとか笑ってみせようとしたが、それは顔をしかめただけに見えた。


 下から優馬の両肩を支えながら、陽は壁伝いにジリジリと身を起こし、優馬を壁に凭れかけさせようと体勢を入れ替える。

 優馬の体がぐらりと揺れたかと思うと、突然真っ赤な水を被ったみたいに血が溢れ出し、顔を染めた。


「……!」


 声にならない悲鳴をあげ、陽は震える手で優馬をそっと壁に凭せ掛けた。ポケットから携帯電話を取り出したが、手が震えて取り落としてしまう。水浸しのアスファルトを転がり滑る電話を両手で捕まえたが、思う様に操作が出来ない。


「きゅ、救急車……誰か! 誰か、救急車!!」


 パニック状態で電話を握りしめながら、陽は声の限りに叫んだ。


「助けて! 優馬さんが……頼む、誰か!!」



 どこかで窓の開く音がして、声が降ってくる。

「にいちゃん、今、救急車呼んだからな! すぐ来るから、頑張れ」


 その声を切っ掛けに、涙が一気に溢れた。陽は顔をぐしゃぐしゃにしてしゃくりあげながら、ぐったりと目を閉じている優馬に手を伸ばす。


「ゆうま、さ……」

「……おう」


「救急車、くるから……」

「……お前は? 怪我無いか?」


 膝立ちの体勢から腰が抜けた様にへたり込んだ陽が、拳で目を擦りながら何度も頷く。


「メソメソすんな。情けねえ」

「メソメソなんてしてねーし。ってか、あんま喋らないほうが……」


「こんくらいヘーキだよ」

 優馬は強がって笑ってみせたが、その声は弱々しかった。


「バスケやってた頃は流血沙汰なんてザラだった。つーかさ、さっきの俺のディフェンス見た? まだまだイケてたろ?」


 背後からバタバタと足音が聞こえ、傘が差し出される。振り返ると、近所のサラリーマンだろうか、中年の男性が片手で通話しながら傘をさしかけてくれていた。


「大丈夫か、にいちゃん。どうした」

「ナイフを持った男に襲われたんです」


「刺されたんか」

「いえ。刺されてはない、よね?」


 優馬は微かに頷き、顔をしかめ目を閉じた。

 首筋から雨の混じった血が滴り、胸の辺りまでが真っ赤に染まっているが、刺されたような傷口は見当たらない。


「うん。刺されてないみたいです。体当たりされて壁にぶつかった時に、何か落ちてきて頭を打ったみたいで」


「……あれか」

 辺りを見回した中年男性が近くに転がっていた錆びた看板を見つけ、頷いた。電話の相手に状況を一通り説明すると、陽に傘を手渡した。


「俺は救急車誘導してくっから。頑張れよ」

「ありがとうございます!」


 陽の叫ぶ声を背中に受けつつ、男性は雨の下を駆け出して行った。



 

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