第66話 武道家の追想

 夏蓮が店に足を踏み入れた瞬間、店内が一瞬静まり返った。

 客もちろん従業員さえも、皆一様に息を呑む。中には手にしたフォークを取り落とす者まで居る。


 いつものことだ。


 五島が名前を告げると、接客係は目が覚めたように仕事を思い出し、恭しい仕草で彼らを窓際の席に案内する。

 夏蓮の後ろを歩きながら店内を見渡し、さりげなく客の顔をチェックした。知り合いが居ないか、また怪しい者が居ないか確認する為だ。

 皆一様に夏蓮に視線を奪われているため、こちらが客をチェックしていることに気付かない。


 それほど広くはないが天井の高い、落ち着いた雰囲気のレストランだ。

 真っ白なクロスがかけられたテーブルはたっぷりと余裕を持って設置され、カナリヤ色の壁にはシンプルで上品な間接照明。卓上の蠟燭の炎がゆらゆらと揺れてほのかに照らしている。窓からは美しい夜景が見下ろせる。

 耳を澄ませばようやく聞こえるほどの音量で、ピアノ曲がかかっている。よく耳にする曲だったが、五島は曲名を知らなかった。


 ようやく他の客達に声が戻った。テーブルまでの短い道のりを歩く夏蓮を見送りながら、囁き声や羨望の視線が交わされる。


 そんな反応を、夏蓮はまったく意に介さずに歩を進め、五島が引いた椅子に優雅に着席する。

 差し出されたメニューをゆるく首を振って断り微笑みかけると、案内係は感極まったような表情で深々と頭を下げた。


 五島にとっては、見慣れた光景だった。



「大月くん、何にしますか?」


 大月陽が任せると言うので、五島は案内係に質問しながらいくつかの料理と飲み物を手早く注文した。もとより、夏蓮の好みは熟知している。


 大月陽は店内を物珍し気に眺めまわし、夏蓮はそんな陽を眺めて微笑んでいた。



「素敵な店ですね。俺、こんな店初めて来ました」

「ここは私も初めてよ。むーちゃん、知ってたの?」


「それは止めろ」

「じゃ、ごーちゃん」

「それも止めてくれ」


「何よ、ケチ」


 夏蓮は五島を睨む真似をし、プイと顔を背けると陽の方に少し肩を寄せた。


「普段は周りが『カズ』って呼ぶから私もそうしてるんだけどね。子供の頃のあだ名だったの。武一のタケを『む』って読んでむーちゃん。『ごとう』だからごーちゃん。」

「そんな呼び方してたのは、お前だけだ」


 五島はざっと店内を見回し、再び客をチェックした。まだチラチラとこちらを見ている客は居るが、危害を加えてきそうな者は居ない。



「おふたりは昔からのお知り合いなんですか?」

「幼馴染みよ」「腐れ縁だ」


 屈託なく笑う大月陽に、夏蓮が昔ばなしをし始めた。


 なんてことはない、ただ単に家が隣で親同士が親しかっただけの話なのだが・・・




   † † †



 煌月家が隣に越してきたのは、夏蓮が小学校にあがる年だった。

 元々そこには夏蓮の祖父母が長く住んでいたのだが、祖父が亡くなったために、都心から郊外の街に一家で越して来たのだ。

 とはいえ上の姉ふたりは進学で家を出ていたので、実際に越してきたのは両親と夏蓮の3人だった。


 隣と言っても広い庭と石塀で隔てられており、普通なら頻繁に顔を合わせることも無かっただろう。


 だが程なくして、夏蓮はよくうちに遊びに来るようになった。すっかり懐かれてしまったのは、ある事件があったからだ。


 事件といっても、近所の悪ガキどもが夏蓮の持ち物を奪いからかっていたところに、ちょうど犬の散歩で通りかかった自分がガキどもを追い散らした、というだけの話だったのだが。


 とにかくその一件で、俺は「隣のお兄ちゃん」から「隣の強いお兄ちゃん」に格上げされた。

 さらに夏蓮が漢字を習うと「むーちゃん」になり、俺の成長に伴い「五島のゴツいお兄ちゃん、ごーちゃん」と呼び名が変わっていったのだった。



   † † †



「で、海外留学中に変質者に絡まれたことがあってね……心配したうちの両親に頼み込まれて私の留学先に来て、お目付役兼ボディーガードをやってくれたの。プロのダンサーになってからは、私のマネージャー」


「なんか凄い。海外まで行っちゃうなんて」


「日本の武道って、海外でわりと人気があるのよ。だから、その頃教えてた道場で、海外での指導の職を都合して貰えたのよね。で、そっちで働きながら、私の送り迎えその他諸々を。えっと……空手? 柔道? どっちだったかしら」


