第70話 パーティーの前日に
車が止まった音が聞こえた。腕時計を確認すると、約束の時間の5分前だった。
7月も終わりの午前11時。窓から見える庭は強烈な夏の太陽光に灼かれ、ジリジリと音が聞こえてきそうだ。外は既に暴力的なまでの暑さだろう。
五島は自室を出て小さなロビーを横切り、階段を上がった。白木の廊下を進み、真っ白な扉をノックする。
「夏蓮、着いたみたいだ」
「わかった。今行くわ」
部屋の中から夏蓮が答えた。あきらかに睡眠不足のはずなのに、その声は溌溂としている。
舞台の振り付けの仕事を終えて一昨日帰国し、その足で地方のダンススクールの特別講師を終えたばかりだ。昨夜帰ってきたのは深夜だったが、夏蓮は早起きして朝から荷物の整理をしていた。
夏生まれのせいか夏蓮は暑さに滅法強く、夏の間驚くほど精力的になる。
階段を降りると、キッチンの方から淹れたばかりのコーヒーの香りが漂ってくる。五島はロビーを進むついでに花瓶の花の具合をチェックし、リビングの扉を開け放った。
「靴がどうしても納まりきらないのよ」
夏蓮がぼやきながらリビングへ入ってきた。
彼女は歩く時にほとんど足音を立てない。「猫の足音」は家の中でも健在なのだ。
「海外へ行く度にあんなに買ってたら、当たり前だろう」
「だって、消耗が激しいんだもの。良いものを見つけたら、その時に買っておかなきゃ」
一理あるが、ダンスシューズばかりか普段用の靴までもいくつも買う理由にはならないだろう。そう思いはするが、言っても無駄なことだ。
「なら服を捨てろよ」
「イヤ」
インターホンが鳴った。
「あ、来た」
夏蓮が弾む足取りで玄関へ向かう。
五島はインターホンの受話器を取った。
「お久しぶりで……ぅあ」
玄関から飛び出した夏蓮にいきなり抱きつかれてたじろぐ陽の手から、大きな絵を救い出し、かわりに五島が挨拶を返す。
夏蓮はまだ海外モードが抜けていないらしい。
「大月くん、お久しぶり。今日はわざわざお越しいただき、ありがとうございます。藤枝さん、この度は大変お世話になりました」
夏蓮は藤枝にもハグをしたが、こちらは慣れたもので、にこやかに片手を背中に回している。
「こちらこそ。カレンさんのお宅に飾る絵に携わることが出来て、光栄ですよ」
五島は藤枝からもうひとつ、梱包した絵を受け取った。
まだ少し動揺している陽と上機嫌な藤枝を促すと、夏蓮が瞬間移動とも思える速さでアプローチをすり抜け玄関扉を開いた。
期待に顔を輝かせて手招きしている彼女をよく見れば、室内履きのままだ。かなり絵を楽しみにしていたのは知っていたが、こうまではしゃぐとは。
明日行われる夏蓮の誕生日パーティーは、相当な盛り上がりになるだろう。五島は酒を買い足しておこうと決めた。
早く見たいと夏蓮が急かすので、陽と藤枝、そして五島の3人は、せっかく淹れたコーヒーを飲む間もなくせっせと絵の梱包を解いていた。
その間、当の夏蓮は子供の様に両手で目を覆い、後ろを向いてうずうずと足踏みをしている。
16歳のとき、幼い頃から続けてきたバレエを辞め、フリーのダンサーへと転向して、10周年。
その年の誕生日の記念に絵を描いてもらうというのは、初めは些細な思いつきだった。
相応しい画家を捜すうち、夏蓮の父親が懇意にしている画廊のオーナー、藤枝の推薦で大月陽と知り合い、彼の絵への情熱を知り共感し、絵に対する期待がどんどん高まっていったのだろうと思う。
明日の誕生日パーティーは、この絵のお披露目会も兼ねているのだ。
「ねえ、まだ?」
「もう少しです……」
梱包材をまとめて端に除け、2枚の絵を並べて壁に立てかける。
100号の絵は、藤枝に発注した豪奢な額を含めれば夏蓮の身長とほぼ同じ高さだ。もう一方の絵は、確か12号と聞いている。
「ハイ、オッケーです。どうぞ」
振り向いた途端息を飲む音が聞こえ、直後に夏蓮の絶叫が響いた。
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