第65話 五島武一
今日もあの青年が来ている。
藤枝画廊からの紹介された画家、大月陽。
スタジオの隅っこに胡座をかいて座り、スケッチブックを抱えて一心不乱に絵を描いている。
その真っ直ぐな視線はほとんど夏蓮に固定されており、手元のスケッチブックには時折ちらりと視線を送る程度だ。見なくても、自分の描いた線がわかるのだろう。
五島武一は足音を忍ばせてスタジオの壁沿いに回り込み、大月陽の傍に立った。スケッチブックを見下ろしてみると、一面に様々な絵がいくつも描き込まれている。
一瞬のポージング、表情、指先の動き、髪の流れ、ダンスシューズの皺。
ザクザクと描き続け、紙面がいっぱいになると素早く新たなページを開き、また描き始める。夏蓮が踊っている間は描き止めることは無いだろうと思わせる勢いだ。
しばらくすると、夏蓮は練習を中断し汗を拭きながら振り付け師と話し始めた。スタッフが持ってきたドリンクを受け取る間も、真剣な表情で振り付け師との会話に集中している。
夏蓮が何度か頷くと、振り付け師は片手を挙げた。休憩の合図だ。
少し目を伏せたまま、夏蓮は大きな鏡の前を横切りゆっくりとスタジオの隅へ向かう。
これは頭の中でイメージを確認している時の癖だった。それは内省的なキリンがなるべく物音を立てないよう、サバンナの草むらに潜む小さな虫達を踏まぬよう、慎重に歩いている姿を想い起させる。
だが実際は、頭の中で描くイメージが、いつもの休憩ポイントに辿り着くタイミングでちょうど終わるように、無意識のうちにスピード調整して歩いているだけなのだと、五島は知っていた。
ちょうど陽たちの居る対角で夏蓮は立ち止まると、首周りの汗を拭い、手にしていたドリンクに口を付けた。
飲み終わっても、夏蓮は壁の方を向いたまま俯いてじっと立っている。
そんな彼女に、スタッフの誰も声をかけない。頭の中で様々なことを整理・反芻しているのを皆わかっているからだ。
いつもの光景を見届けると、五島武一は大月陽に声をかけた。
「どうも、大月くん。順調ですか」
……反応がない。瞬きすら忘れ、一心不乱に絵を描いている。まるで、頭の中に録画した映像を全て紙の上に留めようとしているかの様に。
五島武一は、胡座をかいている陽の隣にしゃがみ込み、肩に手を置いた。
「大月くん」
「ふごっ」だか「うおっ」だかと声にならない叫びをあげた大月陽は、反射的に身を竦ませ左肩を壁にぶつけた。右手に握っていた鉛筆が手から飛んで、床に転がる。
「……熊が出たわけじゃないんだから、何もそこまで驚かなくても」
五島は小さなため息をついて鉛筆を拾うと、左半身を壁にピッタリ貼り付けて目を見開いたままの陽に差し出した。
「………すみません、五島さん。急だったんで、ちょっとビックリしちゃって」
「いや、もう何分も前からここに立ってたんだが」
「あ、えっと……すんません」
大月陽はひょいと首を竦め、鉛筆を受け取った。
一度大きく肩を上下させ深呼吸すると、緊張が解けたようにヘへ……と笑う。凛々しく整った顔立ちなのに、こういう時は妙に愛嬌があって憎めない。
厳つく強面で体格の良い自分とは、対照的だ。
「相変わらずの集中力ですね。作業中に申し訳ないが、そろそろ出なくてはならなくて」
「あ、はい」
立ち上がりながらネクタイを直す仕草につられ、大月陽が急いで立ち上がろうとするのを手でとどめると、五島はこの後の待ち合わせ時間を念押しした。
「……では、また後で。あ、そのままで結構」
再び立ち上がろうとする陽を制し、五島はのっしのっしとスタジオを横切りながら夏蓮に声をかける。二言三言言葉を交わしながら、いつものように互いに手を挙げて挨拶らしき仕草をして、スタジオのドアを開ける。
ドアが閉じる瞬間、スケッチブックをかき抱くようにして描いている陽に、夏蓮が弾むような足取りで近づいていくのを横目で一瞥し、五島はスタジオを後にした。
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