第67話 開演前



 恵流ちゃんは、なんだか浮かない顔をしている。


 昨夜は久々に大月くんと過ごして、今日は朝から一緒に出掛けて来たという話だったのに。

 こちらから訊ねるのも何だし‥‥と思っていたら、優馬と大月くんがじゃれている隙を突いて、彼女がおずおずと私の肘を突ついて来た。


「あの、栞さん。ちょっと……」


 恵流に促され、栞は靴屋のウインドウ前まで移動した。さも靴に興味があるみたいにディスプレイを覗き込む恵流に倣い、栞も靴を眺めるふりをする。

 珍しくデニム地のジャケットを羽織っている陽をからかう優馬をちらりと見遣りながら、恵流は声を落として話し始めた。



「……痣?」

「はい。深い赤色で、段々色が濃くなっている気がするんです。陽は痛くも痒くもないって言うんだけど、場所が心臓の辺りだし、なんだか不安で」


「病院には?」


 恵流は首を振った。

「職場の健康診断で聞いたらしいんですけど、特に問題無さそうだから様子をみてみましょうって」


「そう……」


 聞けば、強く打ったとかそういうことも無いと言う。そもそも打撲かなにかであれば、変色するならともかく、4ヶ月もかけて痣が濃くなることは考え難い。

 栞はしばし考え込んだが、思いつく病名は無かった。


「恵流ちゃんのお母さまには?」

「言ってません。なんか、聞きづらいし……」


 そうか。いくら相手が看護師とはいえ、実の母親には聞きづらいだろう。


「話だけじゃわからないわね。心配なら、やっぱりちゃんと受診した方がいいわ」

「ですよねえ……」


 あからさまに表情を曇らす恵流を励ますように、栞は恵流の肩を叩いた。


「朝から元気が無いと思ったら、そういうことか。優馬からも受診するようにけしかけさせるわ。私も色々調べてみる。だから、そんな顔しないで。せっかくのドレスアップが台無しよ?」


 恵流のほっぺたを人差し指でツンと突つくと、恵流は漸く笑った。


「そうですよね。今のところピンピンしてるし、本人も絶好調だって言ってるし……うん。聞いてもらったら、ちょっと気持ちが軽くなりました」


 吹っ切るようにその場でくるりと一回転すると、恵流の表情は見違えて明るくなった。


「よし! 楽しもう! 私、劇場で観劇するの、初めてなんです」


「私もうんと久し振りだわ。ね、入場前に、何か軽く食べましょう。公演中にお腹が鳴ったら恥ずかしいもの」


 優馬達の元へ戻り合流すると、4人は近くのカフェに入った。



 煌月カレンの公演が始まるまで、あと2時間少し………



 † † †



「 鷺娘 an egret 」と銘打たれたその演目は、古い長唄を元にした有名な歌舞伎「鷺娘」をアレンジし、バレエを主としたコンテンポラリーダンスで表現するものらしい。

 座席のパンフレットには、簡単なあらすじが記されていた。



「うちのシャッターの絵、あるじゃん? 衣装はあれを参考にしたんだって」


 恵流の隣でパンフレットをパラパラとめくりながら、陽は事も無げにニコニコしている。

 世界各地で公演をして回っている舞踏家の演出に影響を与えたということが、どれほどのことなのか。陽は全く理解していないらしい。

 まるで、夏休みの工作にヒントをあげたくらいの感覚みたいだ。


「陽、それってすごいことなんじゃ……」

「うん? 楽しみだねえ」


(駄目だ、この人……)

 陽の呑気さに軽い目眩を覚えながら、恵流は手元のパンフレットに目を落とした。煌月カレンは5つの演目のうち、最後に出演するらしい。


「白鷺の化身が人間に恋をした。娘は初めての恋に心を躍らせるが、叶わぬ想いに苦悩する。あまりの苦しみに狂乱し、やがて娘は白鷺の姿に戻り力尽き息絶えてしまう」



 前の4つの演目については、それぞれ複数のダンサーの名前が記されているが、最後の演目には、一人の名前しか載っていない。


 煌月カレンはたった独りで踊るのだ。


 彼女の名前の下に、簡単なプロフィールがあった。略歴と代表作。それに「猫の足音と鳥の羽ばたき」という異名が紹介されている。



さざめいている150人ほどのホールは、ほぼ満席だ。やがて開演のブザーが鳴り、人々は静まり返った。



  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る