「両方だ」


 五島はむっつり答えると、大きく無骨な手には似合わぬ華奢なグラスを取り、水を飲んだ。



   † † †



 夏蓮の両親は、もともと海外留学に反対していたのだ。歳の離れた末っ子の彼女は、当時大学生だった五島の目から見ても、甘やかされていた。

 せっかくのダンスの才能を伸ばさないのはもったいない、と彼女の両親を説得した時は、当時のバレエスクールの講師に相当感謝されたものだ。


 そういう経緯もあって、例の事件を受けて夏蓮の両親に頼まれた際、すぐさまドイツに飛んだわけだが、五島がその決断をしたのにはもっと大きな理由があった。


 ただ、単純に、ダンスを止めて欲しくなかったのだ。



 初めて夏蓮の踊りを観た時の衝撃を、五島は今も覚えている。

 たいして興味も無いまま、ほぼ無理矢理両親に連れられて観に行った発表会が、生まれて初めて観る舞踊だった。


 簡素な背景の後ろから登場した夏蓮が舞台の中央で立ち止まり、すっと腕を伸ばし最初のポーズをとった瞬間、舞台上の空気が一瞬で変わった。


 背中と両腕に、鳥肌が立った。


 僅か数分の出番だったが、その間五島は呼吸どころか瞬きすら忘れるほど舞台に引き込まれていた。

 舞台上で踊っているのが「お隣の夏蓮ちゃん」であることなど、意識の端にものぼらなかった。ただただ、舞台上で繰り広げられる芸術に心を奪われていただけだった。


 それまでの五島は武道一辺倒で、正直なところバレエやダンスなどは、飛んだり跳ねたりといった遊びの延長にすぎないとさえ思っていた。

 だがその数分間は、五島が今まで見ていた世界をガラリと変えるものだった。


 ありふれた日常に光が満ち、花が咲き乱れ鳥が歌い、瞬きをする度に極彩色の様々な悦びを繰り出してくる。

 そんな美しい、美しすぎて時に息苦しくなるほどの、世界の始まりだったのだ。



   † † †



 当時のことを追想していたのは、ほんの僅かな時間だった筈だ。

 五島は口の中のほど良くスパイスの香るラム肉を飲み下しながら、現在へと意識を戻した。


 メインの肉料理を食べ終わる頃になり漸く腹が満たされたのか、大月陽は店内の装飾を仔細に眺め始めた。

 食器の意匠、キャンドルホルダーのデザイン、卓上花のアレンジ、壁の装飾。

 少し身体を引いて身じろぎし、テーブル上の数々の皿やグラスを角度を変えて見渡そうとしている。


 ひとりでワイン一本をほぼ空けてしまいご機嫌な夏蓮が、フォークを置いて大月陽の方へ身を乗り出した。


「どうしたの? もう、お腹いっぱいかしら? それとも、飽きちゃった?」

「いや、そうじゃなくて。どうやって描こうかなって‥‥」


 ああ、と頷きながら、夏蓮が吹き出した。


「わかるわ。私も何かあるとまず、どう踊ろうかって考える」

「ですよね」



 ふたりは当たり前のように笑いあっているが、五島にはその感覚がさっぱりわからなかった。


 自分の仕事は、夏蓮を護りサポートすることだ。

 トラブルが起きた時に、どう反応対処するか。反射神経が全てと言っても良い。

 自ら何かを生み出すというのは五島にはあまり馴染みの無いことだったし、そもそも芸術的な素養は皆無だ。


「食事のシーンをどう踊るか」について語りながら上半身だけで小さく振りをつけてみせる夏蓮と、頷きながら全ての動きを頭に焼き付けるように見つめている大月陽。


 抑えた仕草とはいえ、食事中に踊るなど行儀の悪いことこの上ない。だが、夏蓮がそれをすると、なんとも言えず優雅でチャーミングであることは否めなかった。周囲の客も食事を忘れて見惚れている。



 そんな光景を眺めながら、五島はお決まりのちょっとした疎外感を感じていた。

 夏蓮の付き合う人々には、ジャンルは様々だが圧倒的に芸術家が多い。彼らは、感性が根本から違うように思う。


 五島は彼らの領域に足を踏み入れることが出来ないし、そうするつもりも無かった。



______________________________________



五島「夏蓮、食事中に踊るのは」

夏蓮「もう、ごーちゃん怒ってばっかり」

五島「お前が怒られるようなことばかり」

夏蓮「ね、陽。このひと口うるさいでしょ。きっとね、うちの親からお目付役を頼まれてるのよ。いつも小言ばっかり言うんだから」


五島「少しはひとの話を……ハァ。どうせ聞かないんだから、言っても無駄か」

夏蓮「そうよ(ニッコリ)」


陽(わあ……五島さん、お疲れさまです………)


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