第31話 花火の後
「よし、そろそろ帰ろう」
え、と恵流は声を上げた。
「もう終わりなの? みんなまだ見てるよ?」
陽は立ち上がり、恵流の両手を引っ張り上げた。
「たぶん次で最後だから、見ながら帰ろ。終わってから帰ると、道がかなり混むから危ないんだ」
屋台で買った食べ物の残骸を手早くまとめビニール袋に入れる。恵流は扇子を広げ、細々と立ち働く陽を扇いであげている。
陽はレジャーシートを畳むと、カーゴパンツのポケットにしまった。
「そのパンツ、何でも入ってるね。魔法みたい」
「人の服を四次元ポケットみたいに。でも、ほんとにそうならいいんだけどな」
「絵の道具入れるんでしょ?」
「当然。あ、恵流の手芸道具も入れてあげるよ」
「わーい、ありがと」
夜空を見上げている観客達の中を、手を繋いでゆっくり歩きながら、ふたりは次の花火が上がるのを待っている。
「1時間なんて、あっという間だったね」
「12,000発だっけ。久々に来たけど、いいね。来年もまた来よう」
「うん」
「恵流は浴衣着用ね」
恵流が手にしていた扇子で陽を叩く真似をした時、ボンッと音がした。
「お、フィナーレ始まった」
超特大の花火が、花開いた。
続けざまに何発もの花火が打ち上げられ、全身に響く轟音と共に眩いほどの光の粒が空を覆う。観客達は今日一番の歓声を上げた。
ちょうど河川敷から道路に出たところで、ふたりは立ち止まり空を見上げている。
「すごい……」
空一杯に咲いた花火はキラキラと尾を引いて消えて行く。かと思うとそのそばから、これでもかという程に次々と打ち上がる。風のない空に真っ白な煙を漂わせながら、視界を覆い尽くす程の光の花々が咲き乱れる。その迫力は凄まじいとさえ言えるものだった。
数分間に渡る打ち上げの後、パチパチと音を立てながら最後の光が消えると、どこからともなく拍手がわき起こった。
もちろん、ふたりも例外ではなく、笑い合いながら心からの拍手を送る。
「なんか、凄過ぎて笑える」
「うん。ちょっと怖いぐらいだったね」
帰り支度を始める観客を残し、ふたりは一足早く帰路に着く。
「恵流、足痛くない?」
「うん、今のところ大丈夫。だいぶ慣らしてから履いてきたから」
遠くで鳴っている大会終了の空砲を背中で聞きながら、ふたりは駅へ向かった。
† † †
「ちょっと蒸すな。昼間、ずっと閉め切ってたから……」
部屋に入ると、陽はすぐさまクーラーを点け扇風機を回した。
「陽? あのね、下駄で草むら歩いたから、少し足が汚れたかもしれないんだけど……」
恵流が玄関先でもじもじしている。
「ああ、別にかまわないけど。気になるなら、シャワー室使って」
椅子を出しイーゼルをセットしながら、陽は部屋の突き当たりのドアを指し示した。
「電気はドアの横。入ってすぐに洗面台、突き当りがシャワー室。右のドアがトイレね」
「……お邪魔します」
恵流は下駄を脱ぎ、つま先立ちで部屋に入った。鼻緒で擦れたせいか、左足の親指の付け根だけ、少し痛む。
陽がクロッキー帳とスケッチブックを引っ張りだしている棚に、描きかけの油絵が立てかけてあった。
「あ、すごい。もう出来てる」
「んー? ああ、これね」
陽は、寄り添って立つ優馬と栞を描いた絵を見遣った。
彼らは共に微笑みを浮かべ、互いに相手の方へ首を少し傾けている様子が仲睦まじく感じられる。
「すごーい。綺麗だし、ふたりとも最高に幸せそう」
恵流は絵の側まで来て屈むと、作業台の下に置いてある造花の入った袋に手を伸ばした。実際に絵にあてがって、バランスを見てみたくなったのだ。
「恵流、それは後で」
「あ、そっか」
促されて立ち上がり、再び足早に突き当たりのドアへ向かう。
「あとは乾燥させて、ニス掛けしたら終わり。その後は恵流の出番だから。あ、タオルは洗濯機の横のラックにあるやつ使って」
「うん。わかった」
ドアを開け電気を点けると、正面に細い姿見がかかっており、恵流は突然映し出された自分の姿に少し驚いた。
