第68話 舞踏家と画家


 真っ暗な舞台の下手寄りに、青白いスポットライトが落ちた。

 樹の下にひっそりと佇み切な気に遠くを眺めている、頭から白いベールを纏った儚気な少女が浮かび上がる。



 静寂の中、ヒラヒラと雪が降り始めた。


 凍った湖面にピシリとひびが入ったような微かなギターの音色に、少女はハッと耳をそばだてた。

 心許な気に辺りを見回し、小女は見えない何かを探すように片手を差し出す。


 囁くようなギターがホロホロと澄んだ音色を響かせ始めると、少女は躊躇いがちにそろりと腕を伸ばした。

 応えるように、励ますように、音色は徐々に力強く響き出す。


 少女はしばらく樹の幹に手をかけたまま躊躇っていた。だが、恐れを拭う様に一度だけゆっくりと瞬きし、優雅に両腕を差し伸べた。

 ギターは誘い出すような楽し気な旋律へと変わり、舞台中央が徐々に明るく照らし出される。


 少女は静かに進み出たかと思うと、被っていたベールを肘へと滑り落としふわりと宙に舞った。


 観客が息を呑む中、重力から解き放たれ跳躍した少女は音も無く舞台中央へ降り立ち、軽やかにくるりと回転した。その瞬間、舞台全体が華やかに照らし出され、少女はギターの音色にのって舞いはじめた。

 嬉し気に弾むステップを踏み、高い位置でゆるく結った髪が揺れて、希望とほんの少しの羞じらいが入り混じる表情を際立たせる。

 純白の薄いベールを翼のように広げ、雪色のドレスの裾が翻る。


 今や世界は柔らかな光りに照らし出されている。

 色とりどりの花が咲く中を様々な花の色に染まりながら、少女は輝くような可憐な微笑みを浮かべ、身体を揺らし腕を振り上げ、跳躍し回転し、心のままに踊り続ける………



   † † †



 割れんばかりの、鳴り止まない拍手の中。

 自らも惜しみない拍手を送りながら、恵流は隣に座っている陽を盗み見た。身体を乗り出して前の座席の背もたれを握りしめたまま、真っ暗な舞台上を凝視している。


 おそらく舞台上には、陽にだけ見える残像が映っているのだと、恵流は確信した。



 カーテンコールに応え再び照らされた舞台の中央に、煌月カレンが立っていた。


 一際大きくなった歓声に大きく両腕を広げ堂々と観客に応える姿は、先ほどまで十数分に渡って初々しい喜びから一転して苦悩し、さらには狂気に陥り力尽きるまでを踊り尽くした女性とは、別人の様に見えた。


 カレンが恭しく一礼すると、観客の大半が立ち上がり頭上高く両手を打ち鳴らす。

光を振りまくような笑顔を見せ、カレンは舞台袖に合図して全ての出演者を舞台上に呼び込んだ。

 ぞろぞろとダンサーや演奏者が登場し整列した頃、漸く陽もふらりと立ち上がり力一杯拍手を贈り始めたが、その眼はまだどこか虚ろだった。



   † † †



「陽! おいってば。お前、大丈夫か?」


 丸めたパンフレットでポコンと頭を叩かれ、夢から醒めたみたいに眼をパチクリさせている陽を、優馬が眉を寄せ覗き込んでいる。


「んあ? ああ、うん。大丈夫……」

「メシどうすっかって聞いたんだけど」


 パンフレットという武器を栞が無言で取り上げるに任せ、優馬はスマホを取り出した。


「メシ……ああ、そうだね……」


 スマホの電源を入れつつ、優馬は怪訝な表情を浮かべた。


「お前、大丈夫か? さっきからボーッとして……」


「優馬さん」

 恵流が遮った。優馬と栞に、苦笑いで首を振ってみせる。


「彼、今日はもう駄目です。頭の中は絵でいっぱいみたい」


 焦点の合っていない目で一点を見つめ立ち尽くしている姿からは、極度に集中して

自分の頭を覗き込んでいるのが窺えた。


「お前ねえ……」

 優馬がため息混じりに呟いた。


「確かに凄い舞台だったけど……まあ、しょうがないか。陽だしな」


 恵流は肩をすくめて笑った。

「ええ、陽ですから。私が家まで送ります」


「普通、逆だろうが……全く。カレシがアホだと苦労するね、恵流ちゃん」

「もう慣れました。彼、私の友人には『絵画バカ』って呼ばれてるんですよ」


 恵流が秘密めかして告げ口すると、優馬と栞は俯いて笑いを噛み殺した。



 一見仲睦まじく腕を組んでいる二人だが、実は気もそぞろな陽の腕を恵流がさりげなく引いて誘導している。

 遠ざかるそんな後ろ姿を、栞は少しの間心配そうに眺めていたが、先にぶらぶらと歩き出していた優馬に追いつくべく、足早に後を追った。



   † † †



 座席に深く腰掛け若干前屈みの姿勢で電車に揺られながら、陽は先ほどから床の一点を見つめ続けている。

 眉を険しくし目を伏せて唇を引き結んだ表情を見た乗客は、ふたりを喧嘩中のカップルだと思っているかもしれない。



 膝を掴んでいる両手の節が、白く浮き出ている。

 こんなに力を入れ続けていたら、肩や背中がガチガチになってしまうのではないかと恵流は心配だったが、声はかけなかった。

 先ほどの煌月カレンの演技を、頭の中で克明に再生しているのであろう陽の邪魔をするつもりは無い。



「陽、着いたよ」


 しばらくして降車駅に着くと、恵流はそっと陽の肘を引いた。

 陽は「ああ」だか「うう」だかと呻きながら立ち上がり、恵流に促されて電車を降りる。


(この調子じゃ、自転車を漕ぐのは危ないかな)


 来る時には恵流が後ろに乗せてもらっていたが、帰りは自分が漕いだ方が良さそうだ。ヒールが低めのパンプスを履いて来て良かったと、つくづく思う。


 先に改札を通ると、機械的な仕草で同じ改札を抜ける陽を待つ間、恵流はもう一泊した方が良さそうだと判断した。社会人になってから外泊が解禁されて、本当に良かった。



 おそらく陽は、食事もせずに一晩中描き続けるだろう。絵を描きながら片手で簡単に食べられる夜食と、明日の朝食を準備しておかなくちゃ。

 既に通い慣れた自転車置き場に向かいながら、恵流は冷蔵庫の中身を思い浮かべていた。


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