第71話 五島さんのおしごと


 夏蓮の熱烈な抱擁から苦労して陽を救出し、五島はコーヒーを淹れ直しにキッチンへ足を向けた。


 徐ろに踵を返して絵の前に戻り床に座り込んだ夏蓮は、両手の指先を合わせ口元で交差させたまま、じっと絵に見入っている。


 100号の大きな絵の方は、先日の舞台の1シーンだ。

 冒頭、白鷺が人間の姿へと変わる瞬間。軽やかな跳躍から片足を後ろへ高く跳ね上げたまま着地するところ。

 背景は暗い藍色で、今まさに着地しようとしている床面だけがほの白く光っている。暗い背景に夏蓮の白い肌と純白の衣装が浮かび上がり、真っ白な鳥の羽根が舞い、その羽根がふわりと淡く輝いている。

 腕に絡めたショールが風を孕み、髪の後れ毛がなびいて、跳躍の高さと浮遊感がよく表現されていた。



「これ……凄いわ」


 先ほど作ったコーヒーは、時間が経ってしまったので捨てた。

 半ば呆然としたような夏蓮のつぶやきを背に聞きながら、五島は低いテーブルに改めてコーヒーメーカーをセットする。


「ショールの質感まで、こんなに……」


 大月陽の説明によれば、衣装に関しては恋人である清水恵流の意見が大変参考になったらしい。ショールに光を反射する素材が織り込まれているという彼女の推測は、見事に当たっていた。


 それは、大月陽のシャッター絵を観た夏蓮が急遽作らせたものだった。

 歌舞伎でいうところの「早着替え」や「引き抜き」といった衣装替えを、照明の色を変えることで表現したのだが、喜びを表すパートのところと、その後の苦悩のパートでショールを使い分けることで、より変化を付け、効果的に視覚に訴えることが出来た。



「ここ、一番好きなパートなの。白鷺が人間になる瞬間。着地と同時に照明が変わって、人間の世界に降り立ったことを示すの。くるっと一回転したらもう、人間になっているのよ」


「俺も、その瞬間がすごい印象的だったんです。最初でガツンとやられたっていうか。後半の、紫のライトのとことか赤のライトのとこと迷ったんですけど」


 どうやら大月陽は、照明の色でストーリーを把握しているらしい。


「あと、死んじゃうとことかも描くには面白そうだったんです。でも、お祝いと記念の絵だから、やっぱこっちだなって」



 夏蓮は無言で何度も頷くと、隣の小さな絵に視線を移した。


「これは……?」



 こちらは、おそらく練習の時の姿だった。

 真剣な表情で滴る汗を手の甲で拭う瞬間。だが、それすらもひとつのポーズであるかのように美しかった。

 真っ暗な背景にはところどころに微妙に赤い色が混じり、うねっている。視線の先にあるものを焼き尽くすような強い瞳で前方を見据えている夏蓮。その身体から白く揺らめき立ちのぼる輝きは、熱気だろうか。情熱? オーラ?



「普通の練習風景を見てて、なんかすごい闘争心っていうか……熱とか圧力みたいな? メラメラ、グオオオオって感じが出てて、どうしても描きたかったんです。だから、勝手に描いちゃった。これは俺からの誕生日プレゼントです」



 夏蓮が再び大月陽に飛びつくのを、阻止することは出来なかった。

 目を白黒させている大月陽を見かね、五島は首に絡み付いて離れない両腕を引き離そうとするが、力一杯しがみついていてなかなか離れない。

 彼女は感情と行動が直結しているので、こういうとき場の混乱を収めるのも、五島の役目だった。


「夏蓮、ここは日本で彼は日本人だ。嬉しいのはわかるが、困らせるんじゃない」


 ようやく腕を離した夏蓮だったが、その瞳からはポロポロと涙が零れていた。



 狼狽える陽を他所に、五島は落ち着いてポケットからハンカチを取り出し夏蓮に手渡す。夏蓮は涙を拭くと、頷いて五島にハンカチを返した。


「ごめんなさい。私、感激してしまって」


 指先で目元を擦り、ほう、とため息をついた。


「今まで、数えきれないほどたくさんの写真家に写真を撮られたし、絵を描いてくれた人もいた。でもみんな、いかに私を美しく撮るか、技術的難易度の高いポーズを切り取るか、って作品だった。こんな風に、私の内面……魂の部分を見透かして表現してくれたのは、貴方が初めて」


 夏蓮は立ち上がると、今度はゆっくりと大月陽に歩み寄った。

 そっと腕を伸ばし、再び両腕を首に回す。陽の肩に顎を乗せ、感極まるという風情で言った。


「貴方が初めてよ、陽。本当にありがとう。あなたは素晴らしい画家だわ」


 五島が節の目立つ大きな手で、華奢なカップにコーヒーを注ぐ。

 優しく香り高い湯気が漂う部屋で、夏蓮はしばらくの間、固まっている大月陽の首に絡みついたままだった。




 明日のお披露目にどうしても来てくれ、とごねる夏蓮を宥めるのは一仕事だった。

 前述の彼女と花火大会に行く約束があるから出席は出来ない、と事前に聞いていたのにもかかわらず。


 大月陽が帰った今も、夏蓮はまだ拗ねている。過去に自分の誘いを断られた経験がほとんど無いだけに、すんなり諦められないのだろう。


 様々な職種の面白い友人達や著名な知り合いが大勢集まるから人脈づくりにもなるのだ、とかき口説く夏蓮を、「彼女との花火大会」を優先し何の迷いも無く一蹴してしまう大月陽という男は、正直興味深い人物だと五島は思った。



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優馬「理由をそのまま言っちゃったのは、『耳障りの良い理由をこじつける』って知恵が無かっただけだと思いまーす(・∀・)/」

陽「だって、ほんとの事だし……嘘の理由つけるなんて、発想すらなかった…」


優馬「嘘も方便、って言葉があってだな」

陽「それぐらい知ってるし」

優馬「知ってても、使えないなら無駄知識だと思いまーす(・∀・)/」


陽「………(_ _。)」


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