第33話 湖と月の妖精
「……で、裾の位置を決めたら、この腰紐で縛って固定して、こうして……おはしょりを整えるの」
「それが、最後の部品?」
部品って……内心、クスッと笑いながらも恵流は頷いた。
「うん……あ、中のキャミの下に、タオル巻いてるけど。ウエストがブカブカだとカッコ悪いから、補正のためにね」
タオル? と不思議そうに首を傾げていた陽は、納得顔で頷く。
「じゃあ、それも取って」
陽は鉛筆の尻で指し示した。
「腰紐? でも、もう浴衣の構造はわかったでしょ?」
「いいから」
鉛筆の先でトントンとスケッチブックを叩き、恵流を急かす。紐の端を探るふりをしながら、恵流は俯いてこっそり嘆息した。
(かなり恥ずかしいんですけど……)
シュル、と紐を解くと、おはしょりでたくし上げていた裾が落ちて床に広がった。前の合わせがはだけない様、恵流は両手で襟元を押さえる。
「よし、思った通り」
陽はスツールから飛び降りると、恵流の横をすり抜けて窓へ向かい大きく開け放つと、身を乗り出した。
「完璧」
嬉しそうに急ぎ足で戻ると、リモコンを手に取りエアコンを切る。そして、部屋の電気を消した。恵流は身動きもできず、目で陽の動きを追うだけだ。
陽は床に胡座をかいて座り、窓から見える月の位置を確認した。かと思うと、飛び跳ねる様に立ち上がって大きな歩幅で部屋を横切り、作業台を動かし始めた。
こういう時の陽は、身体の中から湧き上がる力に突き動かされているかの様な躍動感に満ちている。目には見えないものの、すぐ側に寄れば触れる事が出来そうな程の何かを発するのだ。
「ちょっと待ってて」
戸惑いの表情を浮かべ陽の作業を見守っている恵流にそう言いおいて部屋を出ると、すぐに小さな格子棚と薄いクッションを持って戻って来た。窓の側に棚を配置し、側にクッションを置く。
「ここに座って、月を眺めてて。そう、いいね。そんな感じ」
恵流は初め、クッションの上に正座した。が、すぐに思い直して足を崩し、横座りに座り直した。
陽は恵流の浴衣の裾を、波立たせる様に効果的に広げた。十二単を着て座っている姿に似せたものだ。
「少し時間かかるから、楽な姿勢にして。その棚に寄りかかってていいから」
陽は作業台の上のグラスを恵流の前に置くと、スツールに戻る。スケッチブックを取り上げ、再び床に胡座をかいて座った。
「この棚も、先輩が作ったの?」
「んー、多分。そんなのが物置にいくつもあるから、どれがどれやら」
最も楽そうな姿勢を探し当てるのに、少し時間がかかる。
恵流は、陽が作った裾の波を壊さぬよう気をつけながら、少しだけ身体の向きを調整した。
「なんで棚ばっかりあるの?」
「……色々作ったらしいんだけど、気に入ったものは引っ越し先に持って行ったり人にあげたりするんだよ。だから、基礎練習で作った棚ばかりが残る」
陽は早くも、大まかな配置を描き入れている。窓枠と棚、そして恵流のシルエット。
「……こんな感じで、良いでしょうか」
ようやく姿勢が定まったらしい。棚に右肘を預け、膝に置いた左腕と背中が見える角度で斜めに座り、恵流は首を巡らせて訊ねる。
「左手の指先だけ、棚にかけられる? その方が袖が綺麗に出る」
「……こう?」
「そうそう。疲れないかな」
「大丈夫だと思う」
少し動くだけで、月明かりが作る影の形が変わる。恵流は改めて、月の光がこんなにも明るい事に気付かされた。
「よし、じゃあ描き始めるよ。月を見てて。疲れたら言ってね」
「はい」
ザッ、ザッ……と、鉛筆が走りはじめる。
クロッキー帳とは違い、スケッチブックに描く時は鉛筆の音が少し荒くなるのを、恵流は知っていた。他の人もそうなのか、それとも陽だけの癖なのか、それはわからない。単に紙質の違いのせいなのかもしれない。
開けた窓から、生ぬるい風が入ってくる。
エアコンを切っているが、帯を解いたからか、それほど暑くは感じない。むしろ、それまで冷えきっていた部屋に入ってきたぬるい風は、心地良いぐらいだった。
