第32話 悪魔バージョン降臨
鉛筆が紙の上を滑る音が続く。
陽は帯の形を描き続けているが、背を向けているせいで陽の視線を感じなくて済む分、恵流は先ほどよりリラックスしていた。
今までは気付かなかったが、エアコンの微かな稼働音や冷蔵庫の唸る音が時おり聞こえる。
暇なので、恵流は作業台の上の絵の具や絵筆類を眺めていた。
「んー……オッケ。もっかい立って」
小さく唸り、陽は恵流を再び立たせ先ほどと同じポーズを取らせた。部屋を横切ってスツールへ戻り、手早く後ろ姿全体を描き始める。
ザッと数分でデッサンを終えた陽が事も無げに言い放った言葉に、恵流は驚いて振り向いた。
「よし。恵流、帯取って」
「……え?」
「自分で着付けしたって言ってたよね? ちょっと、構造を見たいんだけど」
(いやいやいやあのでも………!!)
恵流は一瞬言葉を失った。
「いやあの、だって……今、描いたよね?」
「構造がわからないと、見たままにしか描けない。構造がわかれば、想像して他の角度からも描ける」
「……それ、前にも言ってたけど……」
「そ。大友先生から何度も言われた」
大友先生、というのは、陽の所属していた高校の美術部顧問の教師だ。恵流は陽がその教師をとても慕っていたことを知っていた。
「でも、あの……」
「ゆっくりね。過程がわかるように」
陽はスツールを恵流の側へ移動させながら、容赦無く言いつける。諦めた様に、恵流は帯飾りを外して作業台の隅に置いた。
「まず、結び目を前に持って来ます」
「うん」
恵流は帯を掴んでぐるりと半回転させると、半分の幅に折って挟み込んだ帯の端を引っ張り出し、挟んであったハンカチを取り出した。
「え、何それ。どっから出て来た」
「これは滑り止め代わり。帯の間に挟んであったの」
恵流はハンカチを作業台に置くと、蝶結びの中央の一巻きを緩めた。
「これ外すと、分解しちゃうんだけど……」
「続けて」
巻いてあった分を肩に掛け、蝶結びの羽根の部分を手で慣らして見せる。
「あ、これ折ってあるだけなんだ」
「そう。折って、こうしてひだを取って、これで巻くの。で、形を整える」
「ちょっと待った」
帯の巻きだたみとひだの取り方を、手早くスケッチする。
「……わかった。で?」
で? ……じゃないよ。もう……
「帯はこれで終わり。この、ぎゅって結んであるとこ解いたら、落ちちゃう」
陽は黙ったまま恵流に向かって鉛筆を振り、次の工程に移るよう指示した。
「帯外すと、けっこうカッコ悪いんだけど……」
「……構造がわからないとぉー」
ため息をつき、恵流はしぶしぶ結び目を解く。帯がパラリと緩み、バサッと音を立てて床に落ちた。
「あ、またなんか出て来た」
陽はスツールを降りると、落ちた帯の隙間から転がり出たものを拾う。
「それは帯板。帯の正面のお腹のところが綺麗に平らになる様に、挟むの」
「なるほど……で、それは?」
「これは、伊達締め。浴衣の仮留めかな」
「へえ、それは後ろ前にしないんだ」
陽は再び座り直し、またも鉛筆を振るだけの動作で恵流を促した。恵流は伊達締めの紐を外す。
「待った。今のそれ、どうやって結んでた?」
外した紐を再びからげ、紐の端を内側へたくしこむ。
「おっけ、憶えた。次」
「……あの、陽? ちょっとくらい手伝ってくれても……」
中には浴衣用のキャミワンピを着ているものの、徐々に無防備な姿になっていくのが恥ずかしくて、その必要も無いのに弱々しい抗議を試みる。
「無理。両手塞がってるから」
陽は座ったまま、クロッキー帳と鉛筆を持った両手を上げた。目元にはあのからかうような光が浮かび、殊更にっこり笑ってみせる。
(出た……大月陽、悪魔バージョンの降臨だ……)
恵流はノロノロと、再び伊達締めの紐を外した。
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