姿見の右にはシンプルな洗面台。その奥には古びた二層式の洗濯機。移動式のワイヤーラックの上段には畳んで積まれたタオルが、その下には洗濯洗剤やシャンプーの類いが並んでいる。
洗面台の鏡を見ながら少し髪を直し、化粧崩れをチェックすると、シャワー室のドアを開けた。
† † †
「シャワーとタオル、お借りしました。ありがと」
「どういたしまして。恵流、ここ」
作業台の上に積まれた雑多な道具が一方に寄せられ、半分近く空いたスペースには、氷の浮かんだ麦茶のグラス。
作業台の傍らには、いつも陽が絵を描く時に使う丸椅子が置かれている。
部屋の反対の壁近くにダイニングセットが片付けられ、クロッキー帳とスケッチブック、水彩絵の具が準備されていた。
軽く足をすすいで来た恵流に、陽は早速立ち位置を示した。恵流は作業台の斜め手前、窓の正面に位置する場所に立った。
「最初は立ってて。疲れたら言ってね」
「えっと……どうしてたらいいの?」
そうだな……と呟きながら、陽は恵流の右手を取り作業台の淵へ指先を置き、左の手は自然に身体の脇へ垂らすポーズをとらせた。身体の向きは正面より若干右へ傾ける。
「よし、そのまま」
少し離れて置かれたスツールの上のクロッキー帳を取り浅く腰掛けると、陽は描き始めた。
サッ、サッ……と、柔らかい鉛筆が紙の上を走る音が聞こえる。大きく手を動かし、手首のスナップを使って大まかなシルエットを描いているのがわかった。
「……シャワー室って、ほんとにシャワーだけなんだね」
慣れないモデル業が照れくさくて、恵流は何か話さずに居られない。
「ん? ああ、うん……前に住んでた先輩達は、近所の銭湯に行ったりしてたみたい。俺はシャワーだけで充分だけど」
「ふうん……」
陽が真剣に描いているので、あまり話し掛けては悪いかな、とは思う。が、やはり沈黙に耐えられず、恵流は次の話題を探す。
「あ、テレビ無いんだね。この前来た時には気付かなかったけど」
「……ああ、どうせ見ないし。だいぶ前に捨てた」
鉛筆を握った手に器用に握り込んだ消しゴムを使い、陽はデッサンに修正を加えている。
「ゲーム機もパソコンも無いんだ。本とかは……あ。あれ、画集かな?」
恵流は少し首を伸ばし、棚に並んだ本を覗いた。
「うん。辞書と図鑑と画集、あと写真集とか資料集ぐらいかな。恵流、動かないで。あと、ちょっと静かに」
「う……ごめん」
部屋の中には再び、サッ、サッという鉛筆の音だけとなった。蝉ももう鳴いていない。
程なくして、陽が立ち上がった。
「恵流、今度は後ろ向き。さっきと同じポーズね」
つかつかと歩み寄りながらクロッキー帳を脇に挟み、手早くポーズをとらせ向きを調節する。
「大丈夫? 疲れてない? 麦茶飲む?」
「……疲れてはいないけど、ちょっと飲みたい」
手を伸ばしかけた恵流を制し、陽は鉛筆を耳に挟むと空いた右手でグラスを掴んだ。
「はい、飲んで」
有無を言わさぬ口調で恵流の口元にグラスを運び、少しずつ飲ませる。
「……飲んだ? もういいの?」
恵流が瞬きでなんとか合図すると、陽はグラスを置いた。
「よし、じゃあ続き……って、これ、どうなってんだ?」
陽は結んだ帯に顔を近づけ、眉根を寄せて観察し始めた。
「えっと、これは『蝶結び』っていう基本的な結び方で……」
「恵流、ごめん。やっぱここ座って」
丸椅子を恵流の後ろへ置いて座らせると、陽は耳に挟んだ鉛筆を取ってまた描き始める。恵流の説明は耳に入っていないらしかった。
結構難しいな……と呟きながら、陽は足を大きく広げ腰を落とした姿勢で一心不乱に帯をデッサンしている。
その音を背中で聞きながら、恵流はようやく思い至った。
(どうせ椅子に座ることになるなら、さっき、自分で麦茶飲んで良かったんじゃない……?)
……まあ、別にいいけど……
恵流はそろーっと手を伸ばし、もうひとくち、麦茶を飲んだ。
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