裾に隠れたつま先が暖まってきたのを感じ、恵流は初めてつま先が冷たくなっていた事に気付いた。
ザザッ、ザザッ……鉛筆の音が、心地よく耳に響く。
月明かりを浴びながら、身体がじわじわと暖まってくるのを感じる。先ほど食事を済ませたばかりだし、ビールも少し飲んだ。帯を解いて血行が良くなったせいもあるのかもしれない。
頭がぼうっとして、ほんの一瞬、意識が遠のく。ここ数日、ハンクラフェスの準備に追われて寝不足が続いていたのだ。
眠っちゃいけない、でも……
ザザッ、ザザッ………
迷いの無いリズミカルな鉛筆の音は、まるで催眠の導入のような効果を恵流にもたらしつつあった。
背中に感じる陽の視線が、鉛筆の音と共に身体に刻み込まれる。
そしてその度に、少しずつ少しずつ、恵流はうっとりと眠りの淵に近づいて行く。いや、陽の視線で縛られた身体に、眠りのほうがじわじわと近づいてくるのだ。
月の明かりが少しずつ、その角度を変えて行く様に。ゆっくり、ゆっくりと。
手を繋いだ花火大会からの帰り道、高い空に見えた銀色の月は、今やうんと手を伸ばせば届きそうな程に近づいて、金色の光を煌々と放っていた。
† † †
「……恵流、恵流?」
呼ばれて、恵流はハッと身を起した。素早く周りを見回すと、跪いて微笑んでいる陽と目が合う。
「ごめん。私、寝ちゃった」
頬の下に敷いていた右手が、少し痺れている。ごわごわと痺れた指で、恵流は瞼を擦った。
「大丈夫。おかげで、2ポーズ頂きました」
陽はピースサインを作り、ニッと笑った。
「ハンクラで忙しかったんだよな。無理させちゃって、ごめん」
心配するように覗き込むと、恵流の頭をそっと撫でる。
「疲れたね。ご苦労様でした」
陽の瞳に、低く輝く月が映り込み、キラキラと光をたたえている。
……これは、どこかで見た事がある。どこだろう……
恵流は、未だぼうっとしている頭で記憶を探る。
「……みずうみ。夜の、湖」
思い出した瞬間、言葉が零れ出した。口がまわらず、子供の様な口調になっている。
「うん? 寝ぼけてる?」
……違うの……
恵流はとろんとした目のまま、ゆるゆると頭を振った。
月の光をたたえた陽の瞳。そして、すっきりと伸びた長い睫毛が作る影。
それは、あのシャッターの絵を思い出させた。
月の光を受け、キラキラと輝く花びらを浮かべる湖。大きな樹の枝と雲の影。
昏く深い湖の底から音も無く湧き出す水は、どこまでも清らかでひんやりと冷たいだろう。
その湖の淵に座り水底を覗き込む自分の姿が思い浮かんだ。水底からこちらを見つめ返すのは……
その顔を見る前に、瞼が下がってしまう。また、意識が遠のく。
ふと、背中が熱くなった。
落款どころじゃない。これは、焼き印だ。背中に焼き印を押された……ふわふわとした意識の中、あまりの熱さに、恵流はそう思った。
「恵流は色が白いから、月の光がよく似合うね。月の妖精みたいだ」
陽の声が、ふんわりと温かな息とともに耳から潜り込み、身体中に染み渡る。その時やっと、焼き印は背中に廻された陽の両手である事に気付いた。
背中の熱さと首筋に触れるほの温かさ、そして脳裏に浮かぶ水の冷たさ。
それぞれの感触とイメージに、僅かに残っている意識がばらばらに引き込まれてゆく。
恵流は力尽きた様に、陽の肩に額を預けた。
先ほど思い浮かんだ自分の姿が再び浮かび、その背中にトンボの様な薄い羽根が生えた。
「月の、妖精……」
無意識の内に陽の言葉をぼんやりと繰り返しながら、恵流は最後に思った。
背中に焼き付くこの掌の熱さを、私は一生、忘れないだろう……
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<オマケ>
恵流「お絵描きスイッチ入っちゃうと、陽は誰にも止められないから……」
アヤ「ね? 絵画バカって言ったでしょ?」
陽「なんかひどい言われ様」
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