第69話 恵流、焦げ付く朝
さらさらと、微かな音が聞こえる。
その小気味良いリズムからは、迷いというものが全く感じられない。行くべき道を確信し、まっすぐに進むものが発するリズムだ。
(この音、何だっけ。私、知ってる‥……)
ああ、陽だ。陽が描く音だ。
でも、何だろう。ちょっと違う……
恵流は目を擦り、寝起きのボーッとした頭で考える。カーテンの隙間から差し込む朝日が眩しくて、なかなか目が開かない。
(ああ、浴衣だ……花火大会の夜の)
そこまで思い出し、一気に覚醒した。
が、恵流はベッドに横たわったまま動かなかった。しばらく目を閉じたまま、じっと陽の鉛筆の音を聞いている。
あのとき、陽の鉛筆の音のひとつひとつが、恵流の身体に、心に、刻み込まれるように感じた。とろとろと眠りに引き込まれながら、恵流はこれまでになく満ち足りていたのを思い出す。
きっと、陽のすべてが、自分に向けられていたからだ。
陽の視線も意識も心も行動も、全て自分で独り占め出来ていたからだ。
今聞こえているこの音は、あの時とは少し違う。何だか、他人行儀な音。
あれは、自分に向けられた音じゃない。あの情熱の対象は今、自分ではなく他の女性に向かっている。
恵流は両腕で目を覆った。
昨夜もひとりベッドに横たわりながら、目を瞑ってこの音を聞いていた。
煌月カレン。
あの、才能に満ちた美しい女性を思い出しながら、陽は一心不乱に筆を走らせている。
普段は揺るぎない力強さと生命力の権化のような女性なのに、舞台に立つ彼女は全くの別人のように儚気だった。
すらりと細い首が優雅に伸び、しなやかな腕は指先まで完璧に美しい。ほっそりとしているのに女性的な身体は、しかし、強靭な筋力とバネに支えられているのがよくわかる。
そんな彼女の舞台は、まさに圧巻だった。
20分かそこらの間に、白鷺の精の美しくも壮絶な恋を描き出していた。
あの、心浮き立つように楽し気に、若々しく舞台狭しと舞い踊る姿。
一転、赤や紫の照明のもと、苦しみに身体をくねらせ悲しみに身を震わせつつも、どこか妖艶な姿。
そして、狂気に堕ち激しく悶え苦しみながら、ほの昏い舞台の中、最期まで救いを求めるように幾度も腕を差し伸べ、叶わずに力尽きる姿。
そして、最後のカーテンコール。
眩しい照明と渦巻く盛大な拍手の中、普段どおりの自信に満ちあふれた晴れやかな笑顔で貫禄すら感じさせる彼女の姿。
きっと一晩中。
絵を描きながら、陽はそれらを想い起していたはずだ。何度も、何度も。
恵流は目を覆っていた両腕を外すと、今度はゴシゴシと目を擦った。そしてそのまま、拳をぎゅっと目に押し当てる。
(シャッターの絵、彼女は陽とふたりで見たんだろうか。あの時の私達みたいに、ふたり並んでシャッターの前にしゃがみ込み、見上げたんだろうか)
胸の中が嫌な熱さで焦げ付く。髪を掻きむしりたい衝動を抑え、恵流は勢い良く上体を起こした。
いやだいやだいやだ。こんな浅ましい私は、嫌だ。
「大きな依頼があった」と陽から聞いた時には、我が事のように、それこそ舞い上がるほど嬉しかったのに。心の底から喜んで応援したのに。
ほんの2ヶ月弱の間に、私は何故、こんなに欲張りになってしまったんだろう。
絵のモデルにヤキモチを妬くなんて、なんてみっともない。今までだって、陽は描く対象に対して同じように集中してたじゃない。いつだって、絵を描いている間は。
そう。絵を描いている間は。
そして私は、そんな陽が好きなんだ。
今はちょっと、動揺してるだけ。だって、昨日あんなに凄い舞台を見ちゃったから。それだけ。
ついこの間だって、陽は言ってくれたじゃない。
珍しく深刻な顔をして考え込んでいたと思ったら、突然「あのさぁ……」って真剣な顔で切り出して。
「俺、恵流のこと好きだから、付き合い始めたわけじゃん? でも……」
あの時はずいぶん焦ったっけ。別れ話でもされるのかと思って。
「付き合っていくうちに、どんどん好きになっていってて………その、ちょっと困ってる。っていうか、戸惑ってる? ねえ俺、どうしよう」
そう言って、途方にくれたみたいに笑った。
それで、嬉しくて思わず号泣しちゃった私に「変なこと言って、ごめん」って何度も謝りながら、ティッシュで洟をかんでくれたじゃない。「ほら、フーンってして」って。
あの言葉は、嘘じゃなかった。
だって、ほんとに愛していなきゃ、相手の洟かんだり出来ない。と、思う。あの時は随分びっくりしたけど、同時に「今この瞬間に天に召されてもいい」とまで思ったっけ。
そうだよ。ちゃんと思い出して。あの時の気持ち。あの時の……
……そういえばあれは、夏蓮さんと出会う前のことだった。何度も心の中で反芻してたからついこの間のことみたいに感じてたけど、もう2ヶ月以上も前のこと……
ううん! そんなの関係ない! 陽は、コロコロと簡単に心変わりするような人じゃないもん!
両手で、毛布をギュッと掴む。目を閉じて、腕と肩にうんと力を入れる。
両肩を聳やかす様に高く上げ……ストンと落とす。
よし、朝ごはんにしよう。
陽はいつも、描いている間は食事を摂らないから、お腹空いてるはず。
昨夜作っておいた陽の大好物、野菜たっぷりのトマトスープを温めて。食後にはリンゴをうさぎさんに切ってあげよう。
……ハイ恵流さん、笑って!
恵流は毛布をはね除けると、ベッドからぴょんと飛び降りた。
「陽、おはよ」
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恵流(あの時の言葉、録音しておきたかった……思わず検索したボイスレコーダー、いまだに広告がポップアップされるし……うぅ、ポチりたい